6話
高階に「須崎さんも確認しといたら?」と言われ、乃依はパソコンに向かった。スリープ状態のパソコンが再び立ち上がるのを待ちながら、彼女は後方の高階を見上げる。
(今しかない)
言うなら、今がチャンスだ。
よし、と気合を入れ、不自然にならないように言葉を選んだ。
「昨日はメール、ありがとうございました。ところで、昨日私にメールを送ってくださった後、ずっとパソコンつけられてましたか?」
「いや、直ぐに切ったよ。昨日は全然研究しなかったな」
高階は自嘲気味にそう言うが、乃依としてはほっとする証言である。飲み会の後なのだからサボっても……と思うのだが、彼としては若干恥ずべきことらしい。
「今朝はどうですか? 起きてから、パソコンつけられましたか?」
「まだつけてない。メールもらって直ぐに来たから。……何?」
「いえ何でもありません! それならいいんです。大したことじゃないので、はい。大丈夫です」
意図を測りかねる、といった表情の高階に、乃依は慌てて言葉を重ねていく。誤魔化し方としては上手いものではなかったが、幸いにも高階が突っ込んで訊いてくることはなかった。
(セーフ!)
朝イチでメールを送信したのが功を奏したようだ。
(後で消してもらおう)
誤送信ということにすれば、本文を読まずに削除してくれるだろう。高階相手に嘘をつくのは心苦しいが、嘘も方便ともいうし、この場合は仕方がない。
傍目にもわかるほどの安堵の表情を浮かべ、乃依は先にウェブメールの画面を開いた。新着メールを告げる表示がある。
「あ……これだ」
文学部の学生に宛てて、学生課から一斉送信で来ている。ざっと流し読みしたところ、論文の締め切り、体裁についての最終確認だった。
「英文要旨は……修論だけですよね」
画面を見ながら、乃依は確認を取る。
「うん、そう。卒論は題目だけ」
良かった、と乃依は安心する。
彼女は地理をやっているわりに英語が苦手だ。授業で英語の論文を読んだこともあったが、その度に苦労してきた。今のゼミを選んだのも、指導教員の専門が日本の農村研究であり、最も「外国語のいらない」ゼミだと考えたからに他ならない。
「不安なら、誰かに見てもらったらいいよ」
「あ、はい。そうします。……えっと、高階さんは――?」
期待を込めて見上げるも、彼の表情はぱっとしない。案の定、
「うーん、あまり得意じゃないな……。僕も毎回先生に添削してもらってるくらいだから」
「そうなんですか」
意外だ、と乃依は思った。高階にも苦手なことがあったとは。
そんな乃依の言葉に高階は頷き、「他のゼミの人がいいかもね」と助言した。大能も得意ではないということだろう。
確認したところ、ガイダンスで聞いた通りのことが書いてあった。特に変更点はなさそうだと、乃依は画面を閉じようとし、
「公開審査会!?」
ふと目に飛び込んできた単語に反応した。開催日は二月の第一週。卒論を提出し終わった直後である。
(何これ聞いてない……!)
読んでみると、主査・副査の先生による学位審査会が行われるとのこと。その他の教員や学生も自由に参加できるので、「公開」の文字がくっ付いているようだ。
血の気が引いた顔で、乃依は恐る恐る振り返る。こんなに恐ろしいイベントは、彼女の年間スケジュールの中に入っていない。「あの、これ……」と画面を指差し、背後の先輩に説明を求める。
しかし彼は、やはり冷静なままで。これまた、何をそんなに焦ることがあるんだとでも言う表情で、一言。
「それ、四年生は関係ないよ」
「……………………へ?」
「修論審査会だから。下の方に書いてなかった?」
高階の言葉に、急いで画面をスクロールさせる。ほどなくして、該当箇所を見付けた。
「ありました!」
書いてあった。ばっちりと。対象は修論提出者であると。
「なんだ……」
乃依はほっと胸を撫で下ろした。とっさに、公開処刑!? などと思った自分が恥ずかしい。……まあ仮にこれに参加したなら、間違いなく公開処刑状態にはなるだろうが。
「でも、どうして分かったんですか?」
公開審査会が修論提出者向けだというのは知っていても、それが書いてある場所まで分かるだろうか。「下の方」というのは、メールを見たことのある人間しか把握できない情報なのではなかろうか。
そんな乃依の当然の疑問に、高階はさらりと答えた。
「僕のとこにも来てたから」
「あ、そうですよね」
考えてみたら、そうだ。文学部の学生全員に宛てて送られているのだから。
乃依は、くだらないことを訊いてしまったと反省し――ようとしたところで、再び首を傾げた。
「って、これ送られてきたの、さっきですよ」
「そうだね」
「いつ、メールチェックされたんですか?」
「さっき。携帯開かなかったっけ」
「開いてましたね。…………あれ?」
やはり、何かが可笑しい。
乃依は考える。
だって、これはウェブメールに一斉送信されたものだ。携帯電話に送られてくるはずがない。
しかし一方で、確かに先ほど高階の携帯電話からは、メールの着信を通知するバイブ音がした。彼も、あのときにメールをチェックしたと言っている。
つまり、やはり学生課のメールは携帯電話に送信されたのだ。
この、矛盾。
(なんで……?)
パソコンに送信されるものが、何故か携帯電話に送信される。それは、何故か。
「あ、」
転送システム――。
乃依ははっとした。
そうだ。大学のウェブメールには、転送機能がある。パソコンに送られたメールを、携帯電話の方に転送できるのだ。リアルタイムで。
学生はいつもパソコンの前にいるわけではないから、どうしてもメールに気付くのが遅れてしまう。そこで、この転送機能が利用されているのである。乃依は設定していないが、これを活用している人がいることは知っていた。
(そういえば……)
思い出した。さっき、辻原が携帯電話を握りしめてやって来たではないか。きっと彼は、転送されてきたメールを見たのだ。
メールに関する謎を解いた乃依だったが、ここであることに気付く。
転送機能というのは、それはそれは便利なもので――ウェブメールに送信されたメールを全て転送してくれる。送信者がどこの誰であろうとも。
例えば、乃依が高階にメールを送ったとしても。
乃依は、ゆっくりとログアウトボタンを押した。ついでにホームページ画面も閉じる。デスクトップには、研究室の面々が写っていた。新歓の時に撮影したものだ。
それをおぼろげに眺めながら、彼女は考えた。
ということは、つまり――。