まごころを込めて(跳躍篇)
誰でしょう
(今日も良い日和だ……)
ラーヴァヴィラムは穏やかな日差しと風を感じながら、回廊を進んでいた
彼の身体は穏やかな風に煽られて若干たなびいているがなんら珍しいことではない
身体の軽い彼には当たり前のことだ、最初の頃は一人で歩くなど風に飛ばされはしないかとやや不安を感じたものだが、今ではそんなことはない
何の恐れも無く全身で風を感じるのも趣きがあっていい、感じ過ぎるだろうという外野の不安の声は彼の耳を素通りするが
大丈夫、何の問題も無い、明らかに問題有りだが無いと言ったら無い
周囲が心配になるほど身体の軽い彼は、今では心も軽いのだ、心が軽くなることによって注意力や警戒心が薄らぐことが喜ぶべきことかどうかは置いておくとして
道行く先で清掃を行う侍女のうちの一人が、彼に気付いたのか隣の歳若い侍女を促し壁際に寄って彼に礼をとった
全く違う方向を向いている後輩を身体ごとぐりっと回転させて自分も頭を下げる年嵩の侍女もそれなりにズレている、なんとも微笑ましい光景だ
歳若い侍女も、以前はこの宮で見掛けることは無かった
ここは、彼女とその夫である彼の私生活の場だからだ
誰も何も得ることなど無かったあの大戦で失った彼女の妹を思わせる年頃の娘をこの宮で見ることは、つい最近まではこの十数年無かった
(ニール、強がりの君はいつも悠然として自信に満ちた笑顔を取り繕っていた)
支配者としての重責、妹を失った怒りと悲しみ、その狭間でいびつに醜く歪み悲鳴をあげる心を仮面の内に隠し、成人した王太女の姿を寂しそうに見た妻の積年を思えば
たとえ空が灰色に澱み、雨が降ろうと、雪が降ろうと、それはラーヴァヴィラムにとって良い日和に値する
まだ、たった二十年にも満たない、不老不死に溺れた一国により無残にも多くの命を毟り取られたあの大戦で、妻は妹を、ランディアガ国の先代国王は息子達を、ジェスラルダ国の国王は当時の国王である父親を、そしてミガヴェルグム国の国王は妻を失った
生死は不明、遺体は戻らず、けれども彼らは支配者だ
四勢の王と呼ばれ、数ある国々の中でも特に力ある国の支配者だ、その嘆きを晒すことなどあってはならない
(君はわたしと居るだけで安らぎと安寧を感じることができると折に触れて言ってくれた……しかし力も無く、気の利いたことも言えない、何の取り得も無いわたしは、わたしと二人きりの時にだけ笑顔を取り繕うことを休む君をまともに慰めることも叶わなかった)
それからの夫婦の睦みの多くは、涙の捌け口だった
十数年を経て、やっと彼女は落ち着いた、否、諦めたのだろう
孫娘も生まれ、関係は穏やかなものになり、ラーヴァヴィラムはニールが……
エスタラルチェ国第八代女王ニーミャウィフルカン・グェス・ア・ウルラ・エスタラルチェが、妹のことを、諦めたのだと……悟った
――だが、転機は訪れた
『まぁま、がりがり』
『まぁまひょろひょろ』
暫く進むと愛らしい幼児の声が聞こえ、ラーヴァヴィラムは目を眇める
視線の先でぽわぽわとした毛皮の山が辞儀をするように前傾すると、その拍子にぽろぽろと数個の毛玉が転がり落ち、その毛玉はそのままころころと転がって壁や柱にぽてりとぶつかり止ると、きょろきょろと周囲を見回し状況を把握するや否や慌てて跳ね寄って毛皮の山に再結合した、勿論、当然のように前傾の方向はラーヴァヴィラムとはずれている
この毛皮の山、いや、その中の娘が現れた時、彼の妻、ニールの心は大きく揺さぶられた
声も、姿も、心も、何一つ義妹を彷彿とさせる要素は無い、ただ、年の頃が当時の義妹と同じ程度というだけ
強いて言うならば、この娘もまた、幼くして あの大戦で両親を亡くしている、というところか
魔獣の仔らを預かっている為か、その親たちによるものと思われる世界最高峰の結界を持つ喫茶店
どこの国にも属さず、安全性と機密性を考慮した上で隠密に王達が集まる場所として眼をつけたその店に、娘はいた
年の頃は義妹と似てはいても、魔獣の仔らを預かり触れ合いのできる喫茶店の店主をしていることを考えれば、性格は大分違うように見受けられる
王族と市井の者の差という以上に、義妹は接客にも保育にも向かない性格の上に、娘のように客に提供できる程度の料理を作るどころか湯を沸かすことすらもできなかったことは確かだ
似ているところを探すのは難しいが、妻はそんな娘を居ない者として扱うことができなかった
それでも、侍女らとは違い、意図的に遠ざけることはできない
他の王達の思惑がどうだったかは分からないが、娘の料理を気に入ったのを口実に、辛くなるのを分かった上で、それでも自分自身で我が身の傷に塩を刷り込むかのように娘を呼び出す日々
やり場の無い感情を持て余した彼女はまたも涙の捌け口を求めた
この娘はニールの妹ではない、代わりになどなるはずが無い
妹との違いをまざまざと目にする度に、どうしてこの娘はアールではないのか、と
それでも大事にしたい、遠ざけたい、閉じ込めておきたい
――二度と、どこにも、……行かないように
毎夜の涙は、どうしてやることもできない彼の心をも酷く痛めつけた
彼女は言った、気の迷いだということは自覚している、妹ではないことは誰に諭されずとも理解している、女王の仮面を外すことはない
それでも、あの娘が戦う力を持たないことに、無力なことに安堵するのだと、自ら死地へと赴くことが無いことが、こんなにも自分を慰めるのだと
(もっとも、この娘には己が無力であろうがそんなことは関係無いようだったという話だが)
悪夢とも言えるあの大戦、その残夢とも言うべき先頃の戦で、娘の住まう都市は波のように押し寄せる竜の大群の脅威に晒された
少しでも役に立ちたい、せめて炊き出しだけでもと戦火へ身を晒す真似を始めた娘を抑えきれず、ようやくニールはこの娘の頑固なところがアールを彷彿とさせるのだと気付いたと言っていた
娘は魔獣の仔らを預かり、客の応対をし、店を維持し、買出しをこなし、料理を振舞う、……たった一人で
数年して成体になった預かり仔らが店を手伝うようになったそうだが、教育を施しながらでは最初は余計な負担にしかならなかっただろう
そのような状態で、あれが食べたい これが食べたいと言う王達の要求に対し、出来ないとは一度も言わなかったそうだ
今も、身動きに支障があるほどに我が仔等に群がられても、けして振り払うことはない
「殿下、大分身体が満ちてきているようで何より」
「……魔術師」
唐突に掛けられた声に振り仰げば、片腕に四~五体の粉袋を担ぎ、もう片方には人が丸々入りそうな瓶と篭に山と盛り付けた卵を抱え、頭の上に顔より二回り程大きい瓶を八段重ねで乗せた秀麗な魔獣の男が立っていた
否、正しくは魔獣ではないらしい、厳密には混血ではないのに半魔獣だという話だがラーヴァヴィラムには仔細は分からない
分かるのは精々が腕の良い魔術師で先頃の戦の功労者、そしてあの娘の夫だということと元は預かり仔だったという程度、妻であればもう少し知っているのかもしれないが、それは王が知っていればいいことだ
いつの間に隣に現れたのか、男は魔獣らしく気配に鋭く、よく利くその眼は、しっかりとラーヴァヴィラムの眼を見据えていた
しかし眼の前のその姿は道化師や軽業師に近いものがあったので見目の良さは大幅に削ぎ落とされていた
その上、頭の上の瓶を落とさぬようにか目だけで見下ろしてくるので美しい容姿も相まって威圧感が半端ではない
「そこまでになればそろそろ術で身体を操らず自力で動くことも然程違和感無く切り替えることが可能でしょう」
「そうか怠慢なく努力せねばな」
あまりにも痩せ細ったラーヴァヴィラムは他人の介助無しに自立することすら難しかった
原因は妻を慰めるためという大層なものだが、結果 心配を掛けてしまったのでは本末転倒だろう
現在はこの魔術師の一族による食事療法と、特別に組んでもらった魔術によって身体を強制的に彼自身の意のままに動かし筋力の発達を助けている状態だ
術を行使する彼自身が足を動かすことに精一杯で他にまで注意をはらえないために腕や上半身が風の影響でたなびく姿が周囲(主に武芸に秀でて彼の気配を捉えられる近衛等)に若干の不安を与えるようだが、本人の気分は頗る良い
だが、今後は間接的にではなく直接身体を動かさなければならないのだ、いくら筋力を使っていたと言っても慣れるまで今暫くの時間を要するだろう
「お前たち、コトネを困らせるのはそこまでにして姫君方のお相手をして差し上げるといい」
魔術師の言葉に背後を振り返れば、こちらに向かう彼の娘達の姿が確認できた
『ぱぁぱ、や』
『やなの』
「やじゃないよ、ほら」
母親である娘に群がっていた毛玉たちは、父親に逆らえずきぃきぃぶぅぶぅと不満の声をあげてぽろぽろと散っていくが、魔術師は意に介さない
息苦しく蒸し暑そうに見えていたが、彼には原理の分からない魔術でも使われているらしく、中から現れた娘本人には特に疲れもみえず、魔術師はこちらへ目礼をすると同じく少しズレた方向へ礼を取る娘を促して仔供らを残し荷を担いだまま奥へと去っていく
そこへ娘達が丁度良く追いついて来た
「義兄上」
「あにうえじゃなくておとうさまでしょ」
「おっと、そうであった、すまないなウーリ」
「ね・ぇ・さ・ま!」
「ふふ、すまない姉上、そのように怒っては愛らしい顔が台無しだ」
義兄上と彼を呼んだ末の娘は、彼を呼ぶ尊称が示す通り、その魂は失われたと諦めていたあの義妹だ
先頃の戦で王達は大戦で失った家族の亡骸を取り返し、そしてその魂のうちの一つは、こうしてここに生きている
ラーヴァヴィラムとニーミャウィフルカンの子として生まれ直し、義妹としての記憶をそのままに生まれたお陰か彼の娘という自覚は薄い
下から二番目の娘は、明らかに自分よりも年下の妹から年下の扱いを受けることに不満を感じ、事あるごとに訂正を入れるが意に介されずにいる
「わたしのほうがねぇさまなのに」
自分よりも明らかに幼い妹が自分よりも滑舌の良いことにも嫉妬を覚えるのだろう
義妹は兎も角としてこの子への精神的影響が良くないだろうと、目下、彼は妻と相談を重ねているところだ、一応、末娘の態度の理由は教えてあるが、この歳でそれを消化するのは難しいだろう
何より、歌劇の男役と称された色男ぶりが全く褪せていないその健在ぶりは教育上も大変宜しくないと判断するに充分だ
「義兄上、本日は期待しております」
「またいった! もう!!」
「ふふふ、すまないすまない、では父上殿、わたくし共はあちらで待っております、お前たち、可愛いウーリを宥めてあげておくれ」
『なんで?』
『やなの』
『めんどくちゃい』
「そうか、それは残念だなぁ、お前たちの母御は自分の仔らが心優しいところを見ればさぞかし喜ぶであろうに……」
『ぼくやしゃしぃの』
『ぼくも』
「きゃあ?!」
大量の毛玉、兎の魔獣の仔らはざわざわと毛皮の敷物のように集まって娘を持ち上げる
「では義兄上、また後で」
「ああ」
「あ! また言、ひゃぁ?!」
義妹が幼い手足でも違和感を感じさせること無く優雅に挨拶をし、その後姿が回廊を逸れて中庭へと歩いていくと、魔獣の仔らも娘を乗せたままその後へとついていってしまった
不安定な足元に怯えた娘がきゃぁぁと悲鳴を上げながら遠ざかっていく
「ふふふ、可愛らしいこと」
遠ざかっていく子供達を眺める彼の背に、今度は無機質な女の声が届き、彼はゆっくりと振り返った
そこには、人形めいた女が、否、人間のような女性型の人形が立っていた
「ミガヴェルグム妃殿下、既においでになっておられたのですね」
彼女は先ほどの魔術師のように特異な存在でもなければ、かと言って王達のように五感の鋭い武人というわけでもない、しかし存在の希薄なラーヴァヴィラムの姿を見、声を聞くことができる
本質は既に魂のみになっている彼女は肉の器に邪魔されることも無く魂を直に見聞きすることで気配の薄い彼にも難なく対応できるのだろう
「エスタラルチェ王配殿下、いえ、ラーヴァヴィラム殿下、今日は無礼講ですわ、堅苦しい遣り取りはおやめになって、それに、わたくしは既に死んだ女、そのように遇していただく必要はありません」
「ご冗談を、貴女が真実死する時は、御夫君が天命をまっとうする時と誰もが知っている」
「……そうですわね、その通りですわ」
彼女は今、あの男が、先頃の戦を引き起こしたラーグツァルドが世界中総ての命を捧げてでも欲した術によって仮初めの生を得ている
妻の妹と同じくしてあの大戦で死んだ彼女は、先ほどの魔術師の一族の手を借り、夫であるミガヴェルグム国王が自らの手で作り上げた精巧な人形に宿り、今はその傍らで見守っている
夫の命が尽きる時、あるいは魂を宿すその秘密が暴かれようとした時、ソレが誰の手によってであろうと故意にしろ偶然にしろ悪意が有ろうが無かろうがその依り代は灰となって消滅する盟約になっているのだそうだ
その対価が何なのか、彼女以外は誰も知らない、勿論、その夫ですらも
ただ、生者では不可能なこととだけ、そう聞き及んでいる、死者でなければ不可能なことなのだと
「行きましょう殿下、今日は慰労を兼ねてわたくしどもが手ずから作ったけーきを陛下方に振舞う約束ですわ、しっかりと誠心誠意愛情を込めて美味と言わせるのが本日の使命ですもの、その為に尽力し完膚なきまでに屈服させなければなりません」
本日は永らく尾を引いた大戦の余韻に終止符を打った先頃の戦の慰労を兼ね、直接関わることの無かった二人により最も功績を立て最も深く傷を負った四勢の王達を労うという目的の為に集まった筈なのだが、彼女は何かと闘っているらしい
まぁ不死の為に多くの死を齎したあの大戦に比べれば大したことではないのだろうが、何か絶対的に分かり合えないようなものを感じずにはいられないことは確かだ
そんなミガヴェルグム妃に促され厨に入ると、既に魔術師はおらず彼の持ち込んだ食材を娘が調理台に広げようとしているところだった
「殿下方、本日は初心者向けにパンケーキを焼こうと思います」
「ぱんけーき」
「この粉を卵、それからこちらの牛乳と混ぜ、平たく焼いたものに蜜漬けや砂糖漬けの果物をたっぷりと載せていただきましょう」
「まあ美味しそう」
「皆、喜ぶだろう」
「勿論です、では殿下方、この前掛けを、紐はわたしが結ばさせていただきますね」
「まあ可愛らしい」
「妃殿下の前掛けはミガヴェルグム陛下のお手製ですよ」
「あら、あの人ったら何時の間に作ったのかしら」
細密なレースがふんだんにあしらわれ趣向を凝らしたその前掛けは彼女によく似合っていた、それが彼女の趣味なのかミガヴェルグム王の趣味なのかは分からないが
「後は、調理の際に視界を遮らせず汚さないために髪を纏めましょう」
ミガヴェルグム妃の助けによりラーヴァヴィラムに前掛けを装着させた娘は次に二人の髪を三角に折った大布で纏め上げる
勿論ミガヴェルグム妃の布は前掛けと揃いのものだ
「これでよいでしょう、最後に袖を汚さないように捲くらさせていただきます、では殿下方、こちらの水で手を清め、この布巾で水気を拭き取っていただけますでしょうか」
「これくらい洗えばよいだろうか」
「まあ手触りの良い布ね」
「お二方とも、大変結構です、ではいよいよ調理に取り掛かりましょう、まずこの大きな器に粉を」
「粉か」
ラーヴァヴィラムが卓上に横たえられた大きな粉袋の上部を切り取ると、ミガヴェルグム妃がそれをむんずと掴み上げ
「これくらいでよいかしら」
ばっさー!
「えぇぇええええええ?!」
器の容積に対して明らかに許容を超える粉が"これくらい"もへったくれもなく逆さにされたことでそのほぼ総てが器に山と盛られ、溢れた粉が調理台の上を白く覆い尽くした
「次は混ぜるのね」
「こうだろうか」
「もっとではないかしら」
がっしゃがっしゃがっしゃがっしゃ!
「いやまだ卵も牛乳も入れてないんですけど?!」
もうもうと視界不良を起こす程に室内いっぱいに立ち込める小麦の粉に娘はまともに呼吸をすることすら困難になる
因みにミガヴェルグム妃は人形故に呼吸の必要性など無く、ラーヴァヴィラムはその痩せた体に必要な空気はこの不自由な状況でも充分に摂取できた
「卵、そうでしたわね」
「どのくらいだろう」
「やはりたっぷりと入っていた方がよいのではなくて?」
「その方が良い気がするな」
殻も割らずに丸のまま粉が殆ど飛散した後の器にごろごろと投下された卵は、そのまま更に混ぜようとした手によってめきょっと粉砕され、その瞬間
キュゴっ!
閃光が走り、厨は爆発した
※"睦み"は"慇懃"て書こうかと思ったんですが、ソレも直接過ぎるかな、と
オチは今月七日の同じ時間に……
 




