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第三章 人儺(じんな) 〈5〉

     5


「二本目っ!」


(え、まだやるの?)


 明宏からすればこれ以上の勝負は無意味だが、三本勝負は剣道の公式ルールである。このまま勝ち逃げされたとあっては剣道部の沽券(こけん)にもかかわる。


 竹刀をかまえる佐倉もまだ頭がしびれてクラクラしていた。一本目とは異なり、かなりの間合いをとっていた。


「とろこてん、フニャフニャしてんじゃねーぞ!」


「インターハイ5位が引いてんじゃねえ!」


 血の気の多い格闘技系運動部員たちから容赦(ようしゃ)ないヤジが飛ぶ。先は佐倉を応援していた彼らが明宏の強さを認めた証しである。


 一方、千草の無意識的な先導で女子生徒から黄色い声援を受ける明宏への嫉妬(しっと)から、佐倉を応援する男子生徒の声も多くなる。


「佐倉がんばれー!」


「獲られたら獲りかえせー!」


「詩緒里ちゃんを我らの手にっ!」


 ふいに佐倉が上段へかまえた。格下の相手が見せるかまえではないが、なにかひとつ見せ場を作っておこうと思ったのであろう。場内が静まりかえる。


 間合いを一気につめて胴なぎで一本を獲り、勝負を決めてもよかったが、


(あっさり勝ったら、剣道部のプライドを傷つけてしまいそうだな)


 などと考えていた明宏の慢心が結果として隙を生んだ。


「ワォン!」


 突然、剣道場に響いた野太い犬の鳴き声に明宏が動揺して飛び上がった。その隙を見逃さず間合いをつめた佐倉が明宏の胴に華麗な一本をたたきこむ。


「ドゥー!」


「勝負ありっ!」


 赤旗が三本上がり、主審の声が響いた。


「おぉ~!」


 感嘆の声が場内に沸く。今度は一転して佐倉の秒殺だった。


「ハハッ! ジャージ野郎、犬がこわいんでやんの!」


 剣道場に座していた1年生の剣道部員が(あざけ)りの声をあげた。彼が犬の吠えマネをしたのだ。


 今朝、剣道部員たちはジョギング中に小さなプードルに吠えたてられて詩緒里へ飛びつく明宏の情けない姿を遠くから目撃している。佐倉が明宏へ勝負を挑む踏んぎりがついたのも、その姿を見ていたからかもしれない。


 心ない剣道部員の嘲笑(ちょうしょう)に同調する者もいれば、眉をひそめる者もいた。場内がどよどよと不穏にゆれる。明宏と佐倉は二本目の試合をおえる礼をした。


「武光クン。今の一本はやりなおしと云うことに……」


 隙をみて反射的に竹刀を胴へたたきこんだ佐倉だったが、これは剣道家としての習性であり、考えてやったことではない。


 気持ちのよい勝ち方でないのはもちろんのこと、自分が犬の吠えマネをさせたなどと誤解されるのも心外である。


「いや。その必要はない。見事な一本だった」


 明宏は静かな口調でそう告げると、佐倉に背を向けて三本目の準備をする。


 剣道の隅に座している詩緒里と目が合った。詩緒里の目が怒っていた。佐倉や心ない剣道部員に対してではない。明宏に対してである。


 もちろん、明宏の苦手な犬の吠えマネをするなど卑怯(ひきょう)と思わぬこともない。


 とは云え、明宏が目の前の相手に集中していれば、犬の吠えマネに動揺したことをさし引いても避けられた攻撃である。


 そもそも、武道場の2階に犬がいるはずもない。


(……明宏。あんた、あとでフルボッコだかんね)


 詩緒里の怒りの視線を受けとめながら、


(……はい、すいません)


 明宏も情けなくうなづいた。彼自身、己の慢心から生じた隙を恥じていた。


(最後は本気でいくよ)


 明宏の本気モードが佐倉心太にとって人生最大の屈辱を招くことに気づかされるまでさほど時間はかからなかった。



     6



「勝負っ!」


 主審の三本目を告げる声が響くと同時に、佐倉心太は壁にたたきつけられ、その場へずるずるとくずれ落ちた。


 完全なる失神KOである。審判も満員の観客たちも一瞬のできごとにわけがわからず、水を打ったように静まりかえっていた。


 先ほどまでの喧噪が嘘のようだった。明日香の目にもなにが起きたかわからなかった。


 明宏神速の突きでふっ飛ばされたのである。明宏の手にしていた竹刀は壊れていた。


 使い古された授業用の竹刀は弦が切れ、先革を突き破り、ホウセンカのようにはじけていた。


「……しょ、勝負あり」


 明宏が壊れた竹刀を床に置き、こともなげに一礼すると、剣道場に控えていた部員たちがあわてて気絶した佐倉の介抱に駆けよった。


 遅れてきた波のように場内に歓声と拍手が沸いた。放心していた観客たちも、ようやくスゴイものを見たと実感していた。


 しかし、武道場の観客席をあとにする生徒たちが目撃したのは、勝ったはずの明宏が剣道場の隅で正座させられ、詩緒里に説教を喰らっている情けない姿であった。


 詩緒里の説教は昼休みがおわるまでつづいた。



     7



 明宏vs佐倉の試合は、明宏にとって思わぬ効果をもたらした。


 2年D組のクラスメイトたちから一気に受け入れられたのである。5限目おわりの休み時間には、男女問わずいろんな生徒から質問攻めにあったくらいだ。


 また、明宏の突きを喰らって失神し、五限目に出られなかった佐倉心太も男を上げた。


 教室に戻ってくるなり明宏へ向かって、


「完敗だ、武光君。……詩緒里ちゃんはきみのものだ」


 と、潔く負けを認め、犬の吠えマネをした後輩部員の非礼を詫びたためである。


「いや、あの、詩緒里ちゃんはただのイトコで妹みたいなもんだから、つき合いたければあらためて詩緒里ちゃん本人に申しこむなりしてみたらいいと思うんだけど……」


 どうせ詩緒里も自分が〈賭け〉の対象だったことなんて忘れているに決まってる。


 間接的に穴森道場や〈鬼眼(おにつら)一刀流〉を侮辱されたことまで忘れていれば、佐倉にも交際のチャンスはある……かもしれない。


「ううっ、なんて心の広い……。お兄さん、詩緒里さんはおれが必ず幸せにしてみせます!」


「だれがお兄さんだっ!?」


 感涙にむせぶ佐倉が明宏の手をとろうとして直前でやめた。明宏が試合で得た〈負の代償〉がこれだ。


 ぬちゃりと(くさ)い小手のおかげでいまだに両手が強烈な悪臭を放っていた。さんざん石けんで洗ってはみたものの、満足のいく結果からはほど遠い。


 授業中、となりの席の成田真はあからさまに顔をしかめたままだったし、試合の勝利を讃えにきた千草も、


「たは~、やったじゃん、明宏クン。最後、スッゴイ突きだったんだってー? ……て云うか、くっさ!」


 と、直球で云い放った。みんな遠慮して云いあぐねていたので、どっと笑いに包まれた。


「これは小手のせいなんだって」


 明日香が明宏の肩を人さし指でチョンチョンとつついた。ふりかえる明宏に、明日香がポケットタイプのアルコール除菌ウエットティッシュをさし出した。


『これで手を拭いてみたら?』


 明日香の口が動く。


「それじゃ、1枚だけもらえる?」


 意を汲んだ明日香がウエットティッシュを1枚ぬき出すと明宏へ手渡した。


「ありがとう」


 明宏は指先や手のひらを丹念にぬぐった。悪臭に対する効果は薄かったが、自身が抱いていた不快感は薄らいだ。


「キレイになった気がする。ほんと、ありがとう」


 照れながら小さく首をふる明日香へクラスメイトの臼井浩子が手話でなにごとか冷やかした。


 午前中の休み時間も明日香と手話で会話していた女子である。逃げる臼井浩子を明日香が追う。


「あ、コレ捨ててくるね」


 明宏も教室のゴミ箱へウエットティッシュを捨てに立った。


(まさか、こんなカタチでクラスに溶けこめるとは思わなかったな)


 最初は迷惑としか思わなかった佐倉心太にも感謝したが、なんと云っても一番感謝すべき相手は詩緒里だった。


 彼女の〈お姉ちゃん〉精神が見当違いなところでプラスに働いたおかげでだった。

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