逢魔が刻
その日はいい天気で、夕焼けがとても綺麗だった――。
彼女の名前はサクラ。
サクラは学校帰りに家を通り過ぎて、高台にある見晴らしのよい公園に寄ってはどこからか現れる黒い仔猫を構いつつボーッと過ごすのがこの頃のお気に入りだった。
今日も黒猫の為にコンビニで買ったメロンパンを鞄の中に忍ばせている。
ここは昔、木の鬱蒼と茂った山だったが、数十年前に住宅地の開発で拓かれた。
公園は山の頂上に造られ、木々が沢山残っていてとても居心地が良い。
夏にはカブトムシを狙う小学生が訪れ、昼間は赤ちゃんがママと散歩に、と住民の憩いの場となっている。
居心地がいいのは、その土地の神様と住民の付き合いが上手くいっている証拠だとサクラは思った。
片隅に設置された遊具を見て、小さい頃に母親とここによく訪れたことをサクラは懐かしく思い出す。
公園の中には小さな祠のようなものがあった。ふもとには小さな稲荷神社もある。
そこに何が祀られているのかサクラは知らない。でも、祠や神社の前ではつい手を合わせてしまうのだった。
晩秋の夕暮れ時の公園には人の姿は少ない。
サクラの家は山の斜面に沿って作られた住宅街の中にあった。
「いくら土地神様が護ってくれているって言っても、早く帰らなくちゃね」
「にゃあ」
神様は人々を見守ってくれはしても、暴漢や変質者からは守ってくれない。
サクラは西の稜線に落ちようとしている太陽の位置に、ここでいられる残り時間を感じつつも、今日もまた繁みから現れた黒い仔猫と猫じゃらしで遊んでいた。
このところサクラがこの場所でたそがれていると、姿を現すようになった黒い仔猫。
その黒猫の毛皮は野良とは思えないほどふわふわで、緑色の宝石のような瞳が輝いている。
出会った始めこそ警戒して木陰からそっとこちらを窺うだけだったが、次第にその距離は短くなって、最近では撫でさせてくれるようになった。
瞳が翡翠色だから翠。安直とは思いながらも命名してしまうほどにサクラはこの猫を可愛がっていたし、猫もまたサクラに懐いている。
サクラが用意したパンと牛乳をスイと半分こして食べているうちに、気づけばもう空が真っ赤になっていた。
日没が近い。
この時になって始めてサクラは慌て始めた。パンや牛乳が入っていたごみを通学カバンに仕舞い、翠に引っ掻かれて歪んだセーラー服のスカーフを直し、プリーツスカートの砂を払った。
「またね」
と声を掛けていつものように翠と別れて帰路につく。
いつもならそれを合図に翠も近くの繁みへと姿を隠すのだが、今日の翠はぴょんぴょんと仔猫特有のゴム毬のように跳ねる走り方で付いて来た。
サクラが公園から家に向かって、木々に囲まれたなだらかな道を下って歩いていると、路上にキラリと夕焼けを映した水溜まりを見付けた。
今日も、そして、ここ2、3日も雨が降っていないのを思いだし、サクラは不思議に思う。
この道は木々に囲まれてはいるが、空は大きく開かれて陽当たりが悪いわけではない。
ふいに隣に付いてきていた翠が走り出した。
どうしたというのだろう。しかし、サクラも猫の動きに釣られたように、走り出す。
そして、サクラと翠は足元が濡れるのも気にせず水溜まりに踏み込んだ。
しかし、水が跳ね上がることはなく――。
何故か少女と黒い仔猫は夕焼けの空に身を躍らせていた。
そのまま遥か下の地表に向けて落下する。
まるで夕焼け空を映した鏡を踏み抜き、鏡の世界へ入り込んだように。
そして、少女と黒い仔猫とを飲み込んだ水溜りは、薄闇が東の空にうっすらとそのヴェールを引いた頃、ひっそりと霧のように消えた。