第一章 土鬼蜘蛛(つきぐも) 〈7〉
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「失礼しまーす」
明宏が保健室のドアをノックして入室すると、室内にはだれもいなかった。明日香と千草もつづいて入室する。
「うわっ、酒くさっ!」
千草が鼻をつまんだ。明宏も消毒液のにおいにしては妙な気がしたのだが、酒のにおいとは思わなかった。
「ん~、だ~れ~?」
白いカーテンでさえぎられた一番奥のベッドからけだるい声がした。千草は近づくと手探りでカーテンを開けた。
白衣をまとった若い女医が泥のようにベッドへ沈みこんでいた。
彼女の名は清水萌絵。28歳。独身。24時間シラフなら引く手あまたの美貌だが、酒癖の悪さで婚期をのがしていると云うのが大方の見解である。
「モエちゃんセンセー、また二日酔い?」
「そ~なの~。頭ガンガンしてさ~。立ってらんなくって~。雨の日ってよけいにくるよね~」
「知らないって。未成年だし」
「あ~? その声はチグサか~。ど~した~? バストアップと脂肪吸引は専門外だよ~」
「そんなん必要あるかっ!」
脂肪吸引はともかく、バストアップの必要はあるのでは? などと迂闊に口をすべらせれば、午后の天気は120%の確率で血の雨が降る。
「ちょっと友だちがケガしたんで消毒液借りまーす」
「ケガ~? どこ~?」
「階段でコケて、耳切った」
千草が即興でウソをついた。
「ちょっと~、頭とか打ってないでしょうね~?」
ベッドの上でもぞもぞと身体を動かしながら二日酔いの女医が訊ねた。
頭を打ったかどうか確認するあたり保険医として最低限の仕事を意識しているようだが、はた目にはただの酔っぱらいとしか映らない。
「あ、それは大丈夫」
「あっそ~。それじゃ~、あとヨロシク~」
「……だって。アスカ、お願い」
千草がカーテンを閉じた。目の見えない千草にカーテンを開け閉めする意味はないが、明宏にこの高校の女医を紹介しておこうと思ったのだろう。
〈念話〉で会話の内容を伝えられていた明日香が明宏をイスに座らせると、勝手知ったる見事な手際で耳の傷を消毒し、ガーゼを当ててテープでとめた。
「上手だね」
明宏がゆっくりと明日香へ云った。彼女の読唇術の見事さは、先刻の冗談をすぐに理解したことでわかる。明日香は照れたようにうつむいた。
「私が小っちゃい頃からケガばかりしてたもんだからさー、アスカもその手当をするうちに上手になっちゃったんだよねー。云ってみりゃ、私のおかげ?」
明日香が千草へあきれた視線を向ける。
『千草ちゃんのせ(、)い(、)です』
口の動きに合わせて自然と手話が出る。これが普段の明日香のコミュニケーション方法だ。
千草に手話は見えないが、言葉は〈念話〉で伝わっているし、明宏にも伝わった。明日香と明宏が苦笑する。
明宏は血で赤黒く染まった明日香のハンカチをポケットにしまうと、自分のハンカチを明日香へさし出した。
「千草さん。アスカさんへ伝えて。アスカさんのハンカチは洗ってかえすから、今日はぼくのハンカチを使ってって。キレイだし、今日はまだ一度も使ってないから大丈夫だって」
明日香は明宏へ突き出した手のひらと顔を小さく左右にふって遠慮したが、
「いいから。ないと困るでしょ?」
明宏の実直な瞳に、明日香はハンカチを受けとると手話で礼を云った。
「あ、そうだ、モエちゃんセンセー」
千草がカーテンごしにベッドで寝ている女医へ声をかけた。
「担任の篠原が〈事情聴取〉にきたら、休み時間に階段でコケて耳切って気絶した友だちのつきそいで、私とアスカも4限目ここにいたって云っといてくれません?」
相当強引なアリバイ作りだ。明宏にいたっては気絶したことになっている。
「え~? ……いいよ~」
「いいんかいっ!」
さすがの明宏も思わずツッコんだ。〈念話〉で経緯を把握した明日香も微苦笑する。
「ほんじゃ、モエちゃんセンセー、お大事に。またねー」
千草の台詞に3人は保健室を辞した。扉の向こうから、
「あ~、ありがと~」
と、二日酔いの保険医・清水萌絵の小さな声が聴こえた。
(「お大事に」なんて台詞は、むしろ『保健室』にやってきた生徒へ向けて云うものだよなあ)
明宏が至極もっともな感慨を抱いた。