光葉の正体
そしてサクラは思い出す。夕焼け空の中をスカイダイビングよろしく落下したことを。
仔猫を抱いたまま必死でやがて訪れるであろう衝撃を想像して意識を途切れさせる寸前までの出来事を。
そうして、どうやら目の前にいる光葉と名乗る男が自分を落下の衝撃から助けてくれたらしいと言う事に思い至る。
もっともどういう風に助けてくれたのかは、想像もつかない。
落下中の自分を受け止めるのは、並大抵の衝撃ではないだろう。
「えっと……助けていただきまして、ありがとうございました」
サクラがしおらしく頭を下げると、光葉と名乗った男は、小さく口の端を引いてにこりと笑った。
「うむ。間に合って良かった。人間の娘が落下していたのを見付けたので、保護したのだ。 地面に落ちて潰れたり、他の妖に見つかる前で良かったな。命拾いしたぞ。何せ、この異界に住むモノにとって人間の生娘などご馳走だからな」
光葉はますます艶やかに笑うと同時に恐ろしい言葉を吐いて、「まあ、茶でも入れよう」と部屋を出ていった。
部屋に残されたサクラは、光葉の言葉を理解するやいなや、全身から冷たい汗が吹き出した。
「え、人間を食べちゃうの? だったらここも危ないんじゃないの……」
サクラは呆然と呟いた。
「茶を淹れるが、起きてこられるか」
微塵とも動かないサクラに、光葉は再度サクラに声を掛けた。そして、ノロノロと腰を上げ、光葉について隣の間にやってきたサクラの目に飛び込んできたものは、昔話の世界にしか見なくなったような囲炉裏。部屋の中央に据えられた囲炉裏には、太い梁から吊り下げられた鉤に重そうな黒いやかんが引っ掛けられ、火にかけられていた。
光葉は囲炉裏に掛かっていた重そうな鉄製のヤカンをヒョイと片手で持ち上げると、湯飲みに中身を注ぐ。
香ばしいお茶の香りが、一時サクラを癒してくれた。
思わず和みそうになったサクラは自分を叱咤する。
この世界の住民は人間を食う。それなら、目の前にいるこの男も危険なのではないだろうか。油断させておいて、実は隙を狙っているのかもしれない。
だが、ここも危険。外も危険ではどうすればいいのか。
実はすべて夢で、自分は知らない男にからかられているだけなのではないか。
そうであって欲しい、妖だの人間を食べるなど俄かには信じがたい話だ。
サクラは上目遣いにチラチラと光葉の様子を窺い見る。
そんなサクラの様子を見ていた光葉は、ニヤリと口角を上げた。
「俺が怖いか?」
愉快そうに口角を吊り上げながら、光葉がにじり寄ってくる。
怖い。もしや本当に食われるのではないかという戦慄がサクラを襲った。大型の獣に食われる直前の思考力を失った小動物のように硬直してしまう。
光葉はサクラの肩までの艶々した黒髪を一房軽く持ち上げると、露になった耳に口を近づけて、「俺に喰われたいか?」と美声で囁いた。
ついでにサクラの頬をちろりと舐める。
「きゃあ!」
驚きのあまりにサクラは短い悲鳴をあげた。
舐められた頬に手を当てる。恐怖を感じてもいい状況なのに、光葉の言葉はどこか甘やかで、頬が熱くなるのを感じた。
そんなサクラの様子を見ていた光葉は、突然吹き出し、腹を抱えて笑い転げた。
そんな光葉の様子にポカンと呆けたサクラも、光葉にからかわれたのが分かって、恥ずかしいやら悔しいやら。光葉の愉しげな笑い声が止むまでサクラは俯いて堪えた。
ひとしきり笑うと、涙の浮かんだ眦を指で拭きながら光葉は言った。
「すまん、すまん。俺は人間を食わん。まあ、食えん事はないがそれは禁忌でね。もう数百年も人間を食っていない。安心していいぞ」
そんな光葉の言葉に、サクラはどう返事を返していいのか分からない。
「俺はお前のいた世界では天狗と呼ばれる種族でな、こっちの世界じゃ異界とを繋ぐ扉の監視役の任に就いている。たまに人間界に食事に出かけようとする妖怪がいるからな。それを蹴散らすのが仕事だ。
あと、サクラが出会った猫は、長生きしてもののけに変化した猫又だったんだろう。他にもつくも神など人間界から移住してくるもののけもいるな」
「はあ……」
「俄かには信じられんだろうが、な」
光葉は呆けているサクラの様子を窺い、小さく笑った。
「サクラのように扉をくぐり異界に来るものも居たにはいたが……」
光葉の言葉にサクラはピクリと反応した。