第一章 土鬼蜘蛛(つきぐも) 〈3〉
6
武光明宏が穴森道場を出た時には午前8時をまわっていた。
彼の通う私立台和高等学校まで徒歩約30分。晴天であればまだしも雨の日にのんびり歩いていたら遅刻はまぬがれない。
走れば充分間に合う距離だが、雨で制服のスラックスの裾を汚せば洗濯する伊織に迷惑をかける。
明宏が自分で洗濯すると云っても伊織が耳を貸さないことは自明だ。
また、明宏が自分で洗濯することで示す伊織への遠慮が穴森夫婦を少なからず傷つけることもわかっている。
明宏が穴森家に迷惑をかけず、遅刻をまぬがれるためには近道するしかない。
それは通学初日に詩緒里から冗談で聴かされた近道だった。
耐震強度偽装で建設途中に放棄されたマンションの工事現場を突っきることだ。
ぐるりは工事用の外壁でおおわれていたが、ゴミの不法投棄をするような不埒者の手によって人が中へ入れるような裂け目がいくつかあった。
正直、あまり気は進まなかったが、明宏は手にした傘をすぼめるとマンションの工事現場へ足を踏み入れた。
その先に過酷な運命が待っていることも知らずに――。
7
雨にぬれて黒々とうかびあがる鉄骨は、だれもいない動物園の檻のようだと明宏は思った。
置き捨てられた資材。不法投棄された廃家電や生活ゴミ。いたるところに根を生やす雑草。
こんなところでたむろしている者たちがいるのだろう。タバコの吸いガラや空き缶、飲み食いしてその場で捨てられたコンビニ商品のビニール包装やプラ容器が散乱している。
やけに新しい赤色のパンプスまで落ちていた。通りすぎようとした明宏は違和感をおぼえた。
(……赤いパンプス?)
それは今そこへ転げ落ちたばかりのように見えた。
夜明け前から降りつづく雨に打たれていたとしたら、もう少し汚れていてもよさそうなものだが、なんと云うかキレイすぎた。
明宏はイヤな予感がした。
物音や人の気配がないところから察するに、現在進行形でなんらかの事件が起こっている可能性はない。
しかし、なんらかの事件が起こった直後と云う可能性はある。
建設途中で放棄され、ほとんど鉄骨がむき出しのマンションだが、死角も少なくない。
(なにもなければ、身がまえただけマヌケな話だよな)
明宏は自嘲しながら頭上の死角をさえぎる傘を閉じて鉄骨の梁を見上げた。
最初は気づかなかった。ぐるりと全体を見わたして、
(やっぱり思いすごしか……)
うつむきかけたその時、視界の隅でなにかがもぞりと小さく動いた。
明宏が目を凝らした先にとらえたモノは想像をはるかに越えていた。
異形であった。
3~4メートルはあろうかと云う巨大なバケモノが2階部分に相当する鉄の支柱へ頭を下にとりついていた。
爬虫類と昆虫のハイブリッドと呼ぶのが適当かもしれない。
灰色にぬめぬめと光る外殻。
長い尻尾から背中にそってびっしりと隆起するかぎ爪。
8本ある足の前足2本はカマのようになっていて、うぞうぞとうごめく丸い口元でせわしなく動いていた。
バケモノの丸い口からかいま見えたのは人間の足だった。左足のつま先に赤いパンプスが引っかかっている。
バケモノは女を喰らっていた。
明宏はあまりの恐怖と非現実感に声も出なかった。
さいわい、バケモノは食事に夢中で明宏に気づいていないようだった。
とりあえずこの場を脱出しようと一歩あとずさりかけた時、彼の視界の右手奥で、
「カキョン!」
と、空き缶を蹴飛ばすマヌケな音がした。
バケモノの動きがとまると長い首がゆっくりと左を向いた。明宏のところからは影になって見えなかったが、人の気配がする。
「バカ! こっちへくるな! 逃げろ!」
明宏は考える前にさけんでいた。バケモノの青い目が明宏に気づいてにぶく光る。
しかし、明宏の制止を無視した人影は全速力でこちらへ向かってきた。
「……くるなって云ったのに!」
明宏もしかたなく人影へ向かって駆け出した。
バケモノの正面へ立つことになるが、バケモノに気づいていないだれかを見捨ててひとりだけ逃げるわけにもいかなかった。
暗がりから走り出てきた人物の姿に明宏は意表を突かれた。
それは場ちがいいなほど清楚可憐な美少女だった。
ぬばたまの長い黒髪。透き通るような白い肌。丹花の唇。しかも詩緒里と同じ制服だった。すなわち、明宏の通う高校でもある。
正体不明の美少女は家からあわてて出てきたらしい。ワイシャツの上からブレザーこそ羽織っていたものの、リボンタイはブレザーの胸ポケットの中だ。
ワイシャツのボタンもきちんとはまっていなかった。豊かな胸元が少々無防備である。
しかも、手にしていたのは食べかけのおにぎりだった。
見方によっては一昔前の少女マンガに登場するドジっコ女子高生の姿に近い。まがり角でぶつかった少年と恋に落ちるパターンのやつだ。
明宏は彼女も学校へ近道するつもりだったのだろうかと考えたが、それなら方向が逆だ。
「なにしてる! 逃げろって云ったろ!」
意外そうな顔で小首をかしげたのは美少女の方であった。
(どうして、あなたはここにいるの?)
そんな表情である。
2階の鉄の支柱へとりついていたバケモノがどさりと重い音をたてて落ちてきた。
明宏と謎の美少女は低くうなるバケモノに正面から対峙した。バケモノの青い目はふたりの姿を完全にロックオンしている。
明宏は美少女をかばうべく前へ立った。傘が広がらないようにとめる。武器としてははなはだ心許ないが、
(バケモノの目を突くことができれば逃げるチャンスはある)
傘を青眼にかまえようとする明宏の手を美少女がやさしくさえぎった。
彼女は落ちついた足どりで明宏の前へ立つと、食べかけのおにぎりを頬ばった。
(こんな時におにぎり食える女のコって一体……?)
パニクっているわけではないらしい。どうやらこの状況を明宏以上に〈理解〉しているようだ。
しかし、こんな儚げな美少女になにができると云うのだろう?
「シャーッ!」
バケモノがカマのような前足をふり上げた刹那、美少女の右手が優雅にたちのぼる炎のような動きを見せた。
その手をバケモノへ向けてはらうと、突然、巨大な炎の球がバケモノに炸裂した。
バケモノの巨体が前足をふりかぶったまま後方へふっ飛んだ。
「ゲヒィィィ……!」
バケモノがすさまじい炎に身を焼かれながら激しく身悶えした。肉の焦げるイヤな臭いがあたり一面に広がる。
「なんだ、これ……!?」
明宏は眼前の光景に息を呑んだ。
美少女は表情ひとつ変えず、その光景をながめていた。
じきにバケモノは燃えさかる炎の中でピクリとも動かなくなった。秒殺だった。
「ちょっと、もう早いよー。置いてかないでよねー。うわ、くっさっ!」
美少女のあらわれた方角から、またひとり同じ制服を着た女子生徒がやってきた。おぼつかない足どりでふたり分のカバンと傘を抱えている。
ほっそりと美しい首のラインが際だつショートカットの愛くるしい美少女だった。灰色に濁る少女の瞳が明宏の目を引いた。
灰色の瞳の少女もあわててきたらしく、リボンタイはポケットの中だ。
炎をあやつった少女の視線を受けて、灰色の瞳の少女が苦々しげにつぶやいた。
「……ちくしょー、間に合わなかったなんて。ごめん、アスカ。私のミスだ。……雨の日は感知能力がにぶるかんなー」
「きみたちは一体……? このバケモノなんなんだ? ……そうだ、女の人が喰われていたんだ!」
明宏の言葉に灰色の瞳の少女がすっ頓狂な声をあげた。
「うわっ! びっくりしたっ! ちょっとアスカ、だれかいるの!?」
灰色の瞳の少女が小さく舌打ちしながらおちこちへ顔を向ける。
「だれかって、最初からここにいるじゃないか」
そう抗弁する明宏に、
「あー、ごめん、ごめん。私、目が見えないからさー」
「えっ?」
明宏はおどろいた。目の見えない少女がこんなごちゃごちゃした工事現場の中をひとりで歩いてきたと云うのだろうか? しかも、アスカと呼ばれた少女のあとを追って。
「て云うか、それよりあんたよ、あんた」
灰色の瞳の少女が明宏へ向かって云った。
「フツーの人間が土鬼蜘蛛の結界内にやすやすと入れるわけ……ってアスカ、そいつまだ生きてるっ!」
灰色の瞳の少女の言葉より先に、明宏が殺気を察知した。
焼け死んだと思われたバケモノの背中のかぎ爪が3本、触手のようにのびて明宏たちへ襲いかかかった。
明宏はふたりの少女の盾となるよう機敏な動作で一歩踏み出すと、傘をふるってかぎ爪を横なぎにはじき飛ばした。重い手応えにかろうじてかぎ爪の軌道がそれる。
朝稽古で感覚が研ぎ澄まされていたからこその早業だった。いつでもできる芸当ではない。
間髪を入れずにアスカと呼ばれた少女の右手が優雅に舞った。たちのぼる炎のような動きを見せると、バケモノの背中にいっそう激しく炎が爆ぜた。
「ギヒィィィィ……」
バケモノが断末魔のさけびをあげた。突然、その身体が緑色に光り、ブラックホールヘ吸いこまれるかのようにまるく収斂して消えた。
周囲にこもっていた炎の熱気もひどい臭いも瞬時に消える。
「たは~、危ねかったー。遠足はウチに帰るまでが遠足、土鬼蜘蛛退治は土鬼蜘蛛が消えるまでが土鬼蜘蛛退治ってねー。……て云うかアスカ。そこの人なんかした?」
アスカと呼ばれた少女が灰色の瞳の少女を見つめると、灰色の瞳の少女が小さくうなづいた。
「やっぱタダ者じゃないんだ。……あんた、名前は?」
(タダ者じゃないのは、きみたちの方だろ?)
そう思いながら、明宏はすなおに答えた。
「……武光明宏」
「タケミツって……こないだきたばかりの編入生じゃん! あんた、私たちと同じクラスだよ。2年D組でしょ? たは~、こんな美少女ふたりおぼえてないなんて、どうかしてない?」
「同じクラス?」
たしかに明宏は2年D組である。云われてみれば、クラスで見かけた気がしないでもない。
しかし、言葉をかわした男子生徒たちの顔と名前もまだおぼえきっていないのに、会話もしていない女子生徒の顔なぞ記憶しているはずもない。
両親の死や環境の変化などいろいろありすぎて、健全な男子生徒のようにカワイイ女子生徒をチェックする精神的余裕もなかった。
「明宏クンも私たちに訊きたいことがあるみたいだけど、私たちも明宏クンに訊きたいことがある。放課後に時間をつくるから、とりあえずこの件は他言無用。だれにも云わないで」
「わかった」
明宏が首肯した。もっとも、だれかに話してみたところで信じてもらえるとは思えなかったが。
「さっきは一応、助けてくれたんだよね? ありがと。私の名前は姫鞍千草」
灰色の瞳の少女はそう名のると、炎をあやつる美少女を指さして云った。
「このコの名前は霧壺明日香。ちなみに耳が聴こえない」
明宏は得心した。先に明日香が「逃げろ!」と云う言葉を無視して突進してきたのは、彼の言葉が聴こえなかったからだ。
しかし、千草の言葉は伝わっているようだ。ふたりはテレパシーのようなもので通じあっているらしい。
自分を紹介されたことに気づいた明日香が、明宏に向かって手刀で左手の甲をトンとたたく仕草を見せると頭を下げた。
『ありがとうございます』
と、云う手話だ。明宏に手話の知識はないが、それくらいの気持ちは伝わる。
「いや、こちらこそ、助けてくれてありがとう……」
霧壺明日香へ頭を下げた明宏が動揺して目をそらした。
明宏の動揺に気づいた明日香が自分の胸元へ視線を落とす。
あわてて着替えたワイシャツの胸のボタンがきちんはまっておらず、ワイシャツの前がぱっくり開いて豊かな胸の谷間と淡いピンクの下着の一部がのぞいていた。
「す、すいません。別に見る気は……」
明日香が気づいたことに気づいた明宏はあわてて弁解した。
道場を出る前もたまたま詩緒里のスカートの中をのぞいてしまい、ストンピングの雨あられを喰らったばかりである。
軽蔑されて張り飛ばされるくらいのことを覚悟したが、明日香は胸元を両手でかくすと顔を耳までまっ赤にしてうつむくだけだった。
この可憐な美少女が人を喰らう巨大なバケモノを眉ひとつ動かさず焼き殺したのだ。
明宏は自分の見たすべてが信じられなかった。
雨音にまじって遠くで学校のチャイムが聴こえた。
3人の遅刻が決定した。