第一章 土鬼蜘蛛(つきぐも) 〈5〉
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相変わらず鈍色の雲が空一面を冥くおおいかくしていたが、かろうじて雨はやんでいた。
外履きへ履きかえた武光明宏、姫鞍千草、霧壺明日香の3人が校舎を出た。
「あっちの方だね。アスカ、あっちはなんだっけ?」
あわてて方向感覚を失ったらしい。千草が白杖を指した方角には体育館が見えた。明日香が〈念話〉で応え、千草がうなづく。
「体育館……? その裏だね。まだ時間に余裕はある。明宏、走れっ!」
千草の号令に明宏は彼女の手を引いて走り出した。犬ぞりレースの犬にでもなった気分だ。
先導するのは長い黒髪を風になびかせて颯爽と走る可憐な美少女・明日香である。
明宏は全力で走っていないが、明日香の足は相当に速い。千草も足のもつれる心配はなさそうだ。ふたりとも運動神経はよいらしい。
「バケモノはまだあらわれていないってこと? どうしてきみにはそれがわかる?」
明宏の質問に千草も走りながら答えた。
「あんたの云うバケモノ……土鬼蜘蛛は人を喰らうために異界からやってくる。私は異界の狭間を越えてくる土鬼蜘蛛の波動を感知することができる。アイツらが異界の狭間を越えてくるのにかかる時間はまちまちだけど、だいたい10分から30分ってトコかな?」
千草には土鬼蜘蛛のあらわれる場所を事前に特定することができる。そこで待ち伏せをして土鬼蜘蛛が人を喰らう前に退治するのだと云う。
「ま、もぐらたたきみたいなもんよ。出てきたらたたく。出てこようとしたらたたく」
千草が唇を歪ませて小さく笑う。剣呑なもぐらたたきもあったものだ。
「私には土鬼蜘蛛の感知能力はあるけど攻撃能力がない。アスカに感知能力はないけど攻撃能力がある。私とアスカは土鬼蜘蛛退治の名コンビってわけ」
千草の言葉は明日香に〈念話〉で中継されていた。明日香がふりかえって明宏にうなづいたが、途端に頬を染めて顔をそむけた。
千草の手を引いて走る明宏の姿に少々動揺したためだったが、明宏は今朝の「胸チラ事件」を思い出したのだろうとかんちがいして内心しょげた。
いかな朴念仁の明宏でも、無為に美少女から嫌われたいとは思わない。
「そう云えば、今朝の工事現場で雨の日は感知能力がにぶるとかって云ってなかった?」
「そう。遠かったしねー。でも、今回は近いから大丈夫。まちがいない。間にあう」
確信に満ちた声で千草が云う。
3人は体育館の裏手へまわりこんだ。体育館ステージのうしろがわに当たる。
「この正面、5メートル先!」
千草の台詞に明日香が足をとめた。土鬼蜘蛛があらわれる場所から距離をとっておかないと闘うことができないからだ。
しかし、そこには先客がいた。
制服をだらしなく着くずしたふたりの生徒がウンコ座りでタバコを吸っていた。
ひとりは頭に太いバンダナを巻いており、もうひとりは両手首にジャラジャラとブレスレットをつけている。
千草のセリフを自分たちへ向けられたものとかんちがいしたバンダナの不良が明宏にスゴんだ。
「あぁ? なんだよお前ら。テメェ、女づれでなにやってんだ、コラ!」
この高校にもこう云う輩がいるのかと明宏は少々意外だったが、そんなことを考えている暇はない。
「ここは危ないから、早く逃げてください!」
明宏の真剣なまなざしに一瞬たじろいだ不良たちだったが、すなおに引くのは沽券にかかわると思ったのだろう。タバコを捨てて立ち上がった。
「あぁ? なんだテメェ? なに云ってんだ?」
「時間がないんです! 早く!」
明宏の方から不良たちとの間合いをつめた。彼らを千草と明日香へ近づけさせないためでもある。
「テメェ、ナメてんのか?」
バンダナの不良が明宏のブレザーの襟に手をかけた。
明宏は左腕をまわして襟をつかんだ不良の腕をからめとると、右フックの要領で不良の下アゴへ右ヒジをたたきこんだ。拳で打つより破壊力は大きい。
バンダナの不良が足元から垂直にくずれ落ちた。ブレスレットの不良も度肝をぬかれて思わずあとずさる。
失神してぐにゃりとなったバンダナの不良の身体を左腕で支えながら明宏が云った。
「この人をつれて、早くここから逃げてください」
口調は丁寧だが、明宏の瞳に有無を云わせぬ怒気がこもる。
ブレスレットの不良は無言で、失神した男の両脇を背中から抱えこむと、引きずりながら後退していった。
「……ふぅ」
不良たちの姿が消えると明宏は肩で息をついた。本来こう云った荒事は苦手だ。
「右エルボー1発だって? やるじゃん」
千草が楽しげに云った。明日香もほほ笑みながら両手を胸の前であわせ、パチパチと小さく音のない拍手をしている。
そう云う場合ではないが、女のコふたりに褒められて明宏は少し照れた。
「それで時間は?」
「土鬼蜘蛛の結界が張られるまでは大丈夫……って、きた!」
千草にしか感知できないが、土鬼蜘蛛の結界が張られたらしい。
「アスカ、準備して!」
明日香があさく腰を落として身がまえた。その左ななめうしろに明宏と千草が立つ。
土鬼蜘蛛は出現1分前に直径約20メートルの結界を張る。
運悪くその中へいた人間が土鬼蜘蛛の餌食となる。結界の外にいる人間は結界に気づくことも入ることもできない。
あとからその結界へ入ることができるのは、土鬼蜘蛛退治の能力を持つ者だけとされている。
しかし、今朝。明宏はあきらかに結界の張られたあとからあの工事現場へ足を踏み入れているのだと云う。
「明宏クン、ヒジを」
千草の言葉に明宏は左ヒジを千草の左手へ触れさせた。
千草は関節技で明宏の左手を彼の背中へまわしてロックすると白杖の柄をはずした。
中から出てきたのは刃渡り20センチほどの細身の短剣だった。それを明宏の首筋へ当てる。
白杖の柄には輪になった短いヒモがついていて千草の右ヒジのところでぶら下がっていた。
「な……千草さん、なにを?」
「……保険かな?」
「また、ホケン?」
「そう。万が一、明宏クンが敵で土鬼蜘蛛を召喚してた、なんて場合にそなえて人質になってもらおうと思って」
(メチャクチャだよ、この人。しこみ杖を持った自称〈薄幸の美少女〉なんて聴いたことないし。……立派な女座頭市じゃないか)
明宏は嘆息した。
「……わかったよ。おとなしくしてる」
「くる!」