7話
「知ってたんですかぁ!?」
「な、何を?」
立ち上がり、詰め寄る勢いでやって来た後輩に、高階は戸惑いの声を上げた。
突然の豹変。今の間に何があったのか――それを彼が知るはずもない。数秒前の自分の言動を顧みる高階に構わず、乃依はずい、と一歩前に出た。
「私が送ったメールです! 昨日……じゃなくて今日ですけど、あの、夜中に送った――変なメールです! 気付いてたんですか!?」
「……ああ、パソコンから送ってくれたやつか。別に変ではなかったけど……今朝、起きた時に気付いた」
「それって、私が携帯にメール送る前ですよね!?」
勿論、その答えはイエス。頷いた高階に、乃依は脱力する。
何なのそれ――。
乃依は首だけを動かして、恨みがましくパソコンを睨んだ。さすがにこんな顔を高階に向けたりはしない。
(――終わった)
色々な意味で。
だが、ここで項垂れていても事態は悪化するばかりである。しっかりと呼吸を整え、表情を戻し、再び高階の方を向く。事実確認が先だ。
「ばっちり読んじゃいましたよね……?」
「ああ、うん……まあ」
後輩の様子に何かを感じ取ったのか、高階は言いにくそうに肯定した。次の瞬間、乃依はさらに項垂れる。
(ううっ……)
予想と違わぬ返答に、しかし思ったよりもダメージは大きかった。明るい希望が見えかけていただけに、その反動が大きかったようだ。
乃依はがばぁっと、大きく頭を下げる。
「あのっ……すみませんでしたぁっ!」
乃依が事情を一通り話し終え、謝り倒してから数分後――。高階による何度目かの「もういいよ。全然気にしてないから」の言葉に、乃依はやっと心を落ち着けた。逆に先輩に気を遣われている気がして恐縮したが、そんな彼女の心情を察した高階に、「本当にいいって。大したことじゃないんだから。ね」と言葉を重ねられる。
「そう言って頂けると救われます……」
「昨日は色々言われてたから、須崎さんが不安に思うのも無理ないと思う」
「う……はい」
「逆に、こうやって相談してくれて良かったと思ってるよ。こういうことは、あんまり一人で抱え込まない方が良いからね。だから、これからも気軽に相談して」
「え、あ、はい。ありがとうございます」
彼の気遣いにお礼を言いながらも、今後はもっと気を付けようと思った乃依だった。少なくとも、メールなんていう証拠が残る物はよろしくない。
(でも、良かった)
後輩の失態に全く気を悪くした様子がない高階を見て、乃依は心の底からほっとした。なんて心の広い先輩なのだろう。
「さっき、パソコンをつけたかどうかって訊かれたときに、様子が可笑しいとは思ったけど……こういうことだったのか」
「そういうことです……すみません」
やはり不審に思われていたらしい。乃依は、素直に不可解な行動の理由を認めた。
「まぁ今朝携帯にメールが来た時点で、不自然だなとは思ったけど」
「……う。そうですよね。携帯に連絡したの初めてですもんね」
「それもあるけど。文面が――二つのメールの文面が、最初の方はほぼ同じだったから。何で二回も同じことを書くのか、とは思った」
「確かに……」
乃依としては、夜中のメールは「なし」のつもりで、新たにメールを送ったのだ。当然、両方ともメールをもらったことに対するお礼から始まっている。
と、乃依は気合を入れて、高階を見た。彼にお願いしたいことがあったからだ。
「その、できれば、消していただけないでしょうか? メールを」
「ああ、うん。分かった。そうする」
「今、ここで」
「ここで?」
「私の目の前で」
急に強気になった後輩に、高階は何とも言えない、微妙な表情をした。その意味を理解して。
やや思案するような素振りをした後で、高階はぽつりと言う。
「随分信用がないなぁ」
「へっ?」
慌てたのは乃依である。高階の言葉を脳内で繰り返し、その意図を理解しようとする。そして、まじまじと彼を見つめ――。
「いえいえいえいえいえ! そういうことではなく、高階さんのことは凄く尊敬してて信頼してて、凄い人だと思ってて、無茶苦茶お世話になってるんですけど、それとこれとは別というか、信用してないとかでは全然なくて! 私の精神的なものだと思って頂ければ――」
辻原が乗り移ったのかという後輩に、高階はストップをかけた。
「わかったわかった、今から消すから」
高階は「冗談だよ」と言うと、乃依の方に近付いて来た。一瞬どきりとした乃依だったが、それがパソコン机に向かっている動作だと分かり、さっと脇に避ける。
高階は後輩と場所を交代し、パソコンの前に座った。インターネットの「お気に入り」を選択、ウェブメールのログイン画面を出す。
人のメール画面を覗き込むのは失礼なので、そこで乃依は視線をずらした。落ち着きなく、無意味に研究室を見回してみる。普段は目にも留めないような掲示物――講演会の案内や、出版社から送られてきた新刊紹介のチラシが目に入った。
かち、かちというクリック音が数回聞こえたところで、高階から「消したよ」という報告があった。
「あの……ありがとうございました」
おずおずと言う。気恥ずかしさと申し訳なさで、声が若干小さめだ。
「なにも消さなくても良かったのに」
「いいえっ! あれはこの世から抹消すべきものですっ!」
無意識に拳を作り、先輩に向かって力説。今日一番の、彼女の主張である。
突然声を大きくした後輩に、高階は噴出した。
珍しい、と乃依は思う。あまりこういう笑い方をする印象がなかったからだ。気付けば、拳は緩められていた。
きょとんとする乃依に、高階は言う。
「その勢いがあれば、院でも十分やっていけるよ。昨日もそうやって反論すれば良かったのに」
「あ……」
乃依は思わず口を噤んだ。そういえば、彼の前でここまで感情を露わにしたのは初めてだ。よくよく考えてみると、さっきから結構大胆なことをしているのではなかろうか、と今更ながらに思う。
再び上気していく顔。きっと、今自分は真っ赤になっているだろうと、乃依は想像する。しかしこうなったら、もう開き直るしかなかった。
「今度は携帯です」
「ん?」
「携帯、出して下さい」
「ああ……こっちも消すの?」
「当然です」
恐れ多くも先輩に、携帯電話を出せと要求。転送されているということは、携帯電話の方にも、乃依の愚痴メールが残っているはずだからだ。
「やっぱり、記念に残しておくっていうのは?」
「何の記念ですか!」
乃依は真っ赤になって、携帯を出すよう促した。一方の高階は、普段は見られない後輩の態度に笑いながらそれに従う。何も笑わなくても、と乃依は思ったが、それを言う気力は残っていなかった。
ぱかり、と折り畳み式の携帯電話が開けられた。
高階が見せたメール受信画面。そこは――。
「あ、」
From:須崎乃依
「どうかした?」
「いえ……」
乃依は、とっさに頬に手をやる。別の意味で顔の火照りを抑えられなかった。
自分の名前が登録されている。しかもフルネームだ。
「須崎さん?」
「え、あ、う、あの…………何でもないです」
「なんか凄く気になるけど……まあいいや」
親指を滑らせて、高階は操作していく。携帯電話に不慣れなのかと思っていたが、普通に使いこなせているようだ。
再び「削除した」との報告があり、乃依は安堵の息を吐き出した。これを以てミッション完了だ。全然成功していないが、もう憂いはない……と思う。
ほっと一息吐いたところで、乃依はふと気になったことを尋ねた。
「前から転送システム使っておられましたっけ?」
「いや、最近」
「ですよね」
乃依はやっぱり、と思う。
何故彼女がこんなことを知っているのかと言えば、以前高階に追いコンの案内を送ったときに、なかなか返事が返って来なかったからだ。聞けば、調査に行っていてメールに気付かなかったとか。今年の新歓の時にも似たようなことがあって、それ以来、乃依は高階が転送システムを使っていないものだと思っていた。
「須崎さんは使ってる?」
高階の問いに、乃依は首を振る。あれば便利なのだろうと思うが、夜中に来たメールに睡眠を妨げられるのが嫌で、使用していなかった。
研究室には、辻原を筆頭に夜型の人間がうようよしていて、彼らは当然のように真夜中にメールを送る。四時とか五時とか。以前の乃依は、五時は「朝」に分類されるものだと思っていたが、最近は認識を改めつつある。
――と、そこで乃依ははっとした。
「そうだ、すみません! 私昨日変な時間にメール送ってしまって……!」
送ったのは、確か二時前。朝型の高階にとっては、十分「真夜中」だ。
「ああ、いいよ。メールはサイレントにしてるから」
「そうなんですか」
「うちは夜型の人が多いしね」
高階の言葉に、乃依は少し笑った。同じことを考えていたみたいだ。
「どうして、最近変えられたんですか?」
少なくとも今年の新歓――四月の時点では、彼は転送システムを使っていなかった。それが、何故D2になって変えたのか。ちょっとした疑問が、彼女の中に芽生える。
しかしその「ちょっとした疑問」に、高階は押し黙った。あれ? と乃依が思っていると、
「パソコンだと、メールに気付くのが遅れるから」
高階は至極もっともなことを述べた。
「それは……そうですけど」
そうなのだが、何故最近変えることにしたかの説明にはなっていない。腑に落ちないといった風の彼女に、高階は少し考えてから口を開いた。
「例えば――」
そこで言葉を切って、乃依を見る。その視線の意味が分からなくて、乃依は狼狽えた。
(な……何?)
狼狽する彼女に気付いているのか、いないのか――高階は、努めて平静と続けた。
「後輩から添削依頼のメールがあったときに、気付くのが遅れると悪いと思って」
「え?」
乃依は目を瞬かせた。今、彼は何と?
ゆっくりと脳内復唱する乃依に、高階の軽い言葉が掛けられる。
「とまあ、そういうこと」
「え、あ、は、はい、そう、そうですよね!」
とっさに同調しながらも、乃依の思考は未だ整理されていない。
後輩から添削依頼があったときのために。その後輩のために、わざわざ転送機能をつけたらしい。
彼が指導している、後輩のために。
(えっと、つまり……)
その後輩というのは――。
(私……?)
行き着いた答えを確かめるためには、どうしたら良いだろう。
期待を込めた、しかし不安の混じる表情で見上げた先には、高階がいる。
(あ……)
薄れる不安感。彼を見た瞬間、乃依の次の行動は決まっていた。
すうっと息を吸う。
「あのっ」
その目が、彼女の答えを肯定している気がして、乃依は大声で――本日何度目かのお礼を言った。
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
附記ならびに謝辞等は、活動報告の方に書いておきます。よろしければご覧ください。