狐の灯明 3
「凛、水を汲んできておくれ」
「はいっ」
パタパタと軽やかな少女の足音が聴こえる。
ギンは、凛が他の狐と上手くやっている様子を耳で確認して安堵した。
「心配ならお館様が顔を見せに行ってあげては? 凛は待っていると思いますよ」
信太郎の言葉にギンは面白くなさそうに、爪を出したり引っ込めたりしながら言った。
「あたしが構ったら他のものにやっかまれるでしょうに。あの子はもうずっと親無しでここで暮らさなくてはいけないのよ」
初めて凛がここに来た日、湯殿まで連れて行ったのはギンだったが、そこでまだ幼い子どもを亡くしたばかりの下働きの女に、指示を出して預けてしまった。妖狐としての力もない野狐のような女。
最初は戸惑いも隠せなかった女は、不安に身を縮こませる凛に、次第に情を移し始めた。
本当の母子ではなくとも、傷を舐め合うようにお互いがお互いを癒す。
「では……やはり」
「ええ。もともとこの里で産まれた仔ではないわね。あたしの張っている結界の中に無理矢理入れるような力の強い妖でもない。それにあの仔からは、人間の匂いがプンプンするのよ。なのに光葉からはあの日、異界の扉を通った人間はいないと返事がきた……」
ギンの脳裏に毎年この時期に紫野を覆う禍々しいほど美しい赤い花の景色が再現された。
「曼珠沙華はあの世とこの世とを繋ぐ道しるべ。霊体だったあの仔が彼岸への道を歩んでいた途中で……迷った?」
でもそれでは妖狐の姿である説明がつかない。
ギンは脇息に突っ伏すように、凭れ掛かった。
「考え事し過ぎて疲れたわ」
「ご冗談を。さ、仕事をお持ちします」
「鬼……」
「キツネですが?」
「……」
「とにかく、人間の匂いを纏うあの仔には里の外は危険だわ。邸から出ないよう伝えて」
「かしこまりました」
5年後ーー。
「凛! 凛!」
狂ったように養い仔を探す女の声が邸内に響いた。
「どうしたの」
衰える事のない美貌の男がすらりと着物をさばいて現れた。
「お館様!! 凛が、凛が!!」
「ちょっと落ち着いて頂戴。凛がどうしたの」
「凛が戻って来ないのです。お屋敷に飾る花を摘みに行かせたまま、もう三刻も経つのに……!!」
ギンはちろりと開け放った障子から外を見た。
太陽は東の稜線に隠れ、その残滓が空を赤く染めている。
「あの仔みたいに、あの仔みたいに異界へと渡ってしまったのかも!! もう……、もう……!!」
膝からくず折れ、顔を臥してワアワアと女が哭いているのを、ギンは一見冷ややかに見つめていた。
だが、内心は凛を思ってざわざわと騒いでいる。
ギンはさっと屈むと、女の肩に手を添えた。
「手の空いているもの皆で探しましょう。あの仔はもう5年前のあなたの仔のような子どもじゃないわ。光葉にも手伝わせるから」
女を励まし立たせると、ギンは邸を出て行った。
確信があるのではない。
けれど……。
予感めいたものが頭をよぎり、気持ちを急かす。
ギンはまっすぐ紫野へと向かった。
5年前のあの日、凛を見つけたあの紫野は、季節が巡り、今年もまた赤い花が絨毯のように咲き誇っている。




