忠犬は幽霊になってもあなたを待っている。
僕は幽霊。
幽霊になった者は大抵恨みごとや未練などがあるらしいけど、僕にはそんな物はない。
だって僕は生きていた頃の記憶がない。ついでに嬉しいとか悲しいとかの感情もなくしてしまったのか何かあってもなんとも思えない。
僕はそんな人間の幽霊だ。
僕と同じ幽霊の仲間たちは僕のことをヌケガラと呼んでいる。僕がセミなどの抜け殻のように形だけで何も残っていないかららしい。
その例えは大変あっているし、自分の名前を考えるのも面倒くさいので僕は自分からヌケガラと名乗るようにした。実際に名前なんてなんだっていいしね。
そんな抜け殻のような僕は幽霊になってからしばらくして、幽霊の世界の警察みたいな所で働くことになった。
働くようになってから長い時間を過ごしているけど、特に警察だからと言って面白いことも起きないつまらない毎日を僕は過ごしていた。
ある日僕はハチという犬の名を聞いた。
このハチという犬は自分より先に死んだ飼い主の死が認められずに飼い主とよく待ち合わせをしていた渋谷駅という駅で絶対に来ることはない飼い主を数年間待ち続けた後、死んでしまったらしい。そしてそれは幽霊になってからも変わることはなかった。
人間たちはこのハチの事を忠犬ハチ公として称え、ハチの銅像を作っている。だが僕たち幽霊は何度説得しても幽霊の世界に来ることなく、来るはずもない主人を待つハチを人間と同じ様に称える者と、哀れな地縛霊としてバカにする者の二つに分かれている。
僕はその話を聞いた時賞賛やバカにすることよりも疑問に思うことの方が強かった。
なんでこの犬は何十年待っても来ない飼い主のことを今も待って居られるのかそれが抜け殻のような僕には分からなかった。
しかし抜け殻のように感情がない僕がハチの気持ちを知りたいと思っている。その事に僕は内心驚いてしまった。
それから何日かが過ぎ、僕は仕事を休んで実際にハチのとこへ会いに行くことにした。
ハチの元へ行くため僕は幽霊の世界から人間の世界にある渋谷駅に向かった。
渋谷駅に着くとハチはすぐに見つかった。
ハチは自分の銅像の前でじーっとお座りの体勢のまま座っていた。その姿は同じ幽霊である僕や霊感がある者にしか見えないが、確かに忠犬にふさわしいなと感じた。
しばらくハチを眺めているとハチは僕に気付いたのか僕の居る方向を見てきた。
僕はハチの所まで行き、笑顔を作りながら、
「こんにちは」
と挨拶をした。
僕が挨拶をするとハチも笑顔で、
「こんにちは。あなたは幽霊さんですね。僕に何かご用ですか?」
とあいさつを返してきた。ずいぶん礼儀正しい犬だ。
ちなみに幽霊は自分と違う種族とも会話をすることが出来る。つくづく幽霊って便利だなと思いながら僕はハチに会いに来た経緯を正直に全て話すと、
「えへへ。僕に会いたいだなんて照れちゃうな」
自分に会いに来たと言われて嬉しそうな顔をする。
「…………」
それを見て僕は不覚にも犬のくせに僕なんかよりよっぽど感情豊かなんだと絶句してしまう。
「でもなんでご主人を待っているだけの僕なんかの気持ちをあなたは知りたかったんですか?」
ハチは僕がさっき話したことを疑問に思っているらしい。
それもそうだろう。いきなり君の気持ちが知りたいんだなどと言われたら、いくら感情が無に乏しい僕でも気持ち悪いと思ってしまうだろ。
女の子なんかにそんなことを言ってしまったら即逮捕されてしまいそうだ。しかも僕は警察みたいな身分だし、そんな奴が痴漢で逮捕って一体どうなんだろうか。
「……」
「どうしたんですか?」
「……いやなんでもないよ。少しくだらないことを考えちゃっただけさ」
バカみたいなことを考えている僕をハチは心配してくれる。優しい犬だ。同時にその気遣いが抜け殻みたいな僕でも嬉しいと感じられた。
だから口下手である僕はハチの質問に出来るだけ答えようと考え、素直に話すことにした。
「僕は君がなんでもう来ないと分かっている飼い主を何年も何十年も待っていられるのかが分からなくて、それが気になって君の気持ちを知りたいから君に会いに来たんだ」
僕の話を聞いた瞬間、今までニコニコと笑っていたハチは笑顔から一転真剣な顔になる。
そして僕に真剣な表情ながらも穏やかな声で言った。
「あなたは何を言っているの? もう来ることのない飼い主を何年も何十年も待っている? 違うよ。ご主人はいつか必ず迎えに来る。だから僕はご主人が来るまで待っているだけだよ。何百年でも何千年でもね」
ハチは僕の言葉を穏やかに丁寧にしかし強く否定した。でもハチにだって分かっているはずだ。
ハチの飼い主の魂はもう消えてしまったことを。
幽霊はみんながみんななれる訳ではない。
この世に強い未練と恨みがある者と稀に運が良かった者だけがなれる。後の者はそのまま新たな命に生まれ変わり、生前の人格は、魂はもう消えてしまっている。
ハチの飼い主はこの二つのどちらにも該当しない。そのくらいのことはハチに会いに行く前に僕は調べた。
ハチはこのことをずっと知らないでいたのかと思い、ハチに話そうとした。
「……っ」
しかしそれはやめることにした。ハチは全てを知っている。それでも自分の主人が来ることを愚直に信じている。ハチの目はそう物語っていた。
僕はそのことをすごいと思った。同時に悲しいと感じた。
だって信じた先には結局は絶望しかない。それは悲しいし、虚しいだけだ。
それを分かっていても自分の主人を待っているハチだから僕は興味を湧いたんだろうけど。
「しばらくの間君のことを観察してもいいかな」
僕はまた変態に思われてもおかしくない発言をしてしまう。つくづく僕は口下手だ。しかしそんな僕の発言をハチは真剣な顔からまた笑顔に戻し、承諾してくれる。
「もちろん。久しぶりに誰かと話したかったから嬉しいよ」
「そうか。ありがとう」
「僕の名前はハチ。あなたは?」
ハチは無邪気な顔で僕を歓迎し、僕の名を聞いてきた。
「僕の名前はヌケガラ」
そう言うと、ハチは少し迷ったように提案してくる。
「うーん。ヌケガラか。ねぇあだ名はヌケヌケとガラガラどっちがいい?」
「……いやそんな変なあだ名はいらないからね」
どうやらハチにはネーミングセンスがないらしい。
それから僕は仕事の合間にちょくちょくハチの元を訪れては、ハチを観察していた。それがもう一年も経つ。
僕がハチを観察して分かったことは、まずハチはネーミングセンスがないくせにあだ名を考えることが好きみたいだ。
ハチは観察している僕にやたらとヘンテコなあだ名をつけようとした。エスピエール十七世というあだ名をつけようとした時は、ハチは一体どこの王族だと思ってしまった。
結局はヌケというマヌケなあだ名となった。今となっては結構気に入ってるけどね。
次にハチは主人の待ち方はただひたすら自分の銅像の前で雨が降っても、雪が降っても主人が迎えに来ることを信じて待っていた。僕と話している時だってそれは変わらない。
こんなハチの気持ちを僕は観察してからもっと分からなくなってしまった。
最後に僕とハチはいつの間にか友人と呼べる間柄になっていた。ハチと居る内に抜け殻のような僕にも感情を手に入れることが出来た。ハチには感謝している。
そんなある日の夜のこと。
「あっヌケくん」
マヌケなあだ名でハチは僕を迎えてくれる。
「やあハチ、元気だったかい?」
「そうだね。上々かな!」
「それはよかった」
「ヌケくんは?」
ハチは僕の具合を聞いてくるので僕は正直に答える。
「僕かい? 僕はダメな上司のせいでこっちに負担が肩代わりして今は疲れで死にそうだよ」
「あはは。僕たち一回はもう死んでるけどね」
「……それは笑い事じゃないと思う」
ときどきハチは笑えない冗談を言う。
「でもガンバだよ。頑張ればきっといつか報われる……とかだったらいいね」
「……そこは断言して欲しかったな」
そう言って僕が笑うとハチも笑い、お互いに笑い合う。
今はただこんな日々がずっと続けばいいのにと僕は願っていた。
それから更に三年が過ぎた。事態は深刻になっていた。
ハチが僕と会った時より確実に弱っていた。
それもそのはずだ。幽霊があまりにも長く人間の世界に居ると、本来そこに存在するはずのない魂に負担がかかり、そのまま魂は消滅してしまう。
ハチは僕と違って何十年もずっと人間の世界に居た。弱って当たり前だ。
僕はこれ以上ハチを弱らせないためになんとか幽霊の世界に行こうとハチを説得していた。
しかしハチは頑なに幽霊の世界に行こうとはしなかった。
「……どうして?」
僕は訊ねた。このままだとハチは消えてしまうのに。
「どうして……。どうしてこんなに弱ってるのにまだ消えてしまった主人を待とうするんだよっ!」
僕が怒鳴るとハチはあたり前のように言う。
「家族だからだよ」
ハチはそのまま言葉を続ける。
「家族だから信じて待ってるんだよ。確かに僕とご主人は数年しか一緒に居なかった。でもその数年間は僕にとってかけがえのない毎日だった」
ハチは主人と居た時のことを懐かしみながら、僕にその毎日を教える。
「川原で散歩したりしてさ。それで、散歩してる時にご主人は僕に言ってくれたんだ。『ハチお前も家族だからな』って。嬉しかったよ。本当に嬉しかった。だから僕は待つんだ。家族の一人くらい待ってないとご主人は寂しがるからね」
ハチは優しい顔になりながら言い切った。
でも僕にはハチの言っていることが納得出来なかった。自分の主人と過ごした数年間がかけがえのない毎日だったことは分かる。
ならハチにとって僕と過ごした数年間はどうだったんだろう? このまま消えてしまったら僕と会えなくなってしまうのに。
ハチの言い方だと主人と居る方が楽しかったみたいに聞こえる。実際にそうなんだろうし、比べるものじゃないとことくらい分かっている。
でもこれじゃあ主人が居れば僕は要らないみたいじゃないか。
「僕は君に消えて欲しくない。もっと君と話していたい。それでも君は自分が消えてしまおうが、主人を待つんだね」
僕の問いにハチは迷わず答える。
「うん待つよ」
「っ!」
それを聞いた僕はなぜかハチに裏切られたと思ってしまった。勝手に自分で興味を持って、勝手に観察していただけなのに。なのに僕は絶望していた。
頭には血が上ってしまい心にもないことが頭に浮かんでしまう。
それを言ってしまったらダメなのに、言いたくなんかないのに僕は――
「お前なんかこのまま自分の主人と一緒に消えてしまえばいいんだ。お前なんか消えてしまえ!」
――言ってしまった。最低なことを僕は言った。ハチはとてもつらそうな表情になる。
謝らないといけない。ハチは悪くないと分かっているのに。
それなのに僕の足はハチの元へ去ろうとしている。
僕はハチにポツリと要った。
「……君のことが理解出来ない」
そう言って僕はハチの元へ去る。そんな僕にハチは何も言わなかった。
僕がハチの元へ去って一週間が過ぎる。
僕はこの一週間あの時のことが頭から離れず、仕事は何一つ手につかなかった。そんな僕を見かねて、上司は僕に無理矢理仕事を休ませた。
仕事も出来なくなり、僕は一人になり考える。悪いのは確実に僕だ。
ハチは今まで通りただ一途に主人を待っていただけなのに僕がハチとハチの主人の絆に割って入ろうとした。
しかしそれは失敗し、僕はハチと主人との絆に嫉妬した。そしてハチを僕は傷つけた。
それでもハチに謝ろうとは思わない。だってハチは自分が消えてしまってもいいと言う。魂が消えてもいいのだと。僕はそれがどうしても許せなかった。
ハチが消えてしまった時、僕がどれだけ悲しむか分かっているくせに。
「……」
でもやっぱりハチに会いたかった。気付けば僕は渋谷駅に向かっていた。
渋谷駅に着くと、僕の目に入ったのは一週間前よりも更に弱っているハチだった。
僕は顔色を買えてハチの元に駆けつける。
「ハチ! 大丈夫か! どうしてたった一週間で……。もう今にも消えちゃいそうじゃないか」
ハチは僕を見ると苦しそうな顔から少しだけ嬉しそうな顔になった。だが、その顔は弱々しくもう限界を迎えていた。
「ヌケ……くん。この前は……ごめんね」
ハチは僕の方が悪いのに謝ってきた。もう喋るのだってきつそうなのに。
「喋らなくていいから。ハチは休んでて」
僕はハチを話すのをやめさせようとした。だけどハチはやめなかった。
ハチは小さな声で聞いてといい、話し出した。
「僕ね、ヌケくんがケンカしちゃってからずっと考えてた。なんでヌケくんが怒っちゃったのかを。たぶん僕がご主人を待つためなら消えてもいいとか言ったからヌケくんは怒ったんだと思う」
「ハチ……」
ハチは今にも消えてしまいそうなのに僕と仲直りをするために必死に言葉を探していた。
「それで一つヌケくんが誤解していることがあるって分かったんだ」
「……誤解?」
「うん」
ハチは今までにないくらい真剣な顔で僕に教えてくれる。
「魂は消えないよ。その人が消えても誰かがその人のことを覚えてくれていたらその人の魂は消えることはないよ。……だからヌケくん。僕もついに痺れを切らしたからちょっとご主人を捜して来るからヌケくんは僕の魂が消えないように僕のこと忘れないでね」
「ハチ」
僕はこれ以上何も言えなかった。あと少しでハチが消えてしまうことが分かりたくなくても分かってしまっているから。
「それと……ごめん。そしてありがとう僕の親友」
その瞬間僕とハチは友達から親友に変わった。いやきっととっくに変わっていたんだろう。もう僕は泣きそうになっていた。嬉しさと悲しさが混ざってもう堪え切れなかった。
それでもまだ泣く訳にはいかなかった。
「こっちこそごめん。あんな酷いこと言ってごめん。…………僕待ってるから。ハチが主人を見つけて、連れて来るのを待ってるから。今度は君の代わりに待つから! ――――だって僕たち親友だからね」
僕は泣かないで満面の笑みで笑った。ハチは僕の言葉を聞いて最後に満足したように今までで一番いい笑顔でもう一度、
「ありがとうヌケくん」
と言ってくれた。
「ハチ……」
そしてハチは光の粒となり、主人を捜すために旅立つ。
「………………」
ハチが旅立った後、僕は空を見ると月が綺麗な満月だった。でも綺麗な満月なのにぼやけて見えた。
どうやら僕は泣いているようだ。それから僕は初めて子供のように大声で泣いた。
――――ハチが僕の前から居なくなってあれから数年が経過する。約束を友達と交わしてから数年が経過する。僕は今ハチとその主人が来るのを渋谷駅で待っていた。
別にいつも待っている訳ではない。僕もこれで結構忙しい。
ダメな上司の面倒を見たり、やたら馴れ馴れしい同僚に無理矢理お酒を付き合わされたりだ。本当に毎日が忙しくて、この数年間はあっという間だった。
ただ仕事の合間に、時には仕事をサボってでも渋谷駅に来てはハチたちを待っていた。
いつ来るか分からない。でもハチがなぜ消えてしまった人を待っているのか少し分かった気がする。諦めきれないという感情もあるが、それ以上に待つという行為は力になるのだ。過去に縋りながらもそれを引っ張って明日を進む一歩を踏み出す原動力に。その力で幽霊ながら僕は明日に進みながらハチを待つ。
そしていつかハチは必ず主人と一緒に僕に会いに来てくれる。僕は信じている。
なぜなら僕はハチの親友だからだ。僕が彼を覚えている限り彼の魂は消えない。彼は主人を探し続けることが出来る。僕がそんなことを考えていると、
「ハチ、早くおいで!」
突然元気な人間の男の子の声が僕の耳に入って来る。
僕がハチという名前に反応して思わず振り返るとそこにはハチそっくりの犬が居た。
「……そっくりだ」
僕が唖然としてその犬を見ているとその犬も僕に気付き、僕の方を見た。
「…………」
「…………」
僕たちが互いに見つめ合っていると急に風が吹いて来た。その風が通り過ぎる時に確かにハチの声でこう聞こえた。
『ありがとうヌケくん。きみのおかげでご主人に会えたよ』
「っ!」
僕は驚きながらも、もう一度男の子たちの方を見るともう彼らは居なくなっていた。そう。ハチたちはまたどこかに行ってしまった。
どこに行ったかは分からない。
でも一つだけ分かったことがある。僕は風が吹いて来た方向に大きな声で、
「よかったねハチ」
と一言叫んでみる。
その後僕は今までにないくらい大きな声で笑った。




