第二章 退儺師(たいなし) 〈10〉
「ちょっとやってみよっか? 明宏クン。手で水をすくうようなお椀型にして」
千草の言葉に明宏がしたがう。
「そしたら目を閉じて。手の中に白くて丸い小さな真珠が載っているところをイメージしてみて」
明宏は集中する。短時間ではいかにも触れられそうな真珠のイメージどころか、もやもやした写真みたいな映像を想像するのがやっとだ。
「……ハイ、終了! 目を開けて。できた?」
「いや。できない」
手の中に真珠などあるはずもなかった。しかし、明宏の眼前へ座る明日香の手のひらに小さな真珠が1粒光っていた。
「まさか……」
明宏は瞠目した。明日香は真珠をこともなげにテーブルの上へ置くと、ノートPCへタイピングした。人工音声が告げる。
「これは私たち攻撃能力を有する技闘退儺師が最初におこなう訓練なんです。私も最初に真珠をかたちづくることができるまで1ヶ月かかりました」
「いや、1ヶ月でも充分早いと思うけど……」
よしんば、今、明宏に真珠を具体化することができたとしても、精神が焼き切れて発狂するにちがいない。
明日香の鬼道がどれほどの精神力と集中力を必要とするのか、考えただけでゾッとした。気が遠くなる。
そんな技闘退儺師ではない千草が得意げに云った。
「マンガやアニメやRPGに出てくる魔法本来の原理がコレよ。人間だれもが持ってるイマジネーションの究極。水の精霊や炎の妖精の力を借りる的な魔法とは原理が違うんだけどね。あっちは式神を打つ陰陽道の魔法に近いかな? 私たちの鬼道の方が原始的で直接的かもしんない」
それだけに習得が困難で、個々の力量に差が出やすいとも云える。
「ふつう技闘退儺師は戦闘時、鬼道譜ってものを使うの。……たとえば、こう云うヤツ」
千草はポケットからトランプのような小さなカードをとり出した。開くと、五芒星を中心にいくつかの円が描かれており、その中にさまざまな記号や文字が描かれている。
「これは〈結界符〉って云うの。技闘退儺師が文字や記号に具象化するイメージをこめて描いたもので、土鬼蜘蛛に襲われそうなった時、これを打つ、あ、投げると、ちょっとしたバリアーになる」
「これってぼくが触っても大丈夫かな?」
「人儺でなければ大丈夫じゃない? 対土鬼蜘蛛用だから」
明宏が訊ねると、千草が小さく笑った。
明宏はおそるおそる結界符をつまみあげた。カード表面に点字がほどこされている意外はなんの変哲もないカードだ。
本当にこんな紙きれがあの相手に効くのか、はなはだ心許ない。
「五芒星の中に急々如律令って書かれてるでしょ?」
云われてみれば、なんとなくわかる。
「そのあたりが陰陽道をとり入れてたりするんだよね。本来は式神用の法術なんだけど」
最近の若い退儺師は〈急々如律令〉のかわりに〈超光速〉などと書くこともあると云う。書き手の内的リアリティに依存するので、用途は同じでも見た目のバラエティは豊富であるらしい。
「私たちの使ってる漢字は表意文字で、アルファベットみたいな表音文字に比べると絵に近いって云われてるじゃん?」
明宏は首肯した。
「技闘退儺師は文字や記号に具象化する念をこめて描くことができる。鬼道譜はそれに触れた土鬼蜘蛛が爆発したり、斬り裂かれたりするイメージで描かれているの。ようするに、対土鬼蜘蛛用の地雷みたいなもんよ。事前に出現予定地のわかる私ら感知退儺師との連携作戦で、出現と同時に退治することができるってわけ」
鬼道譜を描きながら念をこめるよりも、描きあげた鬼道譜に集中して念をこめる方が効率的なので、技闘退儺師はあらかじめ用意しておいた鬼道譜や鬼道譜をしこんだアイテムを持っている。
しかし、ベテランや特一級レベルの技闘退儺師ともなれば、頭の中で組みあげた鬼道譜を地面、あるいは土鬼蜘蛛へダイレクトに焼きつけることすら可能になる。
ちなみに、鬼道譜には大別して2種類ある。
千草などの感知退儺師にも使えるカード判の鬼道譜は、漢字で書くと〈結界符〉〈鬼爆符〉となり、技闘退儺師しか使用できない鬼道譜は〈鬼斬譜〉〈鬼爆譜〉などと書く。
「でも、今日の2件は例外中の例外。1件目は完全に出おくれたし、2件目も不良たちを追いはらうのに手間どったし、ゴキちゃん風土鬼蜘蛛でアスカがパニクったし」
千草が苦笑し、明日香が気まずそうにうつむいた。1件目はともかく2件目は己の不覚を恥じているらしい。
「で、究極の技闘退儺師にしか使えない荒技が、アスカが明宏クンの前で披露した〈手詞鬼道〉別名〈手鬼舞〉」
「手鬼舞……」
「イマジネーションと集中力を高めるための儀式みたいなものよ。呪文でも祝詞でもお経でも真言でもお題目でも準備運動でもなんでもいいんだけど、やっぱり、なにもないところにイメージだけで〈爆炎〉みたいな大技出そうと思ったら、瞬時に集中する方法・儀式が必要なんだよね」
「私にとってイメージを具象化するのに最適なのが手話なんです」
明日香のタイピングした言葉が人工音声に変換された。発話ではなく全身で表現できる手話だからこそ、瞬間的に集中力とイマジネーションが高まるらしい。
「アスカさんが炎やお湯を出した時の手の動きも手話だったのか。……それにしても、よくあんな短時間でできるね」
明宏は感嘆した。
日々の剣術修行でふつうの人より精神力・集中力の鍛えられている明宏でも、明日香レベルの集中力・精神力は想像もつかない。伝説の武術の達人レベルすらはるかに越えているはずだ。
「あれだけのことをたてつづけにやれば、さすがのアスカも消耗するってわけ。純情可憐な乙女を気どってサンドイッチだけで済まそうなんて日の午后には、あの酒臭い保健室で奈良漬けのモエちゃんセンセーとならんで点滴よ、点滴」
明日香が微苦笑した。さすがにそれはイヤだと思ったらしい。
「今日の昼食はアスカが恥ずかしがって注文しないもんだから、私がムリクリ注文したんだけど、ペロッとたいらげたよねえ?」
〈……ホントに〉
明日香もすなおにうなづいた。自分でもあれだけの量をあっと云う間に完食するとは思っていなかった。
「で、くやしいのはさあ、あんだけ食べてちっともお腹出ないクセに、胸だけは必要以上に育ってんだよね。きっと緊急時のために栄養をたくわえてんでしょ。……アスカ、今日からあんたのふたつ名は〈フタコブラクダのアスカ〉よっ!」
〈フタコブラクダ……って、なんか恥ずかしい命名しないでっ! 千草ちゃんこそ、やさしさが胸につまってないから、こんなに胸ぺったんこなんだよ〉
明日香が〈念話〉で云いかえしながら千草の胸をなでた。
〈あ、ごめん。背中だった〉
「なにが背中じゃ!」
明日香がアゴに人さし指を当て、わざとらしく小首をかしげている。
ふたりのやりとりに明宏が思わず笑った。明日香の〈念話〉は聴こえていないが、千草の台詞と明日香の身ぶりで会話の内容は想像がつく。
「明宏っ! なに笑ってんのっ! やっぱ、あんたも胸なのね! 女の価値を胸の大きさで決める最低男なのねっ!」
「ち、違うって! ぼくは別に貧乳とかそう云うのは関係ない……」
とんだとばっちりを受けた明宏が、あわてて首をふる。
「ひ、貧乳~っ!? 云うてはならんことを……わ、私はね、貧乳じゃなくて、スレンダー美女って云うのよっ!」
「メカンダーロボ? ちょ、ちょっと待って! なにもぼくは千草さんが貧乳だなんて一言も……」
「むきゃー! 1度ならず2度までも貧乳と云うかーっ!」
猫のようにしなやかな側転でテーブルを飛び越えた千草が明宏のバックをとってスリーパーホールドを決めた。
明日香もあわてて席を立ち、千草を引きはがそうと〈念話〉で懐柔を試みる。
〈ち、千草ちゃん、ごめんってば。冗談でしょっ?〉
「チョ、チョーク! チョーク!」
「うにゅー、許さんっ!」
そもそもの原因は千草が明日香をからかったからだが、こう云う場合、先にキレた人間の迫力が勝る。ひらたく云えば、理不尽である。
言葉は人の心に作用する魔法であり、その効力は相手の〈内的リアリティ〉によって変わると云った千草にとって「胸ぺったんこ、貧乳、乳ビンボー」などの非日常的かつ特殊な単語は、殺傷能力の高い口(攻)撃魔法となり得るらしい。
(魔法ってコワイ……)
うすれゆく意識の中で、明宏は思った。