第三章 人儺(じんな) 〈1〉
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(なんか昨日はいろいろありすぎたな……)
今朝は昨日の轍を踏まぬよう、午前7時までに朝稽古をおえた明宏は、時間に余裕を持って詩緒里と登校していた。
晴れ渡る青空が清々しくスズメやヒヨドリたちの元気なさえずりが耳に心地よい。
工事現場の横を通る時は我知らず少し緊張したが、詩緒里との他愛もないおしゃべりが明宏をリラックスさせた。
「あ……、そうだ、詩緒里ちゃん。今日の放課後、ちょっと買い物つきあってくれない?」
「買い物? いいけど、なに買うの?」
「耳ケガしたろ? その時、アスカさんがぼくのケガを自分のハンカチで止血してくれたんだ」
「……アスカさんって、昨日、千草さんといたキレイな人?」
「うん。汚れたハンカチの染みぬきを伊織さんに頼んだら、エチケットとして新品のハンカチをプレゼントしなきゃだよ、って云われちゃってさ」
「あー、明宏にそう云う気はまわんないか」
「……面目次第もない」
「あんなキレイな人にヘンなペイズリー柄のハンカチとかプレゼントしたら失笑もんだもんねー。よっしゃわかった。あたしにまかせときんさい。明宏の男をあげるようなステキなハンカチ選んだげる」
昨夜は方相寺を辞したあと、ハンカチを買いに行けるような気力も体力も残っていなかった。
衝撃的な事実を数多く知ったのもさることながら、失神寸前まで追いつめられた千草のスリーパーホールドが効いた。
自分のことでもないのに平謝りする明日香と開きなおる千草が好対照をなしていた。
LEDライトの黄色い灯りにぼんやりと照らし出された古い木造家屋の玄関で明宏が靴を履いていると、
「ほんじゃ、私も帰るか」
と、千草が家の奥へ向かう。
「帰るって?」
明宏が訊ねると、
「あ、私んち、向こうだから」
千草が本堂の方を指して云った。
僧坊の右翼が明日香の住む霧壺家、僧坊の左翼が千草の住む姫鞍家なのだそうだ。当然、多恵婆も左翼の僧坊に住んでいる。
昨日の放課後、学校での別れ際に、
「ほんじゃ、先帰って待ってる」
と、云った千草の言葉にそこはかとない違和感があったのだが、得心がいった。
千草と明日香が一緒にいるのは、同じ退儺師だからと云うだけでなく、同じ敷地に住んでいるからでもあった。
昨日は詩緒里へハンカチを買う相談をためらった明宏だが、伊織に云われたことを告げれば、うしろめたさを感じることなく相談できることに気がついた。
案外〈明宏のカノジョ〉と千草にからわれていた詩緒里を自分までヘンに意識していたのかもしれないと苦笑する。実際、詩緒里は屈託なくOKしてくれたじゃないか、と。
「ただ、あたしにもお礼してよね」
詩緒里が云った。
「お礼? ああ、もちろん」
「やった!『サーティーンアイス』のスナイパー・スペシャルだかんね!」
3段重ねのアイスクリームである。
「スナイパー・スペシャルでも、ゴルゴ・スペシャルでもなんでもおごるよ」
ちなみに、ゴルゴ・スペシャルは4段重ねである。
「明宏、ヒドくない!? ゴルゴ・スペシャルなんか食べたら太るじゃん」
意外な剣幕に明宏はたじろいだ。
「え? いや、あの別に、それくらい感謝してますってことなんだけど……」
明宏にはどうにも女心の機微がわからない。男と女は永遠にわかりあえない生き物なのか? あるいは単に女難の卦でも出ているのか? などと考えていたら、
「フャンフャン!」
背後から聴こえた甲高い犬の鳴き声に明宏は飛び上がった。
「あら、すいません」
でっぷりと太ったオバサンがその体型に似つかわしくないほど小さなプードルをつれていた。
オバサンと比較すると、オシャレに刈りこまれたプードルは骨つきの鳥の唐揚げと錯覚しそうなほど小さい。
「ほら、行くわよ、ピーちゃん」
警戒心が強いのかストレスがたまっているのかさだかではないが、勢いづいたプードルはでっぷりと太ったオバサンに先を急かされながら甲高い声でわめきつづけていた。
「……犬が苦手ってことは知っていたけど、あんなのもダメなの?」
詩緒里があきれ声で訊く。
「これはもう理屈じゃなくって……」
明宏が情けない声で応えた。
明宏は幼い頃、犬に右上腕を噛まれたトラウマがある。今もその傷痕は肩の近くに刻印されているし、下手をすれば右手が利かなくなる可能性すらあったらしい。
明宏の両親が彼に剣術を教えたのは、右手の握力を鍛えさせるためでもあったと云う。
「はいはい。わかったからイイカゲンはなれてくんない?」
「え……?」
気がつくと明宏は詩緒里に抱きついていた。
はたから見ると朝っぱらからディープインパクトなラブシーンである。まわりを歩いている生徒たちの方が恥ずかしさに気がねして、目をそらしながら行きすぎる。
「うわっ! ご、ごめん、詩緒里ちゃん!」
明宏はあわてて飛びのいた。鉄拳制裁の一発は覚悟したが、人前で自分よりも〈弱い相手〉に手をあげる詩緒里ではない。
「……ホンット、勘弁してよね」
頬を赤く染め、怒ったような口ぶりでスカートの裾をはたきながら詩緒里が云った。
車道をはさんで向かいがわの歩道を道着姿の剣道部員たちがジョギングしていた。最後尾を走る身長190cmはありそうな細身の大男と明宏の目があった。
細身の大男は明宏に軽く目礼した。名前こそまだ憶えていないが明宏と同じクラスだ。成田真のように好奇に満ちた視線ではなかったので明宏も軽く目礼をかえした。
「ここの剣道部って道着でジョギングするんだ? 暑そうだね」
「熱血なんじゃない? 全国でもそこそこ強いらしいよ。……あたしたちの相手にはならないけど」
詩緒里が興味なさげに応えた。
「そうなんだ?」
実のところ、明宏も剣道には興味がない。剣術と剣道は本質的に異なるからである。
普段、自分たちも着ている道着と同じものを着ていた集団をなんとなく目がとらえてしまっただけのことだ。
「さ、早く行こっ! 明宏がプードルに吠えたてられて遅刻しました、なんてことになったら末代までの恥だよ」
歩調を早める詩緒里のあとを追いながら明宏は思う。
(今日は平和な一日でありますように)
その願いが昼休みまでしか通じないことを明宏はまだ知らない。