5話
嵐のように辻原が去って行くと、高階はさっそく乃依に声を掛けた。
「ごめん、待たせて。始めよっか。レジュメ出して」
先ほどの流れなのか、彼は既に指導モードに入っている。イエス以外の選択肢が思い浮かばず、乃依は「お願いします」と、レジュメを取り出した。
(あぁメール……)
出来れば早いうちに処理しておきたかったのに。
(ていうか、まだ読んでないよね……?)
手の届く場所にある、研究室の共有パソコン。それに未練がましく目を向けながら、乃依は椅子に座る。
長机なので、自然二人は並ぶかたちになる。
高階は渡されたレジュメに目を通しながら、赤ペンでチェックを入れていった。
(うわ、やっぱあそこ駄目かぁ)
赤が付けられたところ――その箇所を見れば、彼が何を問題としているのかは、だいたい分かる。自分でも自信がなかった部分だ。
怒られるかと、そっと高階を見るが、
(大丈夫、かな)
その表情から怒りは読み取れない。呆れられている風にも見えなかった。
「須崎さん」
「はいっ!?」
急に名前を呼ばれ、乃依はびくっとする。レジュメから目を外した高階は、乃依の方に身体ごと向けて言った。
「まずは、昨日はお疲れ様」
「あ……はい、ありがとうございます」
「自分では、どうだった?」
先に乃依に感想を求めてくる。指導者の顔だ。
「え、と……報告自体は、その、大丈夫だったと思います。でも、質疑応答が……全然、駄目で。なんか凄い頓珍漢なこと言っちゃった気がしますし……。上手く答えられなかったというか、そこが、良くなかったと思います。あと――」
たどたどしい言葉にも、高階は嫌な顔一つしなかった。乃依が全てを話し終えるまで、静かに耳を傾ける。
「高階さんには、事前に見てもらってたのに……本当にすみませんでした!」
最後に一際大きな声ではっきりと、乃依は謝罪の言葉を口にした。頭が机にぶつかるぎりぎりまで下げて。
「それは気にしなくていい。逆に、こっちが行き届いていなかった部分もあるし」
「いえいえいえいえ! そんなっ、そんなことないです! 凄く助かりました、感謝してます、ありがとうございました!」
高階のフォローも虚しく、乃依の頭はやっぱり上がらない。一層腰が低くなってしまった後輩に、高階はどうしたものかと考えた。
事実、彼女はよくやったと思っているし、あそこまで皆の食い付きがいいとは思わなかった。印象では、昨日一番盛り上がった報告ではなかったか。打ち上げでも、院生組に囲まれていたのが何よりの証拠で――且つ、あの辻原が飲み会で研究のことを口にしていたのだ。
珍しいことだと、高階は思う。
辻原は研究に対してはストイックな面を持つが、普段は明るいムードメーカーである。飲みの席では、教員・先輩だけでなく後輩にも積極的に声を掛けて、場を盛り上げる気遣いもみせる。つまり、一人の人間に向かって延々と喋り続けることは滅多にないのだ。
(刺激を受けたってことなんだろう)
彼が、普段の飲み会で提供する他愛もない話――研究とはおよそかけ離れている話題は、昨日は一切出てこなかった。そして皆もそれに気付いているから、彼の話を遮らなかった。
でも、と高階は乃依を見る。恐縮しきった後輩は、未だに顔を上げられていない。
(須崎さんは気付いてないな)
怒られた、としか思っていないのだろう。
辻原とはゼミが違う上に、彼は昨年度の一年間、留学のため休学していた。復学してからは院生室に籠ることが多かったが、乃依自身が頻繁に大学に来ていたわけではないから、それほど深く関わる機会もなかったのだ。彼の性格を知らないのも仕方がない。
取り敢えず、後輩の顔を上げさせてやらないといけない。高階は少し身を屈めて、乃依に言葉をかけた。
「大したことはしてないよ。須崎さんが頑張ってたから、それを手伝っただけで。ただ――これまではレジュメしか見てなかったから……プレゼンの練習もしとけば良かったね。ごめん、そこまで頭回らなかった」
「いえそんなことっ」
「報告内容は、僕も良かったと思ってる。特に、一章の始めの……この部分」
高階がレジュメの該当箇所を指差すと、やっと乃依は顔を上げた。
「あ、はい。上から自治体史を借りてきて、何とか」
調査対象地域の概況を記した部分である。
地理的な説明は勿論、人口や世帯数といった現在の状況など、基本的なデータを明記している。
それだけを見ると、ごく普通の田舎といった場所。しかし歴史的変遷を辿ると、やや特殊な地域に分類される。簡単に言うと、かつては鉱山地域であったことから――戦後は荒廃してしまったものの――「現在でも伝統的行事が継承されやすい地域」として捉えられるということだ。
こういった特殊な地域を扱うには、それなりに慎重にならなければいけない。すなわち、簡単に普遍化すべきではないことを理解しておく必要があるのだ。
――ということを、乃依は高階に指摘されて気付いた。
彼女は祭りの由来について調べただけで、それ以上のことは気にもかけなかったのだ。やはり自分はまだまだ未熟だと、乃依は思う。
だが、彼女はさっそく上の階にある国史学研究室を訪ね、自治体史を借りてきた。そしてその内容を、なんとか中間報告までに纏めてきたのである。
(やっといて良かったぁ)
乃依が心の底からそう思うのには、訳がある。質疑応答で、祭りの変遷についての詳細を訊かれたからだ。
相手は、歴史地理学を専攻するD3の大能。ドクター唯一の女性である彼女は、さすがは歴史地理を専攻するだけあって、かなり突っ込んだことまで訊いてきた。自治体史のおかげで命拾いした乃依だった。
その後も、高階は一つ一つ、丁寧にコメントしていった。そのたびに、乃依は急いでシャーペンを走らせる。
乃依の提示したレジュメを消化し終わった時には、十一時近くになっていた。
「ありがとうございます、こんな時間取ってもらって……」
「気にしなくていいよ。須崎さんにはいい卒論を書いてもらいたいんだから」
「う……はい、頑張ります……」
わざとプレッシャーをかける言葉を言うと、後輩は引きつった笑みを浮かべる――思った通りの反応に、高階は知らず笑っていた。
「これからのこともあるしね」
「はい。――――え?」
乃依は高階の言葉に反応した。彼は確かに、「これから」と言った。まさか、知っているのか。
そんな彼女の想像を肯定するかのように、高階は言う。
「上がるんでしょ?」
「あ……はい」
やっぱり、知られている。乃依は控えめに頷いた。
大学院への進学を希望していることは、指導教員にしか言っていない。それなのに、何故彼が知っているのか。先生が口を滑らせるはずはないのだが、と考えていると、高階はその思考も読み取ったかのように続けた。
「誰かから聞いたとかじゃなくて。須崎さん見てたら、上がるんだろうなとは思ってた」
「そうなんですか?」
そんな素振りをしていたのかと、乃依は考え込んだ。
実は、春までは公務員試験の勉強をしており、進学を決意したのは夏になってからだ。他の進学希望者と比べて、明らかに後れを取っていることは分かっていた。だからこそ、不安に思うことがある。
「でも、私なんかが院に行って、やっていけるかどうか……」
一度は決めたことながら、全く迷いがないといえば嘘になる。優秀な同期を思い出し、憂鬱な気持ちになることもしばしばだ。
「確かに未熟な部分はあるけど、それはこれから勉強していけばいいんだから。今は、いい卒論を書くことだけを考えて」
「はい」
「僕は、頑張ったら頑張ったぶんだけ、結果が付いてくると思ってる」
「高階さん……」
それは、ずっと研究を続けてきた先輩の確かな言葉――。乃依にとっては、一番信じられる言葉だった。
と、高階の鞄の中からバイブ音がした。
「あ、どうぞ」
「ごめん、メールだと思うけど……」
言いながら、高階は折り畳み式の携帯電話を開く。が、確認だけして直ぐに閉じた。
「大丈夫でしたか?」
「うん。大した用事じゃなかったから」
高階は再び鞄の中に携帯電話を仕舞ってから、乃依の方に向き直った。
(え?)
何やら改まった雰囲気を感じ、乃依は思わず背筋を伸ばした。何を言われるのだろうかと、心拍数が上がっていく。
「さっきの続きだけど」と前置きしてから、高階は言う。
「須崎さんは確実性があるし、これから伸びると思う。期待してるよ」
「え……」
乃依は固まった。今、なんて?
「あ、でもサボらなければね」と冗談めかして付け加える高階に、乃依は再び顔が紅潮していくのを自覚した。
尊敬する高階からの評価。嬉しくないはずがない。
「あのっ、私頑張ります! だから――」
これからもよろしくお願いします、と続けようとするが、
「うぉぉぉぉぉぉぉー!?」
「…………えっと」
「…………何だろう」
結構近くから発せられたと思しき雄叫び。
二人がそれについて確認し合う間もなく、どすどすという足音とともに、研究室の扉が開け放たれた。
(危なっ!)
数時間まで、自分がいた位置を見ながら思う。あわやぺしゃんこ状態を免れた乃依は、危険行為を行った人物を確認しようとして――、
「やっべ、ミスったぁぁぁー!!」
「辻原さんっ!?」
一歩下がった。
目の前には、物凄い迫力でやって来た辻原。思わず何があったのかと問いたくなる状況だったが、それを口にする前に、彼は手にした携帯電話を乃依に突き付けて言った。
「須崎さん、学生課からのメール見た?」
「え、いつのですか?」
「今来たやつ。卒論・修論提出に関する何ちゃらとかいう……とにかく、最終確認のメール!」
辻原の言葉に、乃依は首を振る。ずっと高階の指導を受けていたのだ。パソコンには触っていない。
「そか、じゃあ後で見とけよ。――と、高階さん! 今ちょっといいっすか?」
「いいよ。何?」
辻原はせわしなく高階に向き直り、興奮した様子で話し始めた。
「自分、完全に英文要旨のこと忘れてたんすけど! あれ後で修正とか出来るんすかね!? 今本論つついてて、正直要旨に時間かけてる余裕ないってか、本論変えてから英文で要旨作るとか無理なんすよ! 高階さんはどうされたんすか!? やっぱ最後に作りますよね、普通!」
いつもより口調が荒い。相当に焦っている様子が窺えた。
対して、高階は冷静だ。何をそんなに焦ることがあるんだとでも言う表情で、一言。
「中文で作ればいいんじゃない?」
「……………………へ?」
それは、まさに燃え盛る炎に大量の水を浴びせるが如く。
見事な消火活動を見せた高階は、やはり冷静に続ける。
「辻原君は中国のことやってるんだから、中国語で良いんじゃないかな。ちなみに、独文・仏文でも受理してもらえるよ」
「…………そう、なん、ですか?」
「確か四月のガイダンスで――って、そうか。あの時はいなかったね」
しまった、という顔の高階。伝達ミスを悔いているのだろう。
辻原は帰国が遅れたため、四月の上旬は大学に来ていなかった。ガイダンスでは、今年度卒論・修論提出者向けの説明があったのだが――当然、聴いていない。
両手をだらんと下げ、今にも崩れ落ちそうな様子の辻原。安心したというよりは、脱力したという表現が正しい。
「ごめん。確認しておけば良かったね」
「いやいや、高階さんの所為じゃないっすよ。ガイダンスの内容を確認してなかった自分が悪いんで」
口ではそう言いながら、内心「こういうのは指導教員が伝達することだろ!」と師匠に怒りの矛先を向けていたのだが……それを乃依と高階が知ることはなかった。
お騒がせな辻原は、「須崎さんも、ちゃんと確認しとけよ」と言うと、ふらふらとした足取りで院生室に帰って行く。どちらからともなく、乃依と高階は互いに顔を見合わせ、苦笑した。
【補足説明】(今更ですが……)
①作中年代は2003年です。敢えて当時の名称を用いている部分があります。
②文学部なので、学部は四年制、M(修士課程/博士課程前期)は二年、D(博士課程/博士課程後期)は三年です。乃依と高階、大能はストレートで上がっていますが、辻原はM2に上がる前に一年間休学しているので、マスター三年目です。笠岡はD3までに学位を取得できなかったので、ODになっています。