死ー第壱話ー
「っ、…はぁっ…はぁっ」
椿模様の着物を身に纏っている少女は、暗い森の中を逃げていた。少女は、薬草を摂りに森の深くまで来たのだが、見ず知らずの男に殺されそうになっているのだ。
夕刻にすらなっていないと言うのに、森は酷く暗く、動物たちの声などは皆無であった。その為か、逃げる少女の足音と荒れる息。少女を追う男の足音のみが森に響いていた。
草履はどこかで脱げてしまったのか、少女は裸足で、泥まみれになりながらも必死に逃げている。暗くて足元が良く見えない。
そんな状況の中で、樹木の幹に足を引っ掛けたのは必然と言わんばかりだった。体のバランスを崩し、ドサッという大きな音を立てて少女は前のめりに転ぶ。
「っ…はぁ…―」
早く逃げなきゃっ。
じゃなきゃ私っ…――
「逃がしはせぬぞ、椿姫鬼」
まるで冷たい空気に包まれるようだった。男の声は酷く冷酷なもので、その声を聞いた少女は恐怖に包まれる。金縛りにあったかのようにその場から動くことが出来ず、自分を追っていた男を見上げることしか出来ない。
長く整えられた真っ黒な髪の毛。男は赤い花模様の白い着物に身を包み、切れ長の瞳で冷たい視線を向けている。
そして、手にスッと握られている妖しい雰囲気の刀。その刀を見れば一瞬で脂汗をかき始める。刀を持った男が自分を追いかける。その理由など、馬鹿でも解ることだ。
もう、駄目だと思った。
少女は恐怖感を捨てきることは出来なかったが、少しでも落ち着いた調子で考えた。何故、こんな見ず知らずの男に狙われるのか。
初めて会った男だ。
森の中で薬草を摂っていれば、いきなり背後から声を掛けられたので振り向いたのだ。そしたら、いきなり刀を振り下ろされたが為に必死に逃げてきた。
でも、よくよく考えてみたら、見ず知らずの男に狙われる訳などありはしない。それなのに、何故私は今この男に殺されそうになっているのだろう。死ぬならせめて、殺される理由ぐらい知りたい。
少女は死を覚悟していた。こんな場所で死にたくはない。だが、この男から逃れる術は無く、今この瞬間、背を向ければ後ろから斬られ絶命するのがオチだろう。
それならば、と。
少女は震えた口を開いた。
「…な…なぜ…私を、狙うのですか」
冷静を保ったつもりだったが、男に対する恐怖のあまりか、嫌でも声が震えた。そんな声につられるように、体の震えも強くなっていく。
「何故、だと?」
男は、眉一つ動かさずに口を開いた。だが、その言葉は愚問だなと言わんばかりで、男は鼻で笑い、冷たく言い放つのみ。
「貴様が鬼だからだ」
そんな男の言葉を認識する暇も無く、男は刀を振り下げ、少女の首を跳ねた。
首の断切面からは、有り得ない程の真っ赤な血飛沫が上がり、辺りの木々に血が付着していく。男の真っ白な着物にも花を咲かせるように付着すれば、男は表情を歪め、再び冷たい視線を少女に向けて落とした。何かを考えるように少女を見詰めていたが、視線を逸らし、刀に付着した血を払いのけ鞘に仕舞った。
「…次は、鬼を匿った妖怪か」
男は少女の死体に用は無いと言わんばかりに、森を後にしていった。
◆◇◆◇
少女の死体がある太く大きい樹木の裏から、袈裟を着た青年が姿を出した。青年の手には錫杖が握られており、シャラン、と音を鳴らす。
青年は完全に男がいないのを確認してから少女の死体を見た。無造作に転がる死体に、噎せ返る程の血の臭い。見ていて気持ちの良いものではなく、一瞬表情を曇らせたものの、慈悲深い表情を浮かべて手を合わせた。
「こんなにも美しく可憐な女性を殺害するなんて、罪深い男だ。
…おや?まだ、魂が残っているみたいですね」
白く淡い光を放つ玉が少女の体から浮かび上がってくる。その玉を青年は見詰める。そして、左手に持つ錫杖でトン、と地面を叩くなり優しい表情を青年は浮かべた。
「……それでは、死んでも死にきれませんね。
なに、安心してください。私はこう見えて法術師でしてね。貴女様の魂をこの体に引き戻すことなど容易なことなのですよ」
誰かと会話するかのように、青年は優しい口調で話し、もう一度錫杖で地面を叩く。叩いた地面からは不思議な波紋が広がり、淡い玉は、ふわふわしながら少女の体にへと戻っていった。
少女の体は眩しい程の光に包まれ、光が消えた時。切断された首と胴体は無かったかのように、ただそこに眠る少女が居た。青年は眠る少女を抱き抱え、少女を殺した男とは別方向に歩んで行った。