第三章 人儺(じんな) 〈2〉
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1限目から4限目までは、なにごともなくすぎた。
明日香や千草とは朝に軽く挨拶をかわしただけで休み時間も特に話はしていない。
クラスの男子生徒ともなじんでいないのに、成田真云うところの〈2年D組のアイドル〉と親しげに話でもしてみせようものなら、嫉妬や羨望で悪印象を与えるにちがいない。
昨日、方相寺で退儺師関係の連絡用に明日香や千草とケータイ番号やメールアドレスを交換したことがバレようものなら無事では済むまい。
この3日間は休み時間と云ってもあまり周囲を観察する余裕もなかったが、今日は霧が晴れたかのように教室全体を見渡すことができた。
明日香と千草が終始べったりしていないこともはじめて知った。
目の見えない千草はまわりの女子と昨日観た(聴いた)テレビや音楽の話で盛り上がっていた。
耳の聴こえない明日香も数人の女子にかこまれて手話と口の動きだけで楽しそうに会話していた。
机の上に緑のブックカバーをかけた文庫本が載っていたので、本の話をしていたのかもしれない。
中でも、メガネの似合うクラス委員の臼井浩子は明日香と仲がよい。健聴者だが手話が得意で明日香と気があうらしい。
あんまり明日香ベッタリなものだから、口さがない男子生徒の間ではレズ疑惑もささやかれている。
明宏は退儺師として厳しい宿命を背負う明日香と千草のふつうの学園生活をかいま見てなんとなく安心した。
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4限目は5分ほど遅れておわった。今日の昼休みは詩緒里と購買部で待ちあわせをしていたが、詩緒里はすでに教室のうしろ扉で満面の笑みをうかべていた。
「ごめん。授業、今おわったんだ」
「ふっふっふっ。ゲットしたよ。伝説のアボカドシュリンプサンド!」
詩緒里はアボカドシュリンプサンドを水戸黄門の印籠みたいにひけらかした。
明宏に特別な感慨はないが、教室の奥から女子の「お~」と感嘆する小さな声が聴こえた。伝説と云うのはダテではないらしい。
「へー、すごいじゃん。よかったね。それでぼくの分は?」
「ないよ」
詩緒里はあっさりと云った。
「別にアボカドなんとかじゃなくていいんだ。ついでにぼくの分をなにか買っておいてくれたんじゃ……」
「ないよ」
詩緒里はあっさりと云った。明宏は、
(デジャ・ヴュかな?)
と、首をひねる。
「冗談ぬきであそこは戦場だった。アボカドシュリンプサンド争奪のために、あたしがどれだけの死線くぐりぬけてきたか!」
「はあ……」
明宏がマヌケな相づちを打つ。
「アボカドシュリンプサンドを死守するためには他のものに目をくれる余裕なんてなかった。あたしは涙を呑んで明宏のパンを犠牲にせざるを得なかったの……」
「……ようするに、ぼくの分はすっかり忘れてたってわけだね」
「うん」
それでも「我が人生に悔いなし」と云わんばかりに瞳をキラキラと輝かせている詩緒里であった。
「でも大丈夫。今から行ってもアンパンとか、おかかのおにぎりくらいはのこってると思う」
張りこみする刑事やあんず林のどろぼうやジャムおじさんですらない明宏にアンパンはそれほど魅力的な一品でもない。菓子パンより総菜パン派である。
(とりあえず、購買部へ行くか)
そう思った時、うしろから声をかけられた。
「武光君」
明宏がふりかえると、今朝、学校の前で見かけた剣道部の男子生徒が立っていた。
長身の男子生徒からはオーデコロンの香りがした。例外的に認められた剣道部員のたしなみである。
「ああ、今朝の……」
「おれは佐倉心太と云います」
目線が明宏の頭上を飛びこえて詩緒里にそそがれている。明宏をダシに詩緒里へ自己紹介したかったらしい。
「武光君もコレをやるのかい?」
佐倉は両手で竹刀をふる仕草を見せた。
「まあ、一応。ただ、ぼくのは剣術で、剣道じゃないんだけど……」
明宏の言葉を待たずに、佐倉が意を決して吠えた。
「穴森詩緒里ファンクラブ会員ナンバー3・佐倉心太! 武光明宏、詩緒里さんを賭けて、剣道でおれと勝負だっ!」
突然のことに教室が一瞬静まり、次の瞬間どっと沸いた。
「佐倉が編入生と勝負だってよ!」
「女を賭けてケンカだと!」
「スゲー、マンガみてえ!」
「お、なになに? なんかおもしろいことになりそうじゃん」
千草も嬉々とした声でつぶやく。
突然のイベント発生にボルテージの上がる教室の生徒たちと、あまりにも唐突な展開にぼう然とする明宏と詩緒里の温度差は尋常でない。
(詩緒里ちゃんのファンクラブなんてあったんだ……)
明宏はそんなことに感心している。詩緒里にいたっては、
「ファンクラブ……そんなの公認したおぼえないけど?」
と、首をひねる。
「あの、ちょっと待ってくれないかな? 竹刀で手あわせするのはかまわないけど、詩緒里ちゃんを賭けてって云うのは、ちょっと……」
意味がわからない。
「臆したか、武光明宏!」
「いや、別にそう云うわけじゃないんだけど」
「きみの剣術では、インターハイ5位、インターハイ5位のおれに勝つ自信がないから、詩緒里さんを賭けられないと云うのか!?」
さりげなく(?)インターハイ5位を強調してみせたが、明宏にはなんの感慨もない。
「えっと、勝つとか負けるとかはどうでもいいんだけど」
「情けない! 戦わずして敵に背を向け、負けを認めるのがきみの剣術とやらの流儀か!?」
この言葉に明宏ではなく、詩緒里がキレた。
「上等じゃない! この勝負うけた! 明宏、あたしが許す! このヒョロ男ぼっこぼこにしてやんな!」
賭けの対象である詩緒里の放った啖呵にふたたび教室が沸いた。
明宏の剣術を侮辱すると云うことは、詩緒里の剣術、すなわち穴森家への侮辱である。この瞬間、佐倉心太は〈穴森家の敵〉と認定された。
愛しの詩緒里に〈ヒョロ男〉よばわりされた佐倉心太は内心傷ついたが、とにもかくにも勝負をうけさせることができて、最低限の満足はした。
明宏との勝負に勝てば、詩緒里を自分にふり向かせることができるだろうと、徹底的なプラス思考で自分を奮い立たせる。
こう云う男は敵にまわすと、ひたすら迷惑なのだ。
「勝負は午后1時、場所は剣道場! 男と男の真剣勝負、逃げることは許さんぞ!」
今時、時代劇でも聴かないような台詞を臆面もなく云ってのける佐倉心太へ、
「だれがあんたみたいなヒョロ男相手に逃げるっつーのよ! せいぜい首を洗って待ってなさい! ……あたしの明宏は強いよ」
これまた詩緒里が吠えた。三たび教室が沸く。
佐倉心太はなにも云わずに教室をあとにしたが、詩緒里の口(攻)撃が与えたダメージは少なくない。剣道場へ向かう彼の背中に悲哀がただよっていた。
詩緒里がさも当然のごとく云い放った台詞の最後に大胆な省略があることを彼女自身は気づいていなかった。
〈問一〉カッコ内に入る語句を答えよ。
「あたしの( )明宏は強いよ」
模範回答は(弟の)(弟子の)(下僕の)である。間違っても(愛する)なんて色気のある言葉は入らない。
そのことを知っている明宏は完全に聴き流していたが、はたから見れば堂々たる〈恋人宣言〉である。直情的で人に勘違いさせやすいところが詩緒里の欠点と云える。
教室の生徒たちが明宏vs佐倉の勝負を喧伝しながら、剣道場へ野次馬根性丸出しの民族大移動を開始した。少しでもよい場所で観戦しようと云う魂胆である。
他のクラスのヒマな生徒たちも、明宏のことは知らないが、時代錯誤なイベントに興味津々のようだ。こうして明宏の意思とはまったく関係のないところで、勝負のお膳立てが整ってしまった。
(なんか、めんどうくさいことになったな……)
ほとんど人のいなくなった教室に明日香ものこっていた。
千草の〈念話〉やまわりの生徒たちから話を聴いた明日香がぼう然と立ちつくす明宏を心配げな表情で見つめていた。
そんな明日香と目のあった明宏が力なく笑った。