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第四章 死闘 〈16〉

 退儺(たいな)の刀の光につられて明宏を見た明日香の視線が明宏の右腕に吸いついた。


 袖の引き裂かれた制服からのぞく明宏の右上腕に犬の歯形が刻印されていた。明宏が犬ぎらいとなるきっかけとなった傷痕である。


 明日香の脳裏へ幼い日の記憶がよみがえった。


 大きな犬に吠えられて恐怖する明日香を助けようと、両手を広げて彼女の前に立ちはだかった名前も知らない男のコの小さな背中を。


 無意識に発現した鬼道(きどう)の力が自分を助けようとしてくれた男のコの右腕を傷つけてしまったことを。


 ……そう。明宏こそあの時の男のコだったのだ。


 その日、たまたま明宏は穴森道場を訪れた母へつれられてあの公園にいた。


 彼は自分が幼い頃、犬に噛まれた経緯をおぼえていない。見知らぬ女のコを守ろうとしたことすらおぼえていない。


 まして、そのケガが明日香の鬼道(きどう)の力によるものであったことなぞ知るよしもない。


(あの時、私を守ってくれたのは、私がケガをさせてしまったのは、明宏さんだったなんて!)


 明宏との運命を感じた瞬間、明日香の胸の奥に熱いものがこみ上げてきた。これまで経験したこともないような高揚感で全身に力がみなぎるのを感じた。


(私の鬼道(きどう)の力はだれかを傷つける力じゃない! 私の大切な千草ちゃんや明宏さんを守るための力なんだ! 今度こそ私が明宏さんを守ってみせる! ……私は戦える!)


 明日香がしずかに立ち上がった。


「アスカ!?」


 千草がいぶかしんだ。それと同時に人儺(じんな)のようすがおかしくなった。突然、身体をふたつに折ると苦しげに悶えはじめた。人儺(じんな)の吸引力がピタリととまる。


 明宏のかまえた退儺(たいな)の刀の光がますます強まる。明宏の精神力とは関係ない別のなにかと呼応している。


「ガァァァァァ!」


 人儺(じんな)の野太い悲鳴とともに、吸いこまれた退儺師(たいなし)たちが吐きだされた。無傷で吸いこまれた者たちである。


 最後に明宏の退儺(たいな)の刀同様、青磁のように淡く柔らかい光沢を放つ大きなカタマリが吐きだされた。


 巨大生物の卵のようにも見える。退儺(たいな)の刀と〈卵〉が強く引きあって吐きだされたらしい。


 明日香の右手が波打ちながら上から下へと華麗に舞う。明日香の手の動きに導かれるように天空をおおう(くら)い雨雲がゴロゴロとブキミな音を轟かせる。


「まさか、アスカ……!」


 急速に大気へ充満するイオン匂に千草がおどろきの声をあげた。


『……雷撃!』


 明日香の心のかけ声とともに、天候をも利用した10億ボルトの電撃が人儺(じんな)の透明な右翼を灼きつくした。落雷の激しい音が校庭に響き、衝撃波が襲う。


「グガガッ!?」


 バランスをくずして落ちる人儺(じんな)の隙を明宏は見逃さなかった。


 低い姿勢のまま駆けだすと、空中で人儺(じんな)の身体を胴なぎに一刀両断した。


 腰のあたりで上下に斬り裂かれた人儺(じんな)が断末魔の叫びをあげる。人儺(じんな)の身体が緑色の光に包まれて吸いこまれるように消えた。


〈ハッ、素人のニイちゃんが人儺(じんな)を退治しやがった……〉


張界(ちょうかい)師〉亀鞍要が感嘆の声をあげた。


〈まいったね、こりゃ……!〉


羅刹姫(らせつき)〉桐壺雷華(らいか)も隻眼を炯々(けいけい)と輝かせながら興奮の面もちで嘆息した。


 保健室の清水萌絵もおどろいていた。校庭に雷が落ちたと思ったら、突然、たくさんの人影が校庭にあらわれた。土鬼蜘蛛(つきぐも)を退治したことで結界が消えたためだ。


 見知らぬ人たちが折り重なるように倒れている光景に肝が冷えた。激しい雨のせいでよく見えないが生徒たちは無事らしい。


「結界が解かれたのです!」


 美千代が叫んだ。


「みんなは、みんなは無事なのですか!?」


「……ミチヨちゃんの相方クンよりは、大丈夫そうだけどね~」


 先刻、手足が血まみれの状態で運びこまれた一馬は応急処置を受け、退儺師(たいなし)の用意した救急車で病院へ搬送されている。


〈みんな無事か!?〉


張界(ちょうかい)師〉亀鞍要が人儺(じんな)の腹から生還した退儺師(たいなし)たちへ〈念話〉で声をかける。極端に体温が落ちているようだが命に別状はない。


〈外で待機している救護班は全員こい!〉


張界(ちょうかい)師〉亀鞍要の要請に、担架を抱えた救命士たちが、まだ意識の朦朧(もうろう)としている退儺師(たいなし)たちと、校庭にのこされた退儺師(たいなし)の亡骸を回収する。


 鞍壺鞍葉(くらつぼくらは)の亡骸だけは完全に喰いつくされて跡形もなかった。


 明宏が明日香と千草の元へ戻ってきた。


「アスカさん、鬼道(きどう)の力がもどったんだね。助けてくれてありがとう」


 明宏へ向きなおった明日香がなにかに気がついた。


 ポケットからハンカチをだそうとする明日香を見て、明宏は自分のハンカチで左頬の切り傷を押さえ、小さく笑った。


「アスカさん、いいって。アスカさんのハンカチを汚したら、また、新しいのをプレゼントしなくちゃなんないし」


(……残念。もう1枚、ハンカチをプレゼントしてもらいたかったのに)


 明宏に手話や〈念話〉が通じれば、そんな冗談のひとつもかえしたかった。


 こんなに近くにいるのに、伝えたいことがたくさんあるのに、自分の想いを伝えられないもどかしさから明日香は泣きそうになった。


「どうしたの、アスカさん? どこか痛いの? 大丈……えっ?」


 明宏が突然うつむいた明日香を心配げにのぞきこむと、明日香がふいに明宏を抱きしめた。


 明日香は無言で明宏の胸に顔をうずめると、言葉にできないたくさんの想いをこめて華奢な両腕に力をこめた。


 少し痛いほどの抱擁に狼狽した明宏だったが、不器用な明日香のあたたかく力強い想いが伝わってきた気がした。冷たい雨の中で感じる明日香のぬくもりがなによりも尊いものに思えた。

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