狐の灯明 2
風が吹けば、ざあっと赤い曼珠沙華の花が揺れた。
この広大な花畑の何処からか、幽かにチリンと鈴の音が聴こえる。
ギンだからこそ拾える幽かな音色。
その音と不思議な匂いで侵入者の場所を特定し、ゆっくりと警戒しながら歩み寄る。
その匂いは単一のものではない。狐の眷族のようでもあり、ヒトのようでもあり、またそのどちらも匂いも薄い。
もうひとつ甘い花のように芳しくムズムズと沸き上がるこの感覚はまるで待ち焦がれた春が来たよう……。
サクラが異界に落ちてきて、信太郎が葛葉殿に招き入れたとき、同様の匂いにクラクラときた。
直後、迎えに来た光葉の拳骨が頭上に直撃して正気に戻されたのだけど。
天狗に生まれ変わったサクラには、その匂いはもう薄くなっているが、生まれ変わったといってもその血の匂いは完全に消えてしまいはしなかった。
ざあっと風が流れて、一際高くチリンと鈴の音が響いた。
鈴の音も匂いも近い。
「出ていらっしゃい。何者かしら? ここは妖狐の里だとご存じかしらぁ」
ギンが何者かが隠れている一帯に向けて、不遜にも冷たくも聞こえる声色で問うた。
赤い曼珠沙華の間から、ふさふさとした金茶の耳が覗いて見えたが、ふるふると震えて出てこようとしない。
キツネの仔……?
里の者であれば匂いで判別出来ようが、説明のつかない嗅いだ事のない匂い。
それに、この紫野は妖狐の里の者は近づかない場所。
「ほら、出ていらっしゃい」
ギンはその叢に手を突っ込み、金茶の仔狐を抱き上げた。
赤い着物を着た少女の耳には確かにキツネのものと分かる大きな三角の耳。金茶の耳には不釣り合いな艶々とした黒髪は、時代錯誤もいいところのおかっぱ頭で、すっぱりと切り揃えられた前髪の下には、黒い瞳がウルウルと濡れていた。
赤い着物の裾からは、これもキツネのものと分かる先の白いふさふさとした太い尻尾が元気なく垂れ下がっていた。履きものは履いておらず、泥に汚れている。
ギンは着物が汚れるのも厭わず、その仔を腕に抱くと、宥めるような声色で問うた。
「あなたどこから来たの? お名前は?」
「……わからない。 おとうさんとおかあさんのところにかえりたいよう」
再び少女の目には大量の涙が溢れてきた。
「おうちは何処? お父さんとお母さんの名前は?」
「……わからないよう。忘れちゃったぁ」
しゃくりあげながらも答える少女の言葉には、手掛かりが何もない。
ヒトとキツネと、それから稲守の血族の証である甘い匂い。
「サクラに聞けば何か分かるかしらね……いえ、あのこじゃダメね」
一人ごちながらギンはその少女をあやす。
「あなた、行くところがないならうちにいらっしゃいな」
そう言って腕に抱いたまま屋敷に連れ帰ると、先ず最初に信太郎が胡乱な目つきで出迎えた。
「お帰りなさいませ、お館様。お子を作られるのは結構でございますが、お相手様は? せめて婚儀を済ませてからにして頂きたいものですね」
「煩いわよ、信太郎。半刻やらそこらでデキるわけないでしょう? 紫野に侵入していたのはこの子だったのよ」
「なんと。迷い子でしょうかね。名前は?」
「……わかんない」
「……困りましたね」
「でしょう? あんなところに放っておいても喰われるだけだから連れてきちゃった♪ 少しおかしな匂いはするんだけど、うち(眷属)の仔であることには変わりないんだし。信太郎、親探しお願いね」
「はぁ……かしこまりました」
「それじゃ、凜ちゃん、足を洗っておべべ(着物)を替えましょうね」
「はっ?」
豆鉄砲を食らったような顔を見せる信太郎を置いて、じっとギンを見上げたままの腕の中の少女に、ギンは笑いかけながら言った。
「名前が無いのは不便でしょう? あなたの名前は凜よ。本当のお母様が見つかるまで……ね」




