寂しさー第捌話ー
焔楽は着物が濡れる事もいとわず、湖に足を伸ばした。足の先から感じる水の感触は心地よく、気持ちがいい。奥に進んでいけば底は深くなっていき、湖の水は胸まで浸かった。
「……母さん」
焔楽は母の事を思い出しながら、目を閉じた。暗闇の中に映るのは、笑顔を浮かべる母の姿。こうしていると、気持ちが整理され、本来の目的にへと正してくれる気がした。
忘れてはならない。母さんを殺した法術師の男、多聞天。何が目的で母さんを殺したのか。母さんは妖怪で鬼だった。だから、殺されたのか。だから、殺されねばならなかったのか。一体母さんが何をしたというのだろうか。母さんは俺を、羅刹を育てながら、同じ種族である鬼を斬り平和に暮らしていただけなのに。
多聞天……。絶対に殺してやる。母さんの仇を討つんだ。法術師愛染から情報を聞き出し、とっとと本来の目的へ戻らねば。人間といつまでも共に過ごし、情が移ってしまえば、仇討ちなど困難を極める。情が移る前に別れるんだ。
「焔楽さん…?」
焔楽は目を開き後ろへ振り向いた。その先にいたのは、不安そうな表情を浮かべた椿鬼である。
「……ついてきたのか」
「綺麗な場所ですね」
「法術師はどうした」
「残ってくれてます。私が焔楽さんの事気にしたら、ついて行っても良いって言ってくれたから」
「……で、なんでついてきたんだ。ここは結界の外で危ねぇ」
焔楽が溜め息混じりに話せば、椿鬼は小さな声で「ごめんなさい」と口にした。その声はか細く、今にも泣き出してしまいそうなものだった。
「焔楽さん、私もそっちに行っても良いですか?」
「……好きにしろ」
「ありがとうございます」
椿鬼の様子は、先程までと違っていた。表情も不安と言うよりも、悲しげで儚さのある表情を浮かべている。何故そのような表情をしているのか焔楽には理解し得ない。
椿鬼はゆっくりと湖に足を踏み込めば、下を向いて焔楽の前まで歩いてくる。椿鬼が顔を上げれば、その瞳には涙が溜まっていた。
ギョッとしてしまい、思わず身を引きそうになる。
「ッ……」
どうすれば良いのだろうか。どう接するのが正解なのだろうか。
「……ごめんなさい。夜になると、嫌な事とか思い出しちゃって、一人なんだなぁって感じたら……寂しくなっちゃって」
「……」
それはやはり、父親を殺されたからだろうか。
「私……一人ぼっちなんですね」
椿鬼は甘える子供のように、焔楽の胸に顔を埋めた。カタカタと両肩は震え、涙を堪えるように、声を詰まらせながら泣いている。
「ごめんなさい……」
三度目の謝罪だ。これは、甘えてしまってという意味なのだろうか。
「椿鬼」
「おかしい、ですよね……。焔楽さんにこうやって甘えたかったんです。だから……ついてきてしまったんだと……思います」
思わず、自分に甘えてくる椿鬼を抱き締めてしまいそうになる。寂しさに震え、涙を流す少女を抱き締め、安堵させてやりたいと感じる。この感情は考えるまでもなく同情であった。
既に情は移ってしまっていたのだ。
この幼い体に、椿鬼は今悲しさと寂しさ。そして、復讐を背負っている。色んな感情がごちゃ混ぜになった心は、いつか壊れてしまう。
壊れてしまった心は治ることがあっても、それには長い月日が掛かり、人間の時間では足りないかもしれない。
「ごめんなさい」
「謝るな」
焔楽は同情で抱き締めようとする体を抑え、ボソリと言葉を漏らした。
「一人は寂しい。でも、テメェは父親の仇を討つんだろ。だったら、ガキみてぇに泣いてんじゃねぇよ」
今の椿鬼を見ていると、幼い頃の自分を思い出す。羅刹は行方を眩ませ、一人ぼっちになってしまった時。どうしていいか解らず、泣くことしか出来なかった。だけど、それでは駄目だと気付いたんだ。ようやく辿り着いた答えが復讐だった。それしか、今の自分に価値を見出せなかったからだ。
「焔楽さんは……私よりもずっと生きてるから大人ですね。でも……人の悲しみは理解出来ないと思います」
「人間の悲しみなんざに興味はねぇし、理解したいとも思わねぇ。でも、俺も半分は人間だ。興味が無くても、理解したくなくても、分かっちまう事はあるんだ」
溢れ出る感情はとめどなく、己の体を抑える事が出来なかった。両腕の中に収まる小さな体。トクトクと脈を打つ、人間の心臓。温かな体。心地良い髪の毛の匂い。
「……泣きたい時に泣けよ。俺に甘えたかったんだろ。今だけ甘えさせてやる」
「……変なの」
こんな感情は初めてかもしれない。同情に変わりはない筈だが、こうして抱き締めていると、何故か己自身も落ち着き、癒されていくのを感じる。
椿鬼の温もりは母にそっくりだ。まるで、母が目の前にいて、今俺を抱き締めてくれていると感じてしまう。
己の瞳に映る者は、椿鬼という名の人間な筈なのに、椿鬼を通して母を見ているかのような気分にさせられる。
「ありがとうございました。少し……落ち着いた気がします」
焔楽は椿鬼を離し、少しだけ距離を置いてから椿鬼は話した。泣いた後だからか、椿鬼の目は少しだけ腫れている。
「不細工な顔だな」
「むっ、失礼ですねっ」
元気を取り戻したのか、椿鬼は頬を膨らませ唇を可愛らしく尖らせる。
「その喋り方」
「……?」
「慣れない。堅い喋り方は止めろ」
「……えっと、敬語は嫌だって事……ですか?」
「ああ」
「ん、わかった。焔楽さんが良いなら、そうする。ところで、焔楽さんはどうして湖の中に入ってるの?水浴び?」
そう言えばと言わんばかりに、椿鬼は質問をしてきた。焔楽はキョトンとしている椿鬼から視線を逸らし、口を開く。
「関係ねぇ」
「またそうやって。焔楽さん、自分の事訊かれるの嫌いなの?」
「何処で、誰が何を聞いているか解らない。俺は色んな奴に恨まれてる。付け込まれる隙は作りたくないだけだ」
「関係ないじゃない。私は焔楽さんの事を恨んでなんかいないし、恨む理由もない。むしろ、感謝してるのよ?」
羅刹が兄だと話せば、椿鬼は俺の事も恨むだろうか。俺の事も殺してやりたいと思うだろうか。
「……感謝?」
例え椿鬼の父親を殺したのが俺じゃなかったとしても、血の繋がりは断つ事が出来ない。必然的に俺も恨まれるのではないだろうか。それか、俺も羅刹と同じ冷酷な半妖だと判別されるか。
「だってそうでしょう?私、焔楽さんがいなかったら、復讐を考えたとしても、こうして一緒にはいないし、刀を教えてくれる人もいない。そんなんじゃ、仇なんて取れないもの。でも、焔楽さんがいるから、私は強くなれるし、寂しくないのよ?」
「そんな事で感謝するなんて、おかしな人間もいるものだな。たかが偶然だ。俺がお前に刀を教えてやるのも、共に行動しているのも偶然に過ぎない。感謝するなら俺にじゃなく、偶然に感謝しろ」
「目に見えないものに感謝してどうするのよ。私が感謝してるのは、焔楽さんと愛染様だけよ」
「……」
本当の事を知っても、椿鬼は同じ事が言えるだろうか。俺に感謝できるのだろうか。
焔楽は椿鬼の瞳を見詰め、視線を逸らした。そんな焔楽の態度に椿鬼は不思議そうな反応を示すが、特に訊いてくる事は無かった。
「水が好きだ。こうしていれば、嫌な感情を洗い流してくれる気がして、正しい道に戻してくれる気がする。だから、ここに来た」
「……?あぁ!なるほどね、そういうこと」
「訊かれた事は話した。風邪を引く前に戻るぞ」
「うん」
焔楽は椿鬼と共に湖から上がり、周りを警戒しながら、法術師愛染が番をしている場所まで戻った。
びしょ濡れな焔楽達を見て、法術師愛染はギョッとした表情を浮かべ、色々と訊いてきたが全部無視した。