第三章 人儺(じんな) 〈7〉
10
翌日の放課後である。
「クラスメイトと用事があるから」
そう云って詩緒里をひとりで帰した明宏は、そのまま方相寺へ向かった。
高校からの行き方を事前に調べておかなかったのは凡ミスだが、大体の方角はわかる。明宏は順調に迷いながら30分ほどで方相寺へついた。
本堂の右翼に位置する霧壺家の呼び鈴を鳴らすと、彼を出迎えたのは紺色の作務衣と云うラフな格好にメガネをかけた40代半ばの僧侶だった。
明日香か千草が出迎えてくれると思っていたので明宏は緊張した。
「なにか御用ですか?」
「あ、あの、アスカさんと千草さんのクラスメイトで武光明宏と云います。姫鞍のタエお婆さんに呼ばれておうかがいしました。……直接、姫鞍家へおうかがいすればよかったでしょうか?」
先に霧壺家からお寺の事務室へ通されたので(事務室は霧壺家に近い)なにも考えずにまっすぐ霧壺家へきてしまった。
自分の云っていることが変かもしれないと思っていたら、予想外の言葉がかえってきた。
「ひょっとして、きみが土鬼蜘蛛の見えると云う少年か! アスカたちが助けてもらったそうだね。父親の私からも礼を云うよ」
メガネの僧侶は明日香の父であった。事情には通じているようだが退儺師の云う〈補強者〉ではないらしい。
「アスカたちと一緒じゃなかったんだね。あのふたりもついさっき帰ってきたばかりなんだ。きみがきたことを知らせてくるから、上がってもらえるかな?」
事務室へつづく廊下を歩きながら、明日香の父が明宏に訊ねた。
「きみには本当に土鬼蜘蛛が見えるのかい?」
「え……はい」
「うらやましいな……」
「え?」
「ああ。いや、なんでもない」
明宏は事務室に通された。
「それじゃ、ちょっとの間ひとりにして申しわけないけど座って待っててもらえるかな? すぐアスカをよこすから」
明日香の父はそう云って事務室をあとにした。部屋の中央に6人がけの大きな応接セットがある。明宏は一番奥へ腰かけた。なんとなく落ちつかない。
右を向くと、壁面に黒輝たる仏壇があり、異形の面がおさめられていた。額から突き出た1本の角と4つの瞳がいかめしい。
(こんなおっかない仏像とかあったかな? ……ナントカ天とかナントカ明王の類いだろうか?)
そんなことを考えていたら、事務室の扉の開く音がした。ノートPCと集音マイクを小脇に抱えた明日香である。楚々としたワンピースがよく似合っていた。
明宏と目が合うと明日香がほほ笑んだ。明宏も会釈をかえす。
明日香は前回と同じ席につくとノートPCを起動させ、集音マイクをテーブル中央に置いた。明日香がタイピングすると若い女性の人工音声が云った。
「聴こえますか?」
起動させたソフトの状態をたしかめたらしい。
「聴こえるよ。こっちの声は拾えてる?」
明宏は座った位置からふつうに話してみた。
「大丈夫です」
明日香がタイピングしたあと、明宏へ向かって指でOKサインをつくってみせた。
「あ、そうだ。アスカさん」
明宏はそう云いながら自分のカバンをあさると、小さな袋をとり出した。
「遅くなってごめん。これ、前に耳をケガした時、アスカさんに借りたハンカチ。キレイになったから。ほんとにありがとう」
明日香が袋を開けると、明日香のハンカチとラッピングされた薄い箱が出てきた。ブルーのリボンがついている。明日香は箱を指さして、
『これは?』
と、首をかしげる。
「ハンカチを汚しちゃったお詫び。あ、別に深い意味とかないんだ。そうするのが礼儀だって教わったから」
明宏はしどろもどろで訊かれてもいない云いわけをした。ノートPCへ浮かんだ文章を読んで、身ぶりで遠慮する明日香へ明宏が云った。
「それ女物のハンカチなんで、ぼくが持っててもしかたないんだ。気に入らなかったら捨ててくれてかまわないから」
『……開けてみてもよいですか?』
明日香が手話で云った。
「うん。もちろん」
明宏がうなづく。ラッピングを丁寧に開けた明日香が刺繍の入ったハンカチを見て思わずほほ笑んだ。
いかに気に入らないものをもらったとしても、プレゼントした当人の前で露骨にイヤそうな顔を見せることはないだろうが(……詩緒里や千草なら見せかねないが)明日香の笑顔は喜びをかくしきれずにほころんだものだった。
これがお芝居なら、明宏は女性不審を抱えたまま余生を送ることになるだろう。
ややあって我にかえった明日香が手話でお礼を云った。しかし、それでは伝わらないと思ったのかノートPCへ向きなおる。人工音声が無感情に云った。
「ありがとうございます。とてもかわいいです。大切にします」
「……気に入ってもらえたみたいでよかった」
明日香はリボンや包装紙や小さな袋を丁寧にたたみ、ハンカチを箱へ入れなおすと、ふいに顔を上げた。なにかを察知したらしい。ノートPCへタイピングする。
「千草ちゃんが〈念話〉でお婆さまを迎えにきてほしいって。私ちょっと行ってきますので、待っていてください」
明日香が席を立つと、明宏からもらったハンカチや包装紙などを手にとり、2階を指さした。自分の部屋に置いてきますと云う意味だ。
明宏がうなづくと明日香が事務室を出て行った。とたとたと小走りで階段を駆け上がる音がした。
「……疲れた」
明宏はぐったりとイスにもたれて苦笑した。たかがお礼のハンカチ1枚渡すだけで緊張していた自分に気がついたからだ。
2階から階段を下りてくる音がしていないのに事務室の扉がノックされた。
「はい」
明宏が応えると、明日香の父がお茶とお茶受けの載ったお盆を持ってあらわれた。今日のお茶受けは麩まんじゅうである。明宏はあわてて姿勢を正す。
「あれ? アスカは?」
「千草さんから連絡があって、お婆さんを迎えに行きました」
「ああ、そうなんだ」
明日香の父はテーブルに湯のみ茶碗やお茶受けの小皿を4つならべた。彼はこの会合へ加わらないらしい。黙々とセッティングする明日香の父に間がもたず、明宏が訊ねた。
「あの……、あそこに飾ってあるお面はなんですか?」
額から突き出た1本の角。4つの瞳。古色を帯びてくすんだ金色の面である。
「あれは方相氏、大儺の面と云うんだ。2月の頭、旧暦の大晦日におこなわれる節分があるだろう?」
「鬼は外、福は内ですね」
「そう。あれはもともと新年を迎える前に悪い鬼を追いはらう〈追儺〉と云う儀式なんだ。その鬼を追いはらうのが方相氏、大儺の役目さ」
「あのお面が鬼じゃないんですか!?」
「はっはっ。そうなんだ。鬼よりこわいから鬼と間違えられたらしい」
「目が4つってこわいですよね」
「そうだね。ただ、大儺の面は退儺師を象徴している気がするんだ」
「……?」
明宏が首をかしげた。
「4つの目は、感知退儺師と技闘退儺師を表現しているのだと思う。〈方相〉もひっくりかえせば〈相方〉だろう? 退儺師は遠い昔からふたり一組で土鬼蜘蛛を退治していたんだろう」
「そうだったんですか」
明宏が感心した。
(呪いのお面じゃなかったんだ)
「それじゃ、あの角は?」
「う~ん、力の象徴じゃないかな? 動物は角の長さや大きさで、自分の力強さをアピールすると云うからね」
「なるほど。……あの、アスカさんのお父さんも退儺師なんですか?」
「私かい? いいや。私は健聴者だし、入り婿でね。退儺師はアスカの母だ。今は島根県のとある施設で退儺師養成の臨時教官をしている」
明宏は脳裏に日本地図を広げてみたが、地理は不得意なので皆目見当がつかなかった。
(ようするに、ちょっと遠いところへ行っているんだな)
と、大雑把に理解する。




