3話
早朝というにはまだ早い時間帯。しかしこの状況下で、再び眠ることなど不可能であった。すっかり目が覚めた乃依は、こたつ布団に包まって、「最悪」を繰り返す。
(ああもう、どうしよう。絶対呆れられた! 今度こそ呆れられた! ていうか嫌われたぁー!!)
こたつの中でじたばたじたばた。時間よ戻れ! と念じること数十回。夢オチを期待して頬をつねること数回。意味のない行為だと分かっていても止められない。
(恥ずかしい、恥ずかしすぎる……!)
遂にはメールなんて大嫌いだ! と思うまでに至った乃依は、自分の送信済メールを勢いよく削除した。ごみ箱ではない。削除、だ。
勿論、これをしたところで事態の好転は見込めないのだが。
赤くなったり青くなったりしながら、どれほどの間そうしていたか。彼女は不意に立ち上がった。
(何とかしないと)
こうして己の愚行を責めても仕方がない。大事なのはこれからだ。と、やっとそのことに気付く。
(高階さん、まだ読んでないかもしれないし)
夜通しパソコンに向かっていない限り、乃依のメールに気付く可能性は低い。とすると、彼がパソコンを立ち上げてメールボックスを開く前に、手を打てば問題ないのではないか――一時間半かけて出した結論は、いくらか前向きなものだった。
(朝イチで携帯に連絡すれば……。あと一時間か)
ぐだぐだしているうちに、夜は明けようとしていた。七時になれば、メールを送っても迷惑にならない時間帯のはずだ。高階が朝型であることも幸いした。
(よし、今からメール打っとこ)
乃依は携帯電話に手を伸ばす。アドレス帳の「高階さん」には、パソコン用アドレスの他に、携帯電話番号とアドレスが登録されていた。
研究室の名簿に記載されている連絡先である。緊急連絡用として配布されているもので、乃依も名簿を持っていた。高階の連絡先が既に登録されているのは、急に携帯への連絡が必要になるかもしれないと思ってのことで、深い意味はない……と思う。
(うぅ……緊張する)
携帯電話の方には、一度も連絡したことがない。常に学生用ウェブメールでやり取りしていたからだ。
(高階さん、携帯嫌いだもんな)
高階は大学院に入ってから携帯電話を持つようになったらしく、メールを打つのが億劫だと言っているのを聞いたことがある。総じて、高階の年代より上の男性は携帯電話を毛嫌いする傾向があるので、彼以外の先輩に対しても、乃依はたいていウェブメールを使用していた。
(何て書こう……)
まず阻止すべきは、彼がメールを開くことである。それには、パソコンに触れさせてはいけない。
うーん、と乃依は唸った。難しい。
いきなり、「パソコンを起動するのはやめて下さい」と書くのは不自然過ぎるし(というか何様だという感じ)、かといって「夜中に私が送ったメールは読まずに削除して下さい」と書いても、言葉通りに実行してくれる保証はどこにもない。彼が好奇心に負けて見てしまったとしても、誰がその行為を責められようか。
(朝イチで呼び出すしかないかぁ)
幸いにも、今日は非常勤の日ではない。相談したいことがあるので、至急研究室に来てください、と言えば来てくれるだろうか。しかし、
(物凄く迷惑な後輩だよね)
しかも何事かと思えば、メールの削除を要求するだけの用事とか……傍迷惑以上の何ものでもない。
(ううっ……でも!)
背に腹はかえられぬとは、このことなのだろう。後であの酷いメールを見られるのと、今から迷惑をかけるのと、どちらを選ぶか――そう考えたとき、乃依は後者を選択するしかなかった。
高階も相談に乗ると言ってくれたのだし、昨日出た意見を纏めたレジュメを持って研究室に行こう。そこで卒論について相談する……前にメールを削除してもらおう。そう方針を決めて、彼女は携帯電話を握りしめる。
(よし、打とう)
まずは、昨晩もらったメールに対するお礼。それから、熟考に熟考を重ねた本題を書いていく。
(「昨日頂いたご意見を纏めたのですが、どこまでを取り入れようかで悩んでいます。構成についても、見直した方が良いのではないかと思い始めまして……。そこで、さっそくで申し訳ないのですが、見て頂けないでしょうか。今朝は大学にいらっしゃいますか?」……と。これで大丈夫かな)
送信ボタンを押す前に、文面を確認する。同じ間違いを犯すわけにはいかない。念入りにチェックした。
(「行く」って言ってくれるよね……?)
これまでの高階の行動に鑑みる限り、その可能性は高いように思えた。が、なかなか確信が持てない。
しばらく画面をスクロールさせた後、乃依は編集画面に戻した。
(やっぱり「いらっしゃいますか?」じゃ弱いかなぁ)
高階なら是と言ってくれそうな気がするが、絶対ではない。確実に彼を呼ぼうと思えば、もっと有効な言い方をすべきだろう。彼女はクリアボタンを連打する。
悩んだ末、八時から研究室に行っているので時間があれば来てほしい。出来れば早めに相談したい、という内容に変更した。後はちょっと切羽詰った感を演出し、完了だ。
ぽちぽちとメールを打ち、何度も何度も読み返し、手に変な汗を握りながら――乃依が送信ボタンを押したのは、メールを打ち始めてから一時間後のことだった。
送信してからわずか十分後。しかし乃依にとっては長い長い待ち時間が終わった。
(来た!?)
手の中で震える携帯電話を、同じく震える手で開いて確認する。
From:高階さん
Sub:Re:早朝にすみません。須崎です。
(高階さんだ!)
返信してくれた。それだけで、もう救われた気がする。
(本文は…………「了解」だ! 良かったぁ!)
思わずその場でガッツポーズ。これで第一段階はクリアだ。
にしても、と乃依は思う。「Re:」をそのまま使用していることといい、「了解」の一言といい、高階らしい返信の仕方である。
とんでもなく簡潔な本文だが、贅沢は言わない。彼が返信してくれたこと、乃依のお願いを承諾してくれたこと、この二つの事実で十分なのだから――。
(って、十分じゃないし! 喜んでる場合でもない!)
乃依はぶんぶんと首を振る。危うく、満たされた感に包まれて終わるところだった。
忘れてはならない。これから、重要なミッションを遂行しなければならないことを。
(早く仕度しないと)
着替えとメイク。それから、肝心のレジュメ。
メールには、自身の卒論指導をしてほしい旨を書いている。口実に使ったとはいえ、それらしく用意しておかないとさすがに不味い。
急いでレジュメを作成し、プリントアウトする。反省点や自分なりの方向性も書いておいた。
(よし、完璧。……じゃないけど、たぶん大丈夫)
時計をちらりと見る。行くと宣言した時間が差し迫っていた。
(やばっ、もうこんな時間――ってああっ! 朝ご飯食べてない! でも時間ない!?)
どう考えても、悠長に朝食を食べている時間はなさそうだ。
慌てて鞄に荷物を突っ込み、大急ぎで家を出る。玄関に靴が散乱していたが、今は気にしない。コンビニに寄って行く時間を計算しながら、彼女はアパートの階段をどたどたと駆け降りた。