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篠滝が眠りについたのを確認して、私はラウンジに戻った。
もう設計図は大体できていた。研究でも、工業製品でも同じことだが、ある程度の変数の代入と理論の導入、様式の規定さえ作ってしまえばあとは計算して、式に従って線を引くだけで図面が書きあがる。
あとは細かい部品図だが、そこら辺はメーカーの方にまわすべきだろう。
それでも大判用紙のファイルの束と、細長い筒に20枚ほどの紙が入っている。合計で大体200枚程になる。まだに詰めていないが、大体あっているだろう。
製図用具をしまう。
ジャスミン茶を飲みながら、まわされてきたエンテ型機の失速と安定性の実験について考える。
あのAcro-360Sの主翼は早々に取り換える予定だ。中央の研究所で、面白い翼型が開発されたらしい。篠滝にはまだ改造予定については何も言っていないが、次の主翼はそれで作る予定だ。
揚力傾斜がある一点でかなり緩やかになるらしい。これを実機に採用すれば、ある一定の仰角まで安定して飛行し、一定を超えると機敏に操縦できる機体が出来上がる。もし巡航速度を安定域に入れて、戦闘速度を不安定域に入れれば、かなり有用な機体になる。
戦闘機とは、というより、殆どの航空機は矛盾を抱えて飛んでいる。戦闘機は巡航時は効率良く、長く飛べなければいけない。しかしいったん戦闘に入れば即座に反応し、立ち回れるような俊敏性も必要になる。
この矛盾を、これによって解決できるかもしれない。少しだけ頬を緩める。
心配なのは、飛行機よりも篠滝の方だ。
行きにやってもらった宙返り。機体が違うのもあるが、彼女の腕は相当鈍っている。
心因性のものなのか、単に飛行時間が足りないのかはわからないが。もう少し飛ばせてみないといけない。
あの時。
高G機動中に何とか見たG計は5.06Gを指していた。最盛期の彼女なら、完璧に5Gに収まった宙返りをしたはずだ。
ここの滑走路だと、戦闘機が離発着するのはほぼ無理だといっていい。
彼女に投与されている薬のせいかもしれないが、その中止を決める権限は別のセクションにある。
明後日、彼女に設計図をもってまた向こうまで飛んでもらう。あの機体には子細な運動までわかるフライトレコーダーを積んでいる。勿論、実験用だが、監視の無いところで彼女が予定外の飛行をしないか監視する物でもある。追跡機をこっそりつけるという案もあったが、彼女に見つからないはずがない。
彼女………いや、彼女だけではないが………は、こと空中戦に関しては無類の戦闘能力を持っている。下手をすると、非武装の機体でも追跡機を『撃墜』してしまうかもしれない。
少なくとも、今日の飛行では3.4Gまでしかかけていなかった。自重はしているらしい。
彼女が戦闘機に乗らなくなってから大体2年程だろうか。少なくとも、6G以上の荷重に耐えられるような機体にはまだ乗っていないはずだ。
未だに彼女には敗戦直後のことは訊いていない。少なくとも、彼女はそのころのことを誰にも話していないようだ。
新野大佐指令下のF325飛行隊で、彼女は氷川優燈飛行中尉の編隊で、18機を撃墜し、エース・パイロットとなった。戦闘機に乗り始めてからたった3か月で、だ。
迎撃戦、とくに低空戦の戦果が目立つ。
修理中、片方のラダーが外れた状態で3機を撃墜した記録もある。
しかし不思議なことに、この飛行隊のパイロットはおろか、整備士や調理師、清掃士まで一人残らず殺害されている。全て戦後に知ったことだ。
彼女が、最後の一人だった。彼女がどうやって生き残ったのか、戦後をどうやって過ごしたのか。彼女を殺そうとした勢力からどうやって逃げたのか。
何もわからない。だが、それは自分も同じこと。彼女よりも自覚症状があるだけ、多少はましかもしれないが。
彼女らが乗っていた試験機の詳細もまだ分からない。
どうやら、機体のかなりの部分が繊維強化樹脂で作られていたらしい。しかし、それ以外のことはまだあまりわかっていない。
旧航空材料技術研究開発機構にそれらしい記録が残っていたという話もあるが、その当時に一研究機関が戦闘機を生産できるほどの余力があったかは怪しい。
この機体に似ているところはあるな、と思う。この機体も殆ど繊維強化樹脂でできている。
鳳流に似ているからこそこの機体にした、ということもあるが。ランディングギアを見る。ジェラルミン板を曲げただけの構造。両端を削って流線形にしてみようか、と考える。可能だろう。
そういえば相当前の複葉機でもワイヤを平たい形にしていたな、と思い出す。
ポケットに手を突っ込んで、煙草がないことを思い出して手を元に戻す。
彼女は酒も煙草もしない。それが戦前からか、戦後からかはわからないが。私もそれに合わせている。
健康的な奴。まあ、酒が欲しいといっても手に入るかはわからないが。
シンクにカップを片付け、私はラウンジから出て自室へ向かう。
ふと気になって、ハンガーへ向かう。
外はもう真っ暗だった。仕方がないので非常用の懐中電灯をもって外へ出る。
機体は中に入っていた。G計を盗み見る。座席がかなり前へ出ていた。一応持ってきたバスケットをハンガーの中に入れておく。繊維強化樹脂の内側にアルミパイプの骨組みがはめ込まれ、ビスで固定されている。
篠滝がフロートを付けられるか聞いてきたことを思い出す。ここから海まで約1000km。あの機体だと増槽を積んでぎりぎり届く距離だが、フロートを付けたら届かないだろう。
なぜ彼女はそれを訊いたのか。
明日にでも訊いてみるか、と思う。
部屋に戻り、シャワーを浴びる。
ベッドにもぐりこみ、目を瞑った。
夢だとわかる夢を見た。
篠滝の後方に私がつけている。
『ついてこれますか?』
「勿論」
『では』
目の前の鳳流が上昇する。
こちらも上昇。
こちらの方が性能は良いはずだ。だが、彼女は既に大分上の方にいる。
だが、やがて追いついていく。
篠滝はフラップを出している。
おかしい、追いつくのが速すぎる。
その瞬間、彼女はフラップをしまい、失速。
彼女の方がずっと遅い。このままだと彼女の前へ出る。仕方がないので、右に旋回して様子を見る。
彼女は左に旋回。
切り返して、上から被さる。彼女は左にバレル・ロール。一瞬だけ彼女の機体が前に来る。
交差角が大きすぎる。全く追いつけない。
切り返したいのを我慢して、旋回。
彼女はスナップっぽく反転し、さらに上へ。
覆いかぶさられる。
アンロード加速。
しかし、追いつかれた。
『貴女の負けです』
「ええ、そうね」
『まあまあ良かったのでは』
「何か月生き残れる?」
『私が相手なら、一日でしょう』
吹き出す。それはそうだ。
今も一度死んだばかりなのだから。
後ろを振り返る。
しかし、そこには篠滝の機体はなく。
「篠滝?」
返事はない。
だって、今…………
「篠滝?どこにいるの?」
自分の息遣いが五月蠅い。
「どこ?」
機体を裏返す。
周りを見る。
何もない。
「メーデー、メーデー。コントロール、一番機の位置を確認できません。そちらのレーダーでは確認できますか」
『コントロール。今現在編隊で飛行しているパイロットはいない。所属とソーティー名を告げよ』
思い出せない。
でも、今確かに私は篠滝と飛んでいたはずなのだ
「コントロール、周辺に飛んでいる機は」
『今周辺を飛んでいる機はない。所属とソーティ名を』
どうして?
一緒に飛んでいたはずなのに。
全く。いつもこんな感じだ。
流されるように、呑み込まれるように、
いつの間にか、失くしていくようだ。
篠滝は、どこだろう。
否、そもそもそんな人間がいたかどうか。
名前は、やがて薄れ、摩擦音だけが、
僕は目を瞑った。
溜息をついた。