第四章 死闘 〈1〉
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「それじゃ私はアスカを部屋につれて行くから、きみたちは本堂へ上がってくれ」
ぐったりする愛娘を抱えたラッキー和尚が、そう云うなり自宅の僧坊へ小走りで急ぐ。
深緑にかこまれた方相寺・講堂裏手の駐車場である。
かなり日も暮れかけており、茜色の空が木々を影絵のように黒々と浮かび上がらせていた。どこからか聴こえるキジバトの鳴き声が妙にのどかだ。
金色の小さな笛をくわえた千草が残りの3人を先導し、明宏は大久保一馬に肩を貸して歩く。広い境内にはドクターヘリが停まっていた。
明宏たちは方相寺・本堂正面の階段を上がり、軒先で靴を脱いだ。本堂には車座に座布団が敷いてある。
多恵婆と〈張界師〉亀鞍要が荘厳な祭壇を背に腰を下ろしていた。〈修復師〉有坂有里は別室で点滴を受けていると云う。
その報告をしていたのが姫鞍夫妻、すなわち千草の両親であった。
白衣をまとい、有坂有里の容態を報告している女性が専門医(元・感知退儺師)姫鞍ちとせ。
そのうしろで救急箱を手に控える僧形のがっしりとした男性が補助医(元・技闘退儺師)姫鞍芳庵である。
〈ママ、アスカを診てあげて! 戦闘中に〈手鬼舞〉や〈鬼道譜〉が使えなくなって倒れちゃったの。ラッキーおじさんが部屋につれて行ったから〉
千草からの〈念話〉を受けた姫鞍ちとせが多恵婆と亀鞍要へうなづくと、腰を上げて霧壺家の僧坊へ向かった。
〈みんな、適当に座ってくれ〉
亀鞍要の〈念話〉に明宏たちがしたがった。
千草の父である姫鞍芳庵が救急箱を片手に大久保一馬へ近づいた。一馬はうなづくと苦痛に顔をゆがませながら服を脱ぎ、パンツ一丁の半裸となった。
花も恥じらう乙女の千草や美千代のかたわらにパンツ一丁の一馬が座しているのはいささかシュールな光景だが、ふたりが気にとめるようすはない。
姫鞍芳庵と一馬以外で目が見えるのは明宏だけだからだ。
補助医である芳庵が半裸の一馬の打撲を確認しながら湿布薬を貼っていく。その間も亀鞍要の〈念話〉はつづいていた。
〈……とにかく、例の飛行機事故以来、土鬼蜘蛛の出現が増えているらしい。そこのネエちゃんたちも体験したそうだが、1日に2回、近場で土鬼蜘蛛が出現したって話も今日までに全国で22件報告されている〉
ふつうは2ヶ月に1回あらわれれば多い方である。半年以上、土鬼蜘蛛があらわれない地区もざらにある。
〈一馬クンに美千代ちゃんって云ったか? 今回の被害はお前らのせいじゃないから責任を感じることはないぜ。オンブバッタだかコバンザメだか知らねえが、賢しらな方法で土鬼蜘蛛が気配をかくしてやってくるなんざ前代未聞さ。土鬼蜘蛛が1体だけなら、お前らみたいな代打でも間違いなく退治することができたはずだからな〉
亀鞍要の言葉に一馬と美千代がうつむいて唇を噛んだ。そうなぐさめられても、彼らの目の前で多くの命が失われた事実に変わりはない。叱責された方がどれだけ楽だったかしれない。
〈ところで、タエさまから話はうかがっていたんだが、土鬼蜘蛛から人儺へ変貌したってのはホントか?〉
「間違いありません」
〈でもあれって本当に人儺なんですか? たしかにヤツの瞳には知性の光が宿ってましたけど、人儺になりかけって感じで……〉
身体中に湿布を貼られ、包帯で首から下をぐるぐる巻きにされた即席ミイラ男の大久保一馬も〈念話〉で云った。その言葉は亀鞍要に中継され、明宏たちの脳裏にも響く。
〈『人儺記』によると、人儺は完全に人間になりきってたって云うからな。完全体ではないのかもしれねえ。しかしだ。だとしても、またぞろ問題が出てきたってことになるわな〉
「どのどの問題なのです?」
美千代が首をかしげた。
〈なんだ、わからねえのか? おれたち退儺師がニラミをきかせている範囲で、土鬼蜘蛛が大勢の人間を喰らって何度も逃げのびてるっつー報告は受けてねえのよ。少なくとも今回の人儺みたいに土鬼蜘蛛をとり逃がしたなんて話はここ数十年聴いたためしがねえ〉
逆に云うと、今回のように人儺をとり逃がしたのは前代未聞の大失態なのでは? と、若き退儺師たちはうつむく。
「……つまり、あの人儺は退儺師の人たちにわからない方法で人を喰らいつづけてきた可能性が高いと云うわけですね?」
〈なんだ。素人のニイちゃんの方がよくわかってんじゃねえか〉
明宏の台詞に亀鞍要が相好をくずした。
〈いくつか可能性はあるがな。たとえば、退儺師のいない離島が襲われたとか、プロの登山家しか登らねえような山に巣をつくっていやがるとか〉
土鬼蜘蛛は人の気配を嗅ぎつけて異界からやってくる。そのため、ほとんど人のいない場所にあらわれることはない。
また、土鬼蜘蛛は俗に「海を渡れない」と云われている。
土鬼蜘蛛があらわれるためにはある程度の陸地が必要で、海にかこまれた小島へがあらわれることはできないとされているのだ。
実際、過去には離島へ派遣された退儺師もいたが、百年以上離島へ土鬼蜘蛛のあらわれた記録のないことから、昭和12[1932]年に退儺師の離島派遣は打ち切られている。
〈季武をヘリにでも乗せて、日本中、土鬼蜘蛛の気配をトレースさせるしか手はねえかな?〉
〈……そう云うことはキサマの方が得手であろう。みどもにだけ面倒ごとを押しつけようとするな〉
涼やかな〈念話〉が響いた。
霧壺家の僧坊(住居)から、明日香の容態を診てきた姫鞍ちとせのあとに和装の男性がつづく。
ぬき身の日本刀さながらに冷厳な印象を受ける男であった。
歳は30歳前後であろう。長い白髪を首のうしろでたばね、顔の左半面には額から目と頬まで三筋の大きな傷痕が走る。
瞳は白く、そのまわりがうっすらと赤い。
〈いつきた、季武?〉
亀鞍要が和装の男性に訊ねた。彼こそ〈退儺六部衆〉のひとり〈百眼〉椎名季武である。
〈みどもですら遭遇したことのない人儺とやりあって倒れた娘がいると云うので心配でな。そちらを先に診てきた〉
椎名季武は顔を千草の方へ向けた。人の存在は気配だけでわかるらしい。
〈……千草どの。アスカどのは大変消耗しているが命に別状はない。今、点滴を打っているゆえ、いずれ目覚めるであろう。戦闘中に〈手鬼舞〉や〈鬼道譜〉が使えなくなったと云う話であったが、別段、気の流れにも問題はない。土鬼蜘蛛からなんらかの攻撃を受けた可能性は皆無である。なにか別の原因があるのであろう。原因は彼女が回復してから探るがよい〉
「ありがとうございます」
千草は目に安堵の涙を浮かべながら頭を下げた。明宏たちも安堵した。
しかし、椎名季武は明宏の顔を見えない瞳でにらみつけると〈念話〉で云った。
〈少年。……そなた本当に人間か?〉
「……!?」




