仇ー第伍話ー
「母上っ!!」
視界に映るもの。それは、優しい表情を浮かべる母の姿。幼い焔楽の頬を優しく撫でる母の手は、赤く濡れている。大好きな母の顔も、所々赤く濡れている。
辺り一面はバチバチと音を鳴らす炎に包まれいた。でも、どうしてだろう。その炎から熱を感じない。
自分達の住んでいた家が燃えて無くなってしまうことは、今の焔楽にとって、どうでもいい事だった。今重要なのは、目の前にいる母の事ばかり。
体中傷だらけで、痛そうで。こんなにも傷だらけの母を、焔楽は見た事が無かった。いや、そもそも、焔楽は母が傷を負っている姿すら見た事が無く、焔楽の中で、母は最強だった。強くてカッコよくて、優しくて。大好きな母。
「焔楽…。お主に村雨を託した筈じゃ。羅刹と一緒に…村雨を持って逃げるのじゃ」
そんな母の声はか細くて、泣いてしまいそう。
「生きるのじゃ。此処で死んではならぬ」
「は…母上も……」
幼い焔楽に、今の状況は理解出来るものでは無かった。なにがなんだかサッパリ解らず、唯一解ることと言えば、大好きな母と離離れにならなければいけないということだった。
「羅刹。焔楽を…連れて行け」
羅刹は焔楽の真後ろに立っていた。母程酷くは無いが、羅刹もまた傷を負っており、身に纏っている綺麗な着物も、ボロボロとなっていた。
焔楽は羅刹の袖を引っ張り、涙混じりの声で言葉を発する。
「…あ…兄上……。母上も一緒にと…母上に」
焔楽は話すのを止めた。いや、その例えは間違っているかもしれない。話す事が出来なくなってしまったのだ。声を発しようとしても、喉の奥で何かが引っ掛かってしまったように、声が出て来ない。一向に声が出てくる事は無く、伝えたい事を伝える事が出来ず、涙だけが溢れて行く。
「……奴の仕業じゃの。焔楽。母である妾の言う事を聞いてはくれぬか」
母は優しく包み込むように、焔楽を抱き締めた。その温もりは、今までに感じたものよりも、ずっと温かく、悲しいものであった。
「大丈夫じゃ。焔楽が生きておる限り、妾は必ず見守っておる。どんなに離れておっても必ずじゃ。
それにの、焔楽に託した村雨。ただの刀だと侮ってはならぬぞ?刀であっても、村雨は焔楽を護ってくれる筈じゃ。だから…母からの最初で最後のお願いじゃ。今は…今だけは、羅刹と共に逃げてはくれまいか」
「焔楽、こんな時にまで駄々をこねるな。焔楽がいつまでも駄々をこねるから、母上が困っている」
焔楽は泣きながら、何度も何度も頷いた。心の内は嫌だ嫌だと、母から離れたく無い思いで一杯だった。だが、幼い焔楽であっても、今の状況が良い事では無いと理解出来たし、羅刹の言うよう、駄々をこねてはいけないと理解していた。それでも、母から離れたく無かった。
もう二度と、もう二度と、母には会えない気がしたから。
「羅刹」
母が羅刹の名を呼べば、羅刹は焔楽の腕を掴み、引き摺るように焔楽を歩かせた。
「母上っ!母上っっ!!!」
ようやく声を発する事が出来た。だがどんなに叫んでも、母に声が届いても、どうにもならない事に変わりはなかった。
◇◆◇◆
「母上っ」
飛び起きるように焔楽は体を起こした。だが、焔楽の視界に映るものは、母の顔でもなく、燃え続ける家でもない。全く見知らぬ場所だった。
ズキズキと痛む腹部が、段々と焔楽の意識をハッキリさせていく。意識を失う前の事を思い出していけば、自分自身に怒りを感じ、感情を抑え込むように、焔楽は下唇を強く噛んだ。
「あっ!まだ起き上がっちゃ駄目ですっ」
女の声が聞こえれば、声の主は焔楽の前に姿を現した。
サラサラとした黒くて長い髪の毛。そして、椿模様の着物。女は焔楽の傷口に触れるなり「もぉ」と不満そうな声を漏らす。
焔楽の着物は上半身のみ脱がされており、傷口のある腹部には包帯が丁寧に巻かれていた。だが、突然体を起こした為か、包帯には血が滲み出ている。
「包帯変えますから、じっとしていてくださいね」
傷口に巻かれている包帯を、女はスルスルと解き、新しい包帯を取り出す。その間、焔楽は辺りをキョロキョロしては、女を見ていた。
「……俺が怖くないのか」
「……え?」
一番の疑問だ。人間相手なら尚のことだろう。助けてくれた事も、手当してくれた事も、一応は感謝する。だが、焔楽は妖怪だ。それを人間が助ける。そんな話、聞いたことがない。
「怖くないと言えば嘘になります。でも、貴方から怖い感じはしなかったから」
「俺がお前を殺さない保証は無いんだぞ。助けてくれたからと言って、全ての妖怪が感謝する訳じゃない。タチの悪い妖怪だったら、お前は死んでる」
そんな焔楽の言葉を、女は表情一つ変えず聞いていた。少し考える素振りをし、一度止めてしまった手を再び動かす。
「ってことは、私は死んでないから、貴方は良い妖怪さんってことですね」
「……」
なんか、凄い疲れるな。この前に会った法術師愛染も似たような事を言っていた気がする。最近の人間はこんな奴ばかりなのか?
女は傷口の包帯を変えるのを終え、どこか嬉しそうな顔付きをしている。焔楽がそんな女を不思議そうに眺めていれば、焔楽に向かって優しく微笑んできた。
「妖怪さん、お腹空いてますか?って言っても、お味噌汁しか無いんですけど」
「……頂く」
「すぐ準備しますね」
焔楽は味噌汁を待っている間、辺りを見渡した。良く見てみれば何も無い家だ。焔楽が寝ていた布団だって質素なもので、使い古されている。それに、この家自体も、今にも崩れてしまいそうな程ボロボロとなっていた。
こんなボロボロの家に若い女一人とは、何かしらの理由があるのだろうか。
「女。何で俺を助けた」
だが今は、女の事情などはどうでも良かった。
「なんでって、だって傷だらけだったんですもの。それに愛染様のお知り合いなのでしょう?」
「……愛染様って、法術師愛染の事か?」
聞き覚えのある名前が飛び出し、焔楽は少しだけ考え、質問をした。それを聞いた女は嬉しそうに微笑む。
「はい。愛染様は私の命の恩人なんです。その方のお知り合いとあっては、見捨てるなんて事出来ません」
法術師愛染が美女を拾ったと言っていた。その美女とは、この女のことか?もしそうだったとしたなら、俺は法術師愛染にも助けられたということじゃないか。
「あの、妖怪さん?」
「妖怪さんじゃねぇ。焔楽だ」
妖怪さんと呼ばれる事に、どこか腹が立った。名前で呼んで欲しいとか、そういった願望は無かったが、自分には名前がある。それを妖怪という一括りのものにされたくは無かった。
「焔楽、さん?あの、焔楽さんは私の事……殺そうとしないんですか?」
「はぁ?」
唐突な女の質問。焔楽は苛立たしげな反応をし、睨むように女の方を向く。そうすれば、女はビクッと体を震わせた。
「ご、ごめんなさい。その……愛染様に助けて頂く前に、怖い妖怪に会ったものですから。その方も焔楽さんのような、人間に近い容姿をしていたので、不安になってしまって。ごめんなさい、気分を悪くしてしまいましたよね」
「助けてくれた事、手当をしてくれた事、一応は感謝する。恩を仇で返すような事はしねぇ。けどよ、妖怪というだけで、怖いだとか悪いだとか決め付けて欲しくはねぇな。悪い妖怪がいるのは確かだが、良い妖怪もいれば、人間のように弱い妖怪だっている。お前ら人間だってそうだろ?人間という種類だから、悪いものだと決めつけられたくないに決まってる」
「おやおやまあまあ。女性が相手ですと、随分と饒舌になられるんですねぇ」
「愛染様」
「女だからとか関係ねぇよ」
焔楽は扉の前に立っている法術師愛染を睨む。法術師愛染は変わらぬ笑顔を浮かべ、焔楽の前にしゃがんだ。
「あの後、なにがあったのですか?」
「……なにもねぇよ」
「焔楽が飛び出してから、妖怪はパッタリと途絶えました。ですが、貴方は中々戻って来ない。探しに出て見れば、血塗れとなって倒れている貴方がいた」
あの後妖怪が途絶えたということは、初めから女の狙いは焔楽だったということを表していた。そして、本来は殺すつもりだったという事も。明らかなる計画的行動である。
だが、生かされた事に、今は感謝するしかないだろう。あそこで死んでしまっては、仇を討つことは本当に叶わなかった。なにが女の興味を唆ったのかは解らぬが、後悔させてやろう。焔楽はそういった気持ちであった。
「……奇襲に遭ったんだ。恐らく、雑魚妖怪を呼び寄せていた奴だ」
「なるほど。何故、そのような事をしたのでしょうか。狙いはやはり……」
「私……ですか?」
不安げに女が口を開いた。狙われる事に心当たりがあるのだろうか。
「なんでそう思う」
「……襲われたんです、妖怪に。私は妖怪に鬼だと言われて、気付いたら愛染様が私を助けてくれていました。不思議と……その間の記憶が曖昧なのですが」
「余程のショックだったのでしょう。こんなにも美しい女性が突然襲われたのです。記憶が飛んでしまうのは何もおかしな事じゃありません」
「……鬼」
その話を聞いて、頭の中に出てきた妖怪は羅刹だった。だが、女が生きているということに違和感を感じてしまう。
焔楽の知っている羅刹は、決して獲物を殺し損ねるという事はしない筈なのに。
「今の時代じゃ、鬼は数少ねぇ。そん中で、鬼だからという理由で殺そうとする妖怪を俺は一人しか知らねぇ」
「……もしや、羅刹……ですか?」
名前すらも口にしたくないと言わんばかりの口振り。それもその筈だろう。羅刹という存在は人間達の中で、一番恐れられている存在なのだ。
「流石に知ってたか」
「鬼と言えば、同族殺しの羅刹ですからね。もし襲ったのが羅刹だったとしたなら、少しばかり面倒な事になりましたね」
「だろうな」
羅刹を知らぬ法術師はいないだろう。誰もが退治してやろうと考えている妖怪であり、羅刹を退治出来た者にはどれ程の報酬が発生するか解らない。
「その羅刹って人。どんな人なの?」
だが法術師の中では有名でも、普通の人間で知っている者は少ないだろう。
「妖怪の中で最強と言われている人物です。半妖でありながら、鬼という存在でもあり、その強さは妖怪をも退け、今では妖怪からも恐れられる存在です。そして更に、羅刹の持つ鬼喰らいの刀。その刀で鬼を斬っては、妖力を高めているそうです。まあ、どこまでが本当の話かは知りませんが」
「全部本当の話だ。一つ付け加えさせて貰えば、鬼を斬る事が出来るのは、鬼喰らいの刀を持つ羅刹だけだ。つまり、てめぇを襲ったのは羅刹しかいねぇ」
「で、でも……私は鬼なんかじゃありません」
「お前自身から鬼の臭いはしねぇけどよ、お前、鬼と一緒に居なかったか?」
焔楽は女に近づき、女の纏っている匂いを嗅ぐ。主に、女が手に持っている味噌汁の匂いと女自身の匂いだが、微かに鬼の臭いがする。
「それ、貰っていいか?」
「……え?あ、はい。ごめんなさい」
「謝んな。で?鬼と一緒に居たんだろ?」
焔楽は女から味噌汁を貰い、口に運ぶ。薄くもなく濃くもない、絶妙なバランスの味噌汁。あまり良い生活はしていないのか、味噌汁の具は多くは無い。だがそれでも、味噌汁というものを口にしたのは久しぶりだった。その為か、どこか胸がほっこりと癒される。
「父が……鬼でした」
「あ?解りやすい嘘つくんじゃねぇよ」
「本当ですっ!!私は鬼に育てられたんです。物心がついた頃に、両親に売られて……鬼が私を買いました。初めは怖かった。でも、凄く良い人で、今じゃ私の唯一の父だったんです」
女は焔楽にへと身を乗り出し、必死に言葉を口にした。今にも泣き出してしまいそうな瞳に、どこか身が引けてしまう。
「……お前、奴隷だったのか?」
「……はい」
焔楽は黙り込み、女を見詰める。まだ若い女だろう。人間の年齢で見ると、十八歳ぐらいか。身なりは良いが、良い暮らしをしているようには見えない。それでも、奴隷として扱われていた頃に比べればマシか。
「お前を買った鬼は何処に居る?」
「……死にました。たぶん、私を襲った妖怪が殺したんだと思います。愛染様が、父を埋葬してくださいました」
「そうか。……酷な事を訊いたな、悪かった」
結局の所、鬼は女ではなく育ての親だったということになる。そうなれば、女が生きていてもおかしくは無いのだが……。
焔楽は胸の内に違和感を感じながらも、その違和感の正体が解らず、今は考える事を止めた。
お椀に残っている味噌汁を飲み干し、空いたお椀を女に返し、焔楽は口を開いた。
「女、名前は?」
「椿鬼です。花の椿に鬼で椿鬼」
「自分で考えたのか?」
「いえ、父が。鬼に育てられるのだから、それっぽい名前にと」
「そうか。良い父親だったんだな」
焔楽の言葉を聞き、椿鬼は嬉しそうに笑って見せた。その笑顔は年頃の女であり、可愛げのある笑顔であったが、その笑顔は無理をして浮かべている笑顔のように思えた。
「あの、焔楽さん」
「なんだ」
「私に刀の使い方、教えてくれませんか?」
「はぁ??なんで」
「私、嫌なんです。父が殺されて……何もしてあげれないなんて。ここまで私を育ててくれて、私は父に何も返せてない。だからせめて、父の仇を討ちたいんです」
「お前、解ってんのか?お前の父を殺したのは、考えるまでもなく羅刹だ。羅刹は確かに強い。俺なんかじゃ足元にも及ばねぇ。無駄に死ぬぐらいだったら、町にでも出て働け」
「無理です……。奴隷の烙印を押されてしまってる私じゃ、遊郭でしか働かして貰えないわ。そんな生活するくらいなら、私は父の仇を討つ為に生きたい」
椿鬼は拳を握り、真っ直ぐな瞳で焔楽を見詰めた。その姿を見て、焔楽は何を言っても無駄だと実感する。自分も同じだからか、椿鬼の気持ちが解ってしまうのだ。それでも、椿鬼は人間だからか。復讐というくだらないモノにとらわれてしまうのは、勿体無いと感じてしまった。
「話は決まりましたね。じゃあまずは、焔楽の傷を癒し、団子を食べに村に行きましょ」
「おい、何でテメェが仕切るんだよ。それに俺はまだ教えるなんて一言も言ってねぇぞ」
「おやぁ?恩を仇で返す事はしないのでしょう?それに忘れて貰っては困ります。貴方を介抱したのは彼女ですが、貴方を助けたのは私なんですよ?」
法術師愛染はニコリと笑顔を浮かべた。その笑顔に腹が立つが、法術師愛染の話した事は何も間違ってなどおらず、焔楽は何も言い返す事が出来ぬまま、渋々お世話になるしか無かった。