2話
記憶なら、ある。
昨日は中間報告会だった。乃依の所属する地理学研究室では、毎年十一月の下旬に卒論提出予定者の中間報告を行っている。違うゼミの学生や教員から意見がもらえる貴重な機会だ。
それなのに。
(はぁ……)
乃依は緩慢な動作で、こたつ机の上にある断層に手を伸ばした。一番上から、これまで何度となく目を通したレジュメが滑り落ちる。
(っと、あっ!)
一緒に、論文のコピーやら他人のレジュメやらが落ちてきた。いわゆる「雪崩」現象である。
しかし今の彼女に、それらを適切に処理する気力はない。適当に積み重ねて新たな断層を作り上げていき、こたつ机の上はますます汚くなった。
(もういいや……卒論書き終わったら、掃除しよ)
早々に諦め、手に掴んだレジュメを眺める。今日の中間報告で使用したものだ。
乃依の卒論のテーマは、地域の祭りについて。伝統的行事が現代の地域社会に果たす役割を考察したものである。
こういった文化地理学の分野は、専門でない人でも比較的入っていきやすい。研究室には自然地理や経済地理などを専攻している人もいるから、必ずしも全員が乃依の研究に詳しいわけではないが、報告の仕方によっては活発な議論が展開されることもある。
だというのに。
乃依は溜息を吐いた。
準備は怠っていなかったから、心のどこかで大丈夫だと安心していたのかもしれない。それに何より、高階さんに見てもらったのだから、と。
それがいけなかった。
(報告自体は、まあ無難だったけど)
問題は、その後の質疑応答である。
次から次へと発言が繰り出されるなか、乃依は基本的な、確認程度の質問に答えるので精いっぱいだった。とりわけ院生からの質問には、まともに答えられた自信はない。質問の内容すら正確に捉えられたかどうか。
――つまり結果は、
(ぼろぼろだった)
と思っている。
他の同期の子と比べても、それは歴然としていたから。
その後の打ち上げは、当然楽しめるはずもなく。院生の先輩方に囲まれて、まるで反省会のようだったというのが、乃依の印象である。しかも高階とは会話らしい会話もできなかったことが、更に彼女に追い打ちをかけた。
せめて一言、謝りたかったのに。
中間報告に向けて、D2(ドクター二年)の高階は、丁寧に乃依の指導をしてくれた。
彼は普段、とても忙しくしている。週の三日は大学の附属校で非常勤をしており、休日は調査や学会で留守にしていることが多い。それでも僅かな時間を見付けては声をかけてくれたことを、乃依はよく覚えていた。
大学の研究室で見てもらったり、メールで添削してもらったり。彼は元々面倒見が良いタイプではなかったが、乃依のことは気にかけてくれた方だろう。
(同じゼミで、研究テーマが近いってだけなんだろうけど)
そこに先輩・後輩以上の何かがあるわけではないと思う。でも。
(やっぱり嬉しいんだよねぇ)
高階のことを考えるときは、頬が緩むのを止められない。
実は三年生の頃――つまりゼミに配属してから、密かに憧れていたのだ。彼の研究について詳しくは知らないものの、「なんか凄い人らしい」という話は耳に入ってきたし、実際に彼の指導は的確だった。厳しい面もあるが、かといって怖いという印象はなく、乃依の中では一番頼れる先輩である。
だから一対一で個別に指導してもらえば、それはやっぱり胸が高鳴るシチュエーションなわけで。
(分かってるけどね! この先に何もないって、分かってるけどね!)
過剰な期待はするまい、と思う。それよりも、彼の期待を裏切らないようにすることの方がずっと大切だ。
それゆえに、中間報告は最悪だった。
高階の恩を無にしてしまったことへの罪悪感。
ダメダメな自分を見られたという羞恥心。
彼は講義室の一番後ろで、どう思っていたのだろう。壇上でおろおろする自分に対し、どんな感情を抱いていたのだろう。そんなことを、ずっと考えていた。飲み会の席で、一番遠くの席にいる彼を見ながら、ずっと。
せめて飲み会の席でフォローができたら、まだ良かった。ところがM2(マスター二年)の辻原がずっと横に居て、機関銃のようなトークをしてくれたおかげで、高階に近付くことすら不可能だったのである。
ちなみに辻原はあれこれ言っていたが、要約するとこうだ。
おまえの研究は小さい。地味だ。そんなことを明らかにしても意味がない。もっと広い視点が必要だ。俺が見てやる。明日から院生室に来い。
以上。
誰が行くか、と思う。彼は悪い人ではないのだが、酒が入っていた所為か、いつもより強引で偉そうだった気がする。
(でも本当に最悪なのは、この後――)
打ち上げから帰ってからだ。
乃依は頭を抱えながら、数時間前の記憶を掘り起こした。
帰宅したのは十一時近くで、取り敢えず入浴だけは済ませたものの、直ぐに寝付ける状態ではなかった。それほど飲んだ覚えはなかったが、疲れて弱り切った身体とは裏腹に、脳が興奮していた所為である。
仕方なく、乃依はパソコンを起動させた。レジュメに書き殴った意見をワードに打ち替えておこうと思ったからだ。こういうことは早い方が良いし、どうせ寝付けないのだから時間は有効に使おう。そう頭を使うこともない。思考力が落ちていても問題ない。そう、考えて。
そしてそれが、後々大変な事態を引き起こすとは考えもせず――。
ワードでの作業を終えた乃依は、何を思ったかメール画面を開き、そこに一通の新着メールを見付けた。送信者は、
「高階さんっ!?」
まるで予想していなかった展開に、乃依は心臓が止まるかと思った。
(だって、高階さんからメールとか!)
基本的に彼は返信しかしない。こちらがレジュメの添削を頼めば、赤をつけて返してくれる。それ以外でやり取りしたことはなかった。
つまり――これが、彼の方から来た初めてのメールということになる。
(十一時二十五分に来てるってことは……)
打ち上げから帰宅して直ぐに送ったものらしい。
メールは簡潔なものだった。労いの言葉や慰めの言葉はない。唯一冒頭に書かれた「お疲れ様です」の文字に救われたが、考えてみると、毎回メールの冒頭にこの言葉が来ている。ただの挨拶で、それ以上の意味はなさそうだ。
内容は、中間報告を踏まえて今後どう修正していくのか、言われた意見をどこまで取り入れるのか、の二点。最後に、また相談に乗るとも記されていた。
(やっぱり優しい)
後輩指導以上のものはないと分かっていても。
乃依は何度もメールを読み返す。保護して永久保存版にしとこっかなぁ、などと考えつつ。こたつ布団にぎゅっと顔を押し付けて、メールの内容を反芻する。
(呆れられたんじゃないってことだよね)
書き方からすると、今後も指導してくれるということだろう。とすると、昨日の失敗はそれほど悪印象ではないのかもしれない。
(良かったぁ!)
憂鬱な気持ちが、一気に晴れていく。メール一つで、ここまで心の安定が取り戻せるとは思っていなかった。
だから乃依は、勢いそのままに返信してしまったのだ。彼女の考える、最悪の内容のメールを。
(書くんじゃなかった、あんなこと……)
言ってみれば、愚痴メールである。幼稚な、大学四年生とも思えない酷い内容。辻原の機関銃トークのことも書いた。実名は明かしてないが、内容から人物を特定することは可能だろう。
(謝るだけのつもりだったのに)
それがどうして、ああなったのか。ある種の興奮状態にあったためか、余計なことまで書いてしまった自分が、返す返すも恨めしい。
(あぁーもうっ!)
乃依は心の中で絶叫する。
本当に、最悪だった。