第一章 土鬼蜘蛛(つきぐも) 〈1〉
1
人気のない道場に足音がきしむ。
道着の裾が風をはらみ、木刀が重い音をたてて虚空を斬る。
早朝である。
夜明け前から降りしきる雨と鉛色の空で道場は薄暗い。
しかし、一心不乱に木刀をふるう少年は、道場の薄暗さなぞ気にもとめていない。
ほとばしる汗がぽつぽつと板敷きの床をぬらす。
少年はひとり、時間の感覚も忘れて、黙々と木刀をふりつづけていた。
……悪夢を断ち斬るかのように。
2
「明宏っ! あんたいつまで朝稽古してんの!?」
道場の扉があらあらしく開くと、狙いすました飛び蹴りが明宏の胸へ炸裂した。
「のはっ!」
もんどりうって倒れる少年を仁王立ちで睥睨していたのは、ゆるやかにウェーブした栗色の髪を肩でゆらす勝ち気な瞳のカワイイ少女だ。
彼女の名は穴森詩緒里。15歳。高校1年生。穴森道場の跡とり娘で剣術の腕もハンパではない。
詩緒里に蹴り倒された少年の名は武光明宏。16歳。高校2年生。詩緒里のイトコで穴森道場の居候である。
「もう7時半だよ。早く支度しないと遅れるでしょ、学校?」
「え、もうそんな時間!?」
詩緒里の声に顔を上げた明宏は、不意に眼をそむけると頬を赤らめた。
飛び蹴りを喰らった刹那、網膜へ焼きついた白と水色のストライプの正体が詩緒里の短い制服のスカートからのぞいていた。
「……バカ、変態、スケベ!」
明宏の狼狽に気づいた詩緒里が、反射的に嵐のようなストンピングをたたきつける。
「わ、バカ、やめろって! んなコトするとよけいに見え……」
我にかえった詩緒里がスカートの裾を押さえてあとずさると、背中がなにかにぶつかった。
かっはっは、と豪快な笑い声がした。詩緒里のうしろに立っていたのは紺色の道着をまとった屈強そうな大男であった。
男の名は穴森大膳。江戸時代からつづく実践的な剣術道場の第十二代師範である。
その剣術には〈鬼眼一刀流〉と云う大層な流派名もあるのだが、近所の人は〈穴森〉の名をもじって「雨漏り道場」などと揶揄する。
ようするに、彼がこの貧乏剣術道場の主であり、詩緒里の父である。
道着姿の明宏に目をとめると大膳は破顔した。
「おお、明宏! 朝稽古とは精が出るな。善哉善哉!」
朝からどうにもフルスロットルなハイテンションである。外はあいにくの雨もようと云うのに、まったく気分に影響がないらしい。
剣術家として鍛えあげられた精神の賜物か、単なる無神経かは判断のムツカシイところである。
「それで学校に遅刻しちゃ世話ないでしょ? ほら明宏さっさと立つ!」
詩緒里にうながされるまでもなく立ち上がっていた明宏は、木刀を片づけると雑巾のありかを目で探した。
稽古のあとに道場を掃除するのは礼儀であり、作法である。
明宏の目線に気づいた詩緒里があきれた。
「道場の掃除なんかしてる時間ないって」
「おれも今から稽古するから、掃除はしなくてよい」
「……すいません。あとよろしくお願いします」
明宏は大膳へ深々と頭を下げた。
「ほら、さっさとする!」
詩緒里は明宏の道着の襟首をつかむと、背中を押すように道場をあとにした。ふたりとも出口で向きなおり、道場へ一礼することは忘れない。
(うむ。朝からよいコたちである)
大膳は呵々大笑した。
3
「あら、明宏クンそんな格好して。朝稽古してたの? エライわね~」
「だからエラくないっての!」
「あ、伊織さん、おはようございます」
詩緒里に襟首をつかまれたまま急きたてられ、早足で母屋の廊下を歩く道着姿の明宏へのんきな声をかけたのは穴森伊織。詩緒里の母である。
〈雨漏り道場の女菩薩〉と謳われる人格者だが血統で〈鬼眼一刀流〉を継ぐのは彼女だ(大膳は入り婿である)。もちろん〈鬼眼一刀流〉免許皆伝でもある。
「お風呂で汗流した方がよいよ。詩緒里ちゃん、背中流してあげて」
「ちょ……、朝っぱらから、なに云ってんの!?」
「冗談だってば~。すぐムキになるところがカワイイでしょ、明宏クン?」
伊織がきゃらきゃらと笑う。
明宏は曖昧にうなづいた。肯定しても否定しても詩緒里の怒りの矛先が明宏へ向かうは必定である。
「さすがに朝ご飯を食べてる時間はないか。……学校で食べられるよう、おにぎり作っといてあげるから、その間にさっさとお風呂入っちゃいなさい」
伊織が台所へと姿を消し、廊下には明宏と詩緒里がとりのこされた。
「まったく……」
詩緒里があきらめたように肩をすくめると云った。
「早くお風呂入って支度してよね。あんた待ってたら、あたしも遅刻しちゃうわ」
明宏は3日前から詩緒里と同じ私立台和高等学校へ通っている。詩緒里は母の伊織から、
「明宏クンが登下校のルートをおぼえるまでキチンとつきそってあげてね」
と、申しつけられている。こちらは冗談ではない。
「ありがと、詩緒里ちゃん。でも、学校までの行き方はわかったから、ぼくひとりでも大丈夫。遅刻するといけないから先に行ってて」
明宏としては精一杯、気をつかったつもりだが、彼の言葉に拗ねた瞳を向けた詩緒里は、ややあってこう吐き捨てた。
「……わかった。もう頼まれても道案内なんかしないもん!」
プンスカプン! と意味不明な怒りを発散しながら立ち去る詩緒里の背中に、
(やっぱり、ぼくがここにいることは、詩緒里ちゃんの迷惑になっているのかもしれない)
と、明宏はかんちがいした。