第二章 退儺師(たいなし) 〈1〉
1
明宏、明日香、千草の3人は4限目の残り時間を点字室でサボった。
明宏は点字室と云うのがなにをする教室なのか知らなかった。ひらたく云うと点字本の作成と管理をおこなっている。
目の見えない生徒たちのもとめに応じて、点字あるいは音声化されていない本などを点字化するのだ。
点字と云うものがあることくらいは明宏も知っている。
しかし、ジュースの缶やシャンプーのボトルなどの日用品にもほどこされている点字をいちいち意識したことはない。
明日香が明宏へ点字機の使い方を説明すべく実際に打つと、ダカダカダカダカッ! と大きな音がした。千草と明宏があわてて明日香の手をとめる。
耳の聴こえない明日香は失念していたが、音は廊下にまで響いた。紙に凹凸をプレスする点字機はけっこうな音がするので、点字室は1階校舎の一番奥まったところにあるのだ。
点字室でサボっていることがバレたらいろいろと厄介なので、あとはしずかに千草と明日香から点字や点字を打つ機械などの話を聴いた。
そうこうしているうちに4限目の授業のおわりを告げるチャイムが鳴った。
「ほんじゃ明宏クン、つきあわせて悪かったね。……あと耳のケガも」
千草が悪びれずに云った。結果はどうあれ最善をつくした千草に反省はあっても後悔はない。
「たいしたことないから、気にしなくていいよ」
「私たちはここでもう少し時間をつぶしていくから、先、教室行ってて」
「わかった。それじゃ」
点字室をあとにする明宏に明日香が会釈した。明宏も軽く手をあげて応えた。
廊下をすれちがう生徒たちが明宏の姿にギョッとした。なにせワイシャツの左襟が血まみれである。
左耳の白いガーゼが原因を物語っていたので、それ以上不審なまなざしを向けられることはなかったが、
(上だけでもジャージに着替えるか)
と、明宏は思った。目立つことには慣れていない。
教室のうしろ扉に見おぼえのある背中があった。ゆるやかにウェーブした栗色の髪が肩でゆれている。穴森詩緒里である。
詩緒里はうしろ扉のガラス越しに教室をのぞきこみ、明宏の姿を探していた。
「詩緒里ちゃん」
明宏がうしろから声をかけた。ふりかえった詩緒里は、明宏の姿を見て思わず声をあげた。
「ど、どうしたの、それ!?」
「ああ、ちょっと耳切った」
教室でお弁当を広げていた生徒たちも詩緒里の大声にふりかえり、ワイシャツの左襟を赤黒く染めた明宏の姿に仰天した。
ただ、授業に出席していなかった原因は理解してもらえたらしい。文字通り〈ケガの功名〉だったかもしれない。
「なにやってんの!? ……大丈夫なの? 縫ったりした?」
「いいや、ぜんぜん。かすり傷なんだけど、びっくりするよね」
明宏は襟を指さして平然と笑う。
「あ、そっか。今日はお昼ごはんのあとで図書室つれてってくれるんだっけ? 着替えるから、ちょっと待ってて」
「あ……うん」
教室へもどった明宏は数人の男子生徒からケガについて訊かれたが、曖昧に笑ってごまかした。
「ごめん、お待たせ」
手ばやく着替えを済ませた明宏が詩緒里へ声をかけると学食へ向かった。
2
学食は混んでいた。
カレーやラーメンと云う定番メニューのマズイことで知られる学食だが、値段が安い割に量が多いため、男女を問わず体育会系クラブへ所属する生徒たちに多く利用されている。
もともと、詩緒里はお弁当派である。
彼女の母・伊織の作るお弁当を教室で友だちと食べていたのだが、明宏の高校編入にともない、最低1週間は明宏と一緒に学食や購買部で昼食を摂りたいと伊織へ申し出た。伊織は笑って了承した。
突然の事故で両親を亡くしたばかりの明宏に、新たに通う高校で孤独を感じさせないため、また、高校へ通う〈センパイ〉として1日でも早く学校へ慣れさせてあげようとする詩緒里の〈お姉ちゃん〉精神発動である。
しかし、残念ながら詩緒里の〈お姉ちゃん〉精神は、明宏が1日でも早くクラスへ溶けこむと云う意味において、マイナスにはたらいていたと云ってよい。
昼休みに明宏がひとりでいた方がクラスメイトとしても声をかけやすかったはずだ。
「もー、明宏がチンタラしてたから、Aランチ売り切れちゃったじゃん」
詩緒里が小さな唇をとがらせた。
詩緒里が学食常連の友だちから入手した情報によると、学食で唯一、味にハズレのないのがAランチなのだそうだ。
「ごめん。じゃあ購買部でパンかおにぎりでも買って食べる?」
「……ううん、いいや。どうせ、もうロクなののこってないって」
詩緒里はかき揚げ天ソバ、明宏は麻婆麺なるものにした。
空いた席へ向かいあわせに腰かけ、明宏のトレイに置かれたアヤシげな丼を一瞥して、詩緒里が眉をひそめた。
「うわっ、なにそれ?」
「ラーメンに麻婆豆腐をかけてみたらしい」
「おいしいの?」
「さあ、わからない。はじめて食べるし」
「明宏って意外とチャレンジャーだよね」
詩緒里はあきれ顔である。
「そうかな? ……いただきます」
明宏が麺を一口すする。詩緒里がそのようすをのぞきこんで訊ねた。
「おいしい?」
「……マズイ」
ラーメンのスープで麻婆豆腐のぬるい辛さがうすまり、はてしなくボケた味になっていた。
「やっぱり。コショウかけてみたら?」
詩緒里はテーブルの上に置いてあったコショウを明宏の許可なく麻婆麺の丼へぶちまけた。
「わ、バカ、かけすぎだって!」
「大丈夫だって。……どうよ、お味は?」
笑う詩緒里にうながされて、一口すすった明宏は苦い顔をした。
「……コショウの味しかしない」
「花山椒があればよかったかもね。今度はソースかけてみたら?」
「もういいって。詩緒里ちゃんこそ早く食べないと、ソバのびるよ」
「そだね。いただきまっす」
詩緒里も一口ソバをすすると珍妙な顔をした。
テーブルの上に置いてあった醤油を丼へ少したらして七味唐辛子をふりかける。Aランチ以外はハズレ、と云う詩緒里の友だち情報は正鵠を射ていたらしい。
「やっぱ、お母さんのお弁当が一番だね」
「伊織さんの料理、美味しいもんな。第一、お弁当の方が経済的でもあると思……」
詩緒里は彼女に賛同しかけた明宏の台詞をさえぎった。
「やっぱ、だめっ! あたし、まだ購買部伝説のアボカドシュリンプサンド食べてないもん。明宏、明日の昼休みは購買部待ちあわせね。授業おわったらダッシュでアボカドシュリンプサンド、最低ひとつはゲットだよ」
もっともらしい理由を挙げてみせたが、本当は詩緒里の〈お姉ちゃん〉精神が発動したのだ。
まだ明宏にひとりでお弁当食べさせるのはかわいそうだと思いこんでいる。アボカドシュリンプサンドが食べたいと云う気分は6割くらいしか(?)ない。
「明宏、あたしのアボカドシュリンプサンドのためなら、4限目のおわりサボってもいいからね」
もちろん冗談である。しかし、明宏は、
(2日連続で授業をサボったら、ゼッタイにヤバイよなあ)
と、内心苦笑した。
そんな時、明宏は詩緒里のはるかうしろ、学食の隅で明日香と千草が昼食を摂っていることに気がついた。ふたりは教室へ戻らずそのまま学食にきたらしい。
学食は体育会系クラブ御用達と聴かされていたので、千草はともかく(?)明日香がいるのは意外だった。千草にムリヤリつきあわされたのだろうと明宏は思った。
千草と明日香も向かいあって食事をしていた。明日香は明宏に背を向けて座っていたので、明宏には気づいていない。
千草は明宏の姿を確認できる位置にいたが、目が見えないので気づくはずもない。
明日香はすでに食事を済ませ、千草が食べおえるのを待っていた。彼女のかたわらへ置かれたトレイにはチャーハン皿の上に丼が3つも重ねられていた。
あの清楚可憐な美少女がひとりで食べたとは思えない量だが、他の人の食器でもなさそうだ。ふしぎとしか云いようがない。
千草はカレーを食べていた。トレイの前にソース・醤油・七味唐辛子・マヨネーズ・酢と云った調味料がならんでいた。
どうにか味をととのえようとしていたらしい。どこからもってきたのか学食のテーブルにはないタバスコの小ビンをこれでもかとふりかける。
眉間にしわをよせながらのそのそとスプーンを口へ運ぶ彼女の挙動が失敗を雄弁に物語っていた。