午前7時32分58秒
私の家から徒歩五分のところにあるバス停の朝は、いつも長い長い行列をつくりだす。いったいこの小さな住宅街の中にどれほどの人が詰め込まれて生活しているのか、と少しばかり心配になる。けれど、そんなことはどうでもいい。この町に彼が住んでいるということが、私にとって最も重要なことなのだから。
彼の名前は立川佑介という。バスの終点であるM駅から電車で二駅のところにある、公立高校に通う二年四組の生徒だ。
私が利用するところから二つ先のバス停で、今日も彼はスマートフォンをいじりながらバスを待っている。スマートフォンを上から下へ指をスライドさせる動作から見るに、ツイッターを見ているのは明らか。というよりも、時々ちらりと見える画面の上部には青い帯が見えるから、疑うまでもない。
白いYシャツは上から二つのボタンがあけられているせいで、首元は鎖骨まで大きく露出している。その上に紺色のブレザー。胸元では深緑色の校章が存在感を放っている。ズボンは細かいチェック柄。足元は傷の目立つ黒のローファー。有名スポーツブランドのロゴが大きく描かれた、黒を基調としたデザインのエナメルバッグを肩からかけている。ぱんぱんに膨れ上がっている原因は教科書類ではなくて、部活で使うジャージやスパイクだという。いつも重そうだ。
後頭部にはいつもの、ほんの少しはねた黒髪。寝癖を直す気はなさそう。目の下にはくまが目立つ。そういえば昨日はサッカー部の仲間と夜遅くまでファミレスに居座って喋っていた、と言っていた。仲の良い三島くんと、岡田くんの三人で。岡田くんはクラス一おしゃべりな男子だから、話題には困らないのだろう。気の合う友達と何時間も喋り続けるなんて、女子高生のやることと同じだ。
けれど、今日もまた睡魔に負けて午後の授業で眠ってしまうのだろうかと思うと、心配になる。今日は火曜日。五限の授業は高坂先生の古典だ。昼食を食べた直後の時間で、しかもこの良いお天気の日、さらに彼は窓際の一番後ろの席――その上高坂先生はゆっくりと落ち着いた声で喋る。これ以上なく睡眠に適した環境が揃っていて、寝るなという方が無理のある話だ。
そう思っていると、ちょうど彼が豪快な欠伸をした。眠そうで気だるげで、そんな雰囲気もまた良い。
信号が青になり、いよいよバスは彼のいる行列へと近付いてゆく。私は緊張しながら、彼のことをまるで何も考えていないような顔で、流れ出す窓の景色を眺めはじめた。バスはすぐに速度を落として、プシュー、と音をたてながら停車した。重い車体が揺れる。
彼は待機列の前から五番目。ひとり、ふたりと、スーツを身に纏ったおとなたちが乗り込んでくる。ついに五人目――彼は黒い定期入れをICカードリーダーにかざした。ピピッ、という音が、彼のものだけ特別な響きをもって聴こえてくる。彼はちらりとICカードの残金を確認する。この一連の流れを私は視界の隅にさりげなく捉えている。
そして彼はバスの後方の座席を確認した。二人掛けの座席には既に一人ずつ先客がいる。そのうちの一人が私で、つまりこの時、彼の視界にいることを、私は許されたのだ。この瞬間、ひどく緊張する。
私は恋をしているから。
「すみません。これ、あなたのですよね」
忘れもしない。彼に初めて声をかけられたのは今から二か月前の、三月五日の朝だった。バスから降りるために立ち上がった時、私はスマートフォンを座席に置いていってしまっていたらしい。彼は私を追いかけて、駅の改札前で私の肩をとんとん、と優しく叩いたのだ。見慣れた朱色のカバーに包まれたスマートフォンを彼の手の中に確認したとき、私は混乱した。目の前にいるひょろりと背の高い男子高校生を、怪訝な顔で凝視することしかできなかった。
この日まで私は彼の存在を認識すらしていなかったというのに、不思議なもので、人間はこんなに小さなきっかけだけで恋に落ちることができてしまうらしい。
「あ、ありがとう」
やっと状況を理解した私は、息が詰まりそうになりながらそう言った。驚きと、それだけではないなにかの感情から、自分の心臓がドク、ドク、と確かに脈を打つのが分かった。私が彼の大きな手からスマートフォンを受け取ると、彼はほんの少しだけ口元をゆるめて、笑った、ように見えた。しかし彼が軽く会釈をしたので、すぐに表情は隠れてしまった。そして彼は何事もなかったように、人の溢れかえる駅の、規則的な人々の流れへと戻っていった。改札へ吸い込まれてゆくその流れを私は暫く立ち止まって見ていた。足早に歩く中年のサラリーマンの肩とぶつかって、もれなく舌打ちが聞こえたけれど、すぐにどうでもよくなった。
あれから二か月が経つ。
後方の座席を確認したあとの彼は、一歩ずつ、こちらへ近づいてくる。あの日と同じ、ドク、ドク、とした鼓動の音が私の全身を支配する。
そして彼は私の横を通り過ぎ、一つ後ろの座席へ腰を下ろした。
ああ、そうだ、そりゃそうだ。私の恋は片想いにすぎないのだから――彼と会話を交わしたのはあの三月五日の一言ずつだけで、以来彼と私の関係はただの、「毎朝同じバスに乗っている人」でしかないのだから。彼についての情報はすべて彼の利用するツイッターから手に入れたものであるし、彼からすれば、まさか私がここまで彼自身について調べ上げているなんて思いもしないだろう。
しかしSNSというものは恐ろしい。調べようと思えば彼の所属するクラスの時間割をすべて把握することだって出来るし、クラスメイト三十八人、全員の顔と名前を一致させることだって容易い。私がストーカー気質である自覚はあるが、これだけの個人情報が一週間やそこらで手に入ってしまうのだから、もう少しSNSの使い方を考えるべきではなかろうか。私のような人間にとってはありがたいことこの上ないツールであるから、どんどんやってほしいとさえ思うけれど。
彼が座席について少ししてから、バスはゆっくりと発車する。今日も彼と私とその他大勢は駅へと運ばれてゆく。ああ、このバスの終点が、遊園地だったなら。水族館だったなら。映画館だったなら――。
空想の世界へ浸ってしまう前に、私はなんとか思考を現実へと引き戻した。いけないいけない、と私は鞄からスマートフォンを取り出す。駅へ向かう間、彼は平均三つのツイートを発信するのだ。今朝もリアルタイムで見届けなければ。
ツイッターの青いアイコンをタッチして、非公開のリストに登録されている彼のアカウントを選択する。「佑介」という名前で登録されたアカウントのフォロー数、フォロワー数は昨晩と比べて変動なし。続いてツイート欄をチェックする。右端に「5秒前」と書かれたツイートがあった。
「前の座席にいるおばさん、スカート短くして若作りするのに必死すぎ。見てて痛いw」
――彼が私を見てくれていた!




