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私と蟻との断罪譚

作者: 一崎

 蟻がいた。

 何の変哲もない、蟻だった。


 ▽


 そのときの私の心は、昏い絶望に抱かれていたように思います。

 白い大学の校舎が、徐々に茜に飲まれていく中、私はトボトボと意味もなく歩き回っておりました。思考の渦はぐるぐると、来る(きたる)絶望への対峙に緊張していたのを覚えています。

 私は、怒られるのです。

 いえ、正確には大学の教授へと、謝罪をしようとしていたのです。その後に怒られることを予期して、深く昏く落ち込んでいたのです。

 今にして思えば些細なミスでした。そのミスに対して謝罪すること自体が驚かれてしまうような、本当に小さな問題だったのです。ですが、私はそのミスがこの身を滅ぼすに違いないと、確信に似た思いに押し潰されておりました。

 もういっそ大学を辞めて、自宅で毛布に包まってぶるぶるしていようかしら、なんて妄想がしきりに頭を悩ませます。

 あーあ、急に教授の脳味噌が爆裂しないかな、なんて惨い想像だけが、心を癒してくださいました。

 教授が授業を終えて研究室にやって来るまで、私は彼を待たねばなりませんでした。私としましては、偶然を装って、教授が研究室に戻る前に話しかけたいところでした。と言いますのも、教授が研究室に入ってしまえば、そこは既に彼のテリトリー。城を崩すには敵の兵力の三倍が必要だと言うではありませんか。私は一人でした。勝ち目がありません。

 故に私は、研究室がある施設の前、そこに立ち、教授の帰還を獣の如き視線で以って待ち構えていたのです。

 待つ間の一時間半は、まさに地獄の様相を呈しつつありました。

 当時の私は大罪人、待ち構えるは執行人。

 何気ない一時間半は、一転して死刑執行を待つ猶予期間へと移り変わったのです。

 私は絶望に耐え切れず、逃げるように無意味な歩行を繰り返しておりました。

 カツカツ、と。タイル床を掻き鳴らす硬質な靴音が、誰もいない夕焼けの大学に響いております。自身の靴音が時を刻む針となり、どんどんと気持ちを悪い方向へと押し急かしてきます。

夏の纏わり付くような暑さに、額から一滴の汗が流れ落ちました。

 そんな中、私は足元で蠢く何かを発見したのです。


 ▽


 そこにいたのは、小さな蜘蛛でした。ただ、その蜘蛛は死骸です。既に魂はなく、乾いた肉体だけがこの場に晒されております。

 私は「おや」と、その場から静かに距離を取りました。私は虫が嫌いなのです。

 それに、見ればこの蜘蛛の死骸。奇妙なことに動いているではありませんか。私は蜘蛛の生態に明るくありませんでしたが、死ねば動けなくなることくらいは予習済みでした。

 これは奇怪な(あやかし)に遭遇したわい、などと考える間もなく、私は蜘蛛の死骸の動力源に視線を這わせることができました。

 蟻です。

 大きな蟻が、ぐいぐいと、蜘蛛の死骸とおしくらまんじゅうしているではありませんか。

 そして、これが蟻と私と、ついでに蜘蛛の死骸との出会いでした。


 ▽


 蟻はしきりに蜘蛛の身体を噛んでは、運ぼうとうんしょうんしょと足をざわめかせておりました。けれど、存外蜘蛛の死骸は重いのか、びくりともしません。

 引っ張っては動かず、引っ張っては動かず、時折動いたかと思うと動かず。繰り返しでした。

 私の知識にある蟻は、自身よりも重いものを簡単に動かしてしまう、強き生物だった筈ですが、眼下の蟻さんは非力だったようです。

 時折蟻さんは、蜘蛛の死骸を持ち上げ動かすと、しかし、あっという間に下ろしてしまいます。

 実に情けない蟻さんでした。

 私はふと、この蟻さんを見ていようと思い立ちました。私の目的は教授が研究室に入る前に捕まえること。

 その時間を潰す意味も大いにありましたが、何よりも私はここで教授を待つ他の理由が欲しかったのです。あくまで偶然、教授に出会うのが好ましかったのです。

 私は蟻さんを観察することにしました。

 蟻が何かを運ぶのを見るのも、このときが初めてのことでした。

 さて、蟻さんは何もできません。

 ずっと死骸に食い付いては、必死に身体をもぞつかせるのみでした。

 先程も申しましたが、私は虫が好きではありません。それは蟻とても例外ではなく。

 されど、私は蟻さんを見続けました。


 ▽


 あれから数分、動きはありません。

 茜は広まり、もうじき夕日も落ちてしまう頃でした。いっそ白々しい程に強烈な茜色の世界の下には、私と蟻さんと蜘蛛の死骸しかありません。

 世界一不毛な時間が流れていきます。

 蟻さんも同じ思いを抱いているのか。ある時から、蟻さんは蜘蛛の死骸から距離を取り、キョロキョロと肉体を回転させるようになりました。

 仮に、私が重い荷物を動かせないとき、きっと同じことをするだろうなぁ、と漠然と妄想しました。

 蟻さんは蜘蛛の死骸に向かい、キョロキョロを繰り返すようになりました。

 おそらく、動かせないことへの恥ずかしさと、動かせないことへの危機感と、焦りと、誰か助けてくれという願望とが入り混じった、実に意味深いキョロキョロだったのでしょう。

 蟻も生きている。私と同じように、生きている。

 このとき、私は蟻さんに共感しました。同時、蟻さんを蟻としてでなく、人間と同類の「生物」として見るようになりました。

 私は蟻さんが蜘蛛の死骸に立ち向かうのを、まるで映画のヒーローが悪に立ち向かうときのような、英雄的行為に錯覚していました。もちろん、誇張しております。

 蟻さんが相変わらずぐいぐいと死骸を引いていると、向こうの方から小さな影が寄ってきます。

 蟻でした。また別の、蟻でした。

 しかし、その蟻は既に何かを運んでいます。何の役に立つのかもわからない、綿のような、よくわからない物を大切そうに咥え抱え、蟻さんの隣を何のこともなく通り過ぎて行きました。

 あの綿のような何かと蜘蛛の死骸ならば、重要度は歴然しているように思えたのは、人間故の価値観でしょうか。

 それからも蟻は来ます。

 私は大いに驚きました。大学構内に、こんなにも蟻が存在しているとは、思っていなかったのです。

 小さな蟻、大きな蟻、沢山おりました。しかし、他の蟻は皆獲物を口にして、誇らしげに帰宅していくのです。

このとき、世界には大量の蟻たちと私、ついでに蜘蛛の死骸しかありませんでした。まるで蟻の国に迷い込んでしまったかのような、不思議な感覚になったことを鮮明に記憶しています。

皆が務めを果たしていく中、眼下の蟻さんは永遠蜘蛛の死骸と睨めっこです。

 私は蟻さんが不憫になりました。

 蟻に魅入って、もう一時間は経ちましょうか。蟻と私とでは、一時間の価値は何倍にも異なることでしょう。

 寿命が違うのですから。彼の記憶の大半は、今の奮闘に裂かれるのだと思うと、実に気の毒でした。

 しかし、私の心配も気にせずに、蟻さんは必死に死骸を運ぼうとします。

 彼は取り憑かれている。私はそう思いました。

 あの死骸を運ばねば、きっと自分は死んでしまう。仲間たちに処刑されてしまう。大罪人となる。

 そんなくだらないことを考えているに違いないのです。

 蟻さんはついに蜘蛛から離れるようになりました。しかし、はたと足を止めると、また一直に死骸に接近するのです。いっそ痛ましい光景でした。もう辞めて帰れば良いのに、と思わずにはいられません。

 蟻さんは運ぼうとします。

 と、蟻さんがまた不可能に挑んだその瞬間、私は遠くの方に新たな気配を見つけました。

 視線をやると、そこには蟻の軍隊がおりました。

 夕日も落ちかけ、今にも夜が忍び寄って来ようという時間。

 その蟻の大群はやってきたのです。

 大群とはいえ、数は7匹。

 そこそこに大きな蟻が、草木の上や地面の上ではなく、埃一つない大学のタイルの上を闊歩している様は、異様な迫力と威圧感がありました。

 6匹が前を連れ立って歩き、遅れて1匹が早足で付いてきています。私はふと、己の心内に疼きが迸ったのを気取りました。

 言いようのない心持ちとともに、私はその蟻たちを見つめました。ごくり、と、何故だか喉が鳴りました。


 ▽


 蟻の軍隊は迫ります。

 蜘蛛の死骸と奮闘する蟻さんへと、蟻の軍隊が近付きます。7匹もの蟻は、悠々と、凱旋の如き歩みで進みます。

 私は拳を握り込んでいました。長い爪が手のひらに突き立ち、鋭く爽やかに痛みました。

 蟻さんと蟻の軍隊は徐々に距離を詰め、そして――擦れ違いました。

 先頭の1匹は、奮闘する蟻さんのことなど一顧だにせず、歩くことこそが己が義務だとばかりに行ってしまいます。2匹目も、3匹目も4匹目も。

 蟻の軍隊は行ってしまいます。

 そのとき、私は確かな憤怒を自覚しました。通り過ぎて遠くへ行ってしまう(私にとっては三本半でした)蟻の軍隊たちに、私は明確な怒りを抱いておりました。

 手伝ってやれば良いだろう、と。

 7匹もいるのに! と。

 私は今すぐ先の軍隊に迫り、地団駄を踏むように潰してしまおうかという、乱暴な思考に囚われました。が、私は宗教上の理由により、虫の一切を殺傷できません。

 ハンカチを噛むような思いで、彼らを見送りました。

 私はいつの間にか、大嫌いな虫を応援していたのです、本心から!


 ▽


 風が吹きます。

 夏風は生暖かく、夜が中途半端に手伝って、気持ちの悪い感覚を投げかけてきます。頬を撫ぜていく風が、忌々しくて堪りませんでした。

 風に吹かれ、何と蜘蛛の死骸が風で少し動きました。

 許しがたいことです。

 迂遠に表現しますと、死ね! 風死ね! 止まれ!


 ▽


 蜘蛛の死骸は動きません。

 蟻さんは何もできません。

 あれから何分経ったのか。チャイムが大きく鳴り響きました。永遠にも感ぜられた時間は終わりを告げたというのに、まだまだ終わりはやって来そうにありません。

 と、そのとき、高き鈴を転がすような声が、さらりと耳朶を打ちました。声は「おーい、▽▽さーん。何してるん?」と、実に親しげな響きを持っています。

 仮にAさんとしましょう。

 Aさんは叫び、私の元に寄ってきました。

「あ」私は呆然と呟きました。



 蟻さんは――踏まれました。




 ▽


 私は少し、彼女のことが嫌いになりました。

 下を向いて歩かねば、蟻の存在には気付きません。それは私とて同様でした。

 私は昏い気持ちの向くままに、下を見つめて歩いていたので蟻に気付いたのです。

 しかし、明るい彼女は下など見ません。

 小さな生命の歩みなど、視界にないのです。そして、それが人間にとっての普通でした。気付かないのが当然でした。

 私は言葉を失いつつも、しかし、彼女を恨む気にはなれません。

 何せ、彼女は悪くない。

 また、私は蟻さんと親しかったわけではないのです。蟻さんからしてみても、大きな何かが突っ立っているとしか思わなかったことでしょう。

 悲しむ義理がないのです。

 蟻さんはあんなに頑張ったのに、結局は何もできずに生を終えました。私の、友人の足によって。

 酷い矛盾に感じられました。

 外はすっかり黒一色日染まり、周囲は夜に包まれております。月の放つ純白が、私たちを嗤っているように映ります。


 ▽


 私はせめて蟻さんの目的である蜘蛛を運ぶ、ということを代わりにしようかと思いましたが止めました。何よりも、私は彼の住所(ありの巣です)を知りませんでした。

 何処に持っていけば良いかもわかりませんでした。

 結局、蟻さんは何も為せませんでした。

 私はといいますと、その日に教授とは会えませんでした。直接謝罪する案件でしたから、電話もメールもせず、翌日にまで持ち越すことにしました。

 私の一時間半(教授がずっと現れませんでしたので、もっと本当は長いです)は無為となったのです。


 ▽


 私はあれからも、何度も「もうおしまいだ。死ぬしかない」というようなことを思うような出来事に出会いました。

 世の中は辛いことばかりです。どうしようもないことばかりです。最悪は続きます。

 もう死ぬしかない、と思い詰めることしきりです。

 ただ、そのようなことを思う度に、私の脳裏にはふと「蟻」が過るのです。

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[一言] 大学時代の悩みって、今から振り返ると「なぜそんなことで」と思うのですが、その時は経験も少なく、何もかも自信がなくて、本当に人生の終わりのような気分になってしまうんですよね。 そんな時に見つ…
[良い点] オチに意表をつかれました。 [一言] 夕暮れ時の、蟻との邂逅。 独特な語り口とノスタルジックな雰囲気が心地よい作品でした。 読んでいるうちにすっかり物語に引き込まれ、まさかの落ちに「ええっ…
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