突拍子もなく、職場の後輩がダイエットを始めました
突拍子もなく、職場の後輩がダイエットを始めました。
それは僕ら彼の先輩一同にとっては、少しばかり驚くべき出来事でした。何故ならば、入社と共に濃厚な豚骨ラーメンを中心とするそのカロリー摂取抑制を度外視した非常に偏った食生活によって「お腹のお子さんはどうですか?」と、ややセクハラくさい冗談を上司辺りから言われそうな体型へと着実に変貌を遂げていった彼に対し、彼の健康を心配した僕ら職場の先輩一同は正鵠を射た忠告によって何とかダイエットに踏み切らせようと必死にがんばっていたのですが、彼の我が道を行く強情な性格と怠惰な生活を好むだらしなさによってそれらは悉く無駄な努力に終わってしまっていたからです。
彼がダイエットに目覚めてくれたのは良い事なのでしょうが、ですから僕らは素直にそれを喜べませんでした。
「解せないわねー」
などと、課のお局様であるサヤカさんは言います。
「私はアイツに常日頃から滔々と説教をし続けて来たのよ? それを全て暖簾に腕押しも真っ青って感じでしかとぶっこいて来たアイツが、どうして勝手に自主的にダイエットを始めるのよ?」
彼女は膨らんでいく彼の豊満なお腹に対し、よくこんな事を言っていたのです。
「その昔は“飲みにケーション”だとかいってほぼ強制的に飲みに付き合わされて、飲食業界の活性化と引き換えに中年男性共の健康と莫大な医療費を犠牲にするのが避けられなかったのが実状の理不尽が、ようやくここ最近になって改善されて来たってのに、どうしてあなたは自ら健康を害するような生活を進んで取っているのよ? 改善しなさい」
ただ、それは彼の触り心地の良い腹をワシワシと揉みながらの発言だったので、はっきり言ってほぼセクハラでしたし、「なら、どうして課長には注意しないのですか?」という後輩君の指摘に対しては、「当たり前でしょう? 課長は権力があるんだから。でも、あなたには権力がないのよ。弱者なのよ。だから、大人しく先輩の忠告に従いなさい」などと今度はパワハラ紛いなセリフを言っていたので、はっきり言って彼が反発するのも無理はない気がしないでもないのですが、それには目を瞑って、とにかく、彼女は納得がいかないのも無理はないように思うのです。
そんな彼女の訴えを聞くと同僚で男性社員の中谷さんが、かけている眼鏡を指で押し上げながら、「その理由なら想像が付かなくもないですよ」とそう言いました。因みに彼のあだ名は“メガネ君”です。いい歳こいた社会人がメガネ君です。はっきり言って同情を禁じ得ませんが、そう呼び始めた主犯であるサヤカさんはまったく気にしていないようでした。
「と、言うとメガネ君?」
なんて今も悪びれる様子もなく彼をそう呼び、そう訊きます。メガネ君は指で眼鏡を押し上げながらそれにこう返しました。
「ほら、新人の内木さんですよ」
「内木さん? 彼女がどうかしたの?」
「後輩君。彼女の指導係じゃないですか。それで柄にもなく色気を出したのじゃないですかね?」
その言葉にサヤカさんは大きく頷きます。
「ほぅほぅ。なるほど。エロは偉大って訳ね。それなら私の敗北も仕方ないと認めるしかないわね」
「いや、せめて“恋”って言ってあげましょうよ」と、それに僕。
はっきり言って勝つ気があったのか?ってな説得だった気もしますが、敢えてツッコミは入れないでおきました。面倒臭くなりそうなので。
そしてサヤカさんは、どういった判断基準なのかは分かりませんが、
「それなら私達先輩一同としては、生温かく見守ってあげないと駄目かもしれないわね。面白そうだから」
それに僕はこう尋ねます。
「でも、上手くいくようには僕には思えないのですがね」
僕も大概、失礼かもしれないと思いつつ。すると、サヤカさんは「馬鹿ね」と言い、それからこぶしを握り締めながらこう続けるのです。
「だから、面白いんじゃないの!」
僕はそれに何も返しませんでした。はい。まったくの同意見だったからです。
……まぁ、どんな理由であるにせよ、ダイエットをするのは良い事ですよね。
――が、
僕らの予想に反して、後輩君のなんやかんやは全く進まなかったのです。
どーゆー事かと言うと、
「なんで、昼飯抜いて、お菓子をそんなに食べているのよ!」
彼にはバランスの取れた食事という概念がほぼなく、
「人工甘味料のジュースは普通に肥る! そんなにガバガバ飲まない!」
ダイエットの知識がなく、
「どうしてダイエットしているのに、エレベーターを使っているのよ? 階段使いなさいな、階段!」
それ以前に根性がなかったりしたので、そもそも少しも痩せなかったからです。健康状態も、むしろ前より悪化しているのじゃないかって感じで。
「だからね、これを見なさいよ。最近じゃ、腸内細菌にも気を付けないとダイエットが成功しないって言われているの」
そんな彼を見てられないと思ったのか、或いは逆にもっと見たいと思ったのか、サヤカさんは必死にダイエット方法について彼に講義をしていました。
「ほら、このサイトを見てみなさいな。食べた方が良いのは、ヨーグルトとか納豆、あとは繊維分の多い野菜とか根菜とかみたいよ? 昼抜きなんか止めて、こーいうのを食べなさいな。ダイエットをするのって、健康の為なんだから、それで不健康になってちゃ意味がないでしょう?」
ですが、その説得に対し、ゴーイングマイウェイな彼はやっぱり聞く耳持たずです。
「そんなサイトなんて簡単に信用しちゃって良いのですか?」
なんて言います。
それを聞いてサヤカさんは頬をこれでもかってなくらいに引きつらせていました。
まぁ、確かに根拠とか証拠とかが提示されていない主張は安易に信じるべきではありませんが、彼にだけは言われたくわないというサヤカさんの気持ちも、それはもう分かり過ぎるってなくらいに分かりまくります。
「日本人はカリスマの意見に従ったり、周囲の意見に従ったりってな人が多いですが、僕はそんなのには反対なんです! 僕は自分の頭で考えて行動する! 僕は僕の方法でダイエットをして、試行錯誤の上でそれに成功してみせますよ!」
言っている事は立派ですが、要は彼が強情過ぎる性格の持ち主で、かつ楽してダイエットしたいって願望を捨てきれないでいるってなだけの話です。試行錯誤の先にある彼の身体が、だらしない仕上がりで自己主張をし、僕らと彼の意中の女性である新人の内木さんにその不健康さを披露する事になるのは目に見えているでしょう。
こりゃ、駄目だ。
と、僕ら先輩一同は同時に肩を竦めたのでした。
「しかし、あのバカ、一体どう言えば分かってくれるのかしら?」
ある日の職場、サヤカさんはそう言って腕を組み、首を傾げて唸っていました。このままじゃ、事が進みそうにもないので面白くないから、なんとか彼を説得したいのでしょう。強情で我が道を行くタイプのくせに、しっかりと気が小さい彼は、多分、女装でもしようものなら優先席で妊婦さんだと勘違いをされて誰かに席を譲ってもらえそうなあのボディをなんとかしない限り、内木さんにアタックなんてしそうにもありませんから。
まぁ、1%くらいは、彼の健康の為でもあるのでしょうが。
そんな時、不意にメガネ君が言いました。
「僕らじゃ無理でも、彼女になら説得が可能なんじゃないですか?」
その指さした先には内木さんがいて、機嫌良さそうにパソコンで作業をしていました。
「いや、でも、なんて彼女に言うんですか?」
と、それを聞いて僕は疑問の声を上げたのですが、その時にはもうサヤカさんは内木さんの所に向っていました。そして、
「あのね、内木さん。実はかくかくしかじかってな訳なのよ。なんとかならないものなのかしら?」
と、あっさりと事情を彼女に説明してしまいます。
……ど直球に後輩君が彼女を好きだってバラしやがったよ、この女。
すると内木さんは「ええ? そんな面白い事になっていたんですか? 教えてくれてどうもありがとうございます!」と、目を輝かせてそう言いました。
「今、“面白い事”って言いましたよね、彼女」
と僕は指摘しましたが、サヤカさんはスルーです。
そして、
「任せてください! わたしが言って、先輩達の後輩、わたしから見れば先輩の、あのやや過剰にふくよかな人のダイエットを見事に成功させてみせます!」
と、内木さんは力強く続けるのです。サヤカさんはそれを受けると、親指を突き上げるグーのポーズ。続けて、
「いやぁ、言ってみるものね。あっさり解決しそうだわ」
なんて嬉しそうに言いました。
ただしかしそれを聞いて僕は、一抹の不安というか、違和感というか、期待というか、そんなものを感じていたのですが。
……それから数日が経ちました。なんと、驚いた事に後輩君のダイエットは見事に成功したのです。ちょっと意外な程に痩せてしまった感じです。一体、彼に何をどう言ったのかと不思議に思って内木さんに尋ねてみると、彼女はニコニコとこう返しました。
「簡単ですよ! デブは嫌いって思いっきりふってやったんです!」
それを聞くと、嬉しそうにサヤカさんは手を打ちます。
「なるほど。ふられたショックであいつは痩せたって訳ね! 内木さんの男を見る目があるって分かって安心したし、後輩君はダイエットに成功するし、一石二鳥じゃないの!」
そして、そんな事を言いました。
……健康の為に痩せさせようとしていて、不健康になったんじゃ本末転倒ですし、そもそも時間が経ったら彼は元に戻ってしまう気もしましたが、まぁ“めでたしめでたし”って感じになっているので、僕は何も言わないでおくことにしました。