表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/7

2話


 記憶なら、ある。

 昨日は中間報告会だった。乃依の所属する地理学研究室では、毎年十一月の下旬に卒論提出予定者の中間報告を行っている。違うゼミの学生や教員から意見がもらえる貴重な機会だ。

 それなのに。

(はぁ……)

 乃依は緩慢な動作で、こたつ机の上にある断層に手を伸ばした。一番上から、これまで何度となく目を通したレジュメが滑り落ちる。

(っと、あっ!)

一緒に、論文のコピーやら他人のレジュメやらが落ちてきた。いわゆる「雪崩」現象である。

 しかし今の彼女に、それらを適切に処理する気力はない。適当に積み重ねて新たな断層を作り上げていき、こたつ机の上はますます汚くなった。

(もういいや……卒論書き終わったら、掃除しよ)

 早々に諦め、手に掴んだレジュメを眺める。今日の中間報告で使用したものだ。


 乃依の卒論のテーマは、地域の祭りについて。伝統的行事が現代の地域社会に果たす役割を考察したものである。

 こういった文化地理学の分野は、専門でない人でも比較的入っていきやすい。研究室には自然地理や経済地理などを専攻している人もいるから、必ずしも全員が乃依の研究に詳しいわけではないが、報告の仕方によっては活発な議論が展開されることもある。

 だというのに。


 乃依は溜息を吐いた。

 準備は怠っていなかったから、心のどこかで大丈夫だと安心していたのかもしれない。それに何より、高階さんに見てもらったのだから、と。

 それがいけなかった。

(報告自体は、まあ無難だったけど)

 問題は、その後の質疑応答である。

 次から次へと発言が繰り出されるなか、乃依は基本的な、確認程度の質問に答えるので精いっぱいだった。とりわけ院生からの質問には、まともに答えられた自信はない。質問の内容すら正確に捉えられたかどうか。

 ――つまり結果は、

(ぼろぼろだった)

 と思っている。

 他の同期の子と比べても、それは歴然としていたから。


 その後の打ち上げは、当然楽しめるはずもなく。院生の先輩方に囲まれて、まるで反省会のようだったというのが、乃依の印象である。しかも高階とは会話らしい会話もできなかったことが、更に彼女に追い打ちをかけた。

 せめて一言、謝りたかったのに。


 中間報告に向けて、D2(ドクター二年)の高階は、丁寧に乃依の指導をしてくれた。

 彼は普段、とても忙しくしている。週の三日は大学の附属校で非常勤をしており、休日は調査や学会で留守にしていることが多い。それでも僅かな時間を見付けては声をかけてくれたことを、乃依はよく覚えていた。

 大学の研究室で見てもらったり、メールで添削してもらったり。彼は元々面倒見が良いタイプではなかったが、乃依のことは気にかけてくれた方だろう。

(同じゼミで、研究テーマが近いってだけなんだろうけど)

 そこに先輩・後輩以上の何かがあるわけではないと思う。でも。

(やっぱり嬉しいんだよねぇ)

 高階のことを考えるときは、頬が緩むのを止められない。

 実は三年生の頃――つまりゼミに配属してから、密かに憧れていたのだ。彼の研究について詳しくは知らないものの、「なんか凄い人らしい」という話は耳に入ってきたし、実際に彼の指導は的確だった。厳しい面もあるが、かといって怖いという印象はなく、乃依の中では一番頼れる先輩である。

 だから一対一で個別に指導してもらえば、それはやっぱり胸が高鳴るシチュエーションなわけで。

(分かってるけどね! この先に何もないって、分かってるけどね!)

 過剰な期待はするまい、と思う。それよりも、彼の期待を裏切らないようにすることの方がずっと大切だ。


 それゆえに、中間報告は最悪だった。

 高階の恩を無にしてしまったことへの罪悪感。

 ダメダメな自分を見られたという羞恥心。

 彼は講義室の一番後ろで、どう思っていたのだろう。壇上でおろおろする自分に対し、どんな感情を抱いていたのだろう。そんなことを、ずっと考えていた。飲み会の席で、一番遠くの席にいる彼を見ながら、ずっと。


 せめて飲み会の席でフォローができたら、まだ良かった。ところがM2(マスター二年)の辻原(つじはら)がずっと横に居て、機関銃のようなトークをしてくれたおかげで、高階に近付くことすら不可能だったのである。

 ちなみに辻原はあれこれ言っていたが、要約するとこうだ。


 おまえの研究は小さい。地味だ。そんなことを明らかにしても意味がない。もっと広い視点が必要だ。俺が見てやる。明日から院生室に来い。

 以上。


 誰が行くか、と思う。彼は悪い人ではないのだが、酒が入っていた所為か、いつもより強引で偉そうだった気がする。


(でも本当に最悪なのは、この後――)

 打ち上げから帰ってからだ。

 乃依は頭を抱えながら、数時間前の記憶を掘り起こした。



 帰宅したのは十一時近くで、取り敢えず入浴だけは済ませたものの、直ぐに寝付ける状態ではなかった。それほど飲んだ覚えはなかったが、疲れて弱り切った身体とは裏腹に、脳が興奮していた所為である。

 仕方なく、乃依はパソコンを起動させた。レジュメに書き殴った意見をワードに打ち替えておこうと思ったからだ。こういうことは早い方が良いし、どうせ寝付けないのだから時間は有効に使おう。そう頭を使うこともない。思考力が落ちていても問題ない。そう、考えて。

 そしてそれが、後々大変な事態を引き起こすとは考えもせず――。


 ワードでの作業を終えた乃依は、何を思ったかメール画面を開き、そこに一通の新着メールを見付けた。送信者は、


「高階さんっ!?」


 まるで予想していなかった展開に、乃依は心臓が止まるかと思った。

(だって、高階さんからメールとか!)

 基本的に彼は返信しかしない。こちらがレジュメの添削を頼めば、赤をつけて返してくれる。それ以外でやり取りしたことはなかった。

 つまり――これが、彼の方から来た初めてのメールということになる。

(十一時二十五分に来てるってことは……)

 打ち上げから帰宅して直ぐに送ったものらしい。


 メールは簡潔なものだった。労いの言葉や慰めの言葉はない。唯一冒頭に書かれた「お疲れ様です」の文字に救われたが、考えてみると、毎回メールの冒頭にこの言葉が来ている。ただの挨拶で、それ以上の意味はなさそうだ。

 内容は、中間報告を踏まえて今後どう修正していくのか、言われた意見をどこまで取り入れるのか、の二点。最後に、また相談に乗るとも記されていた。

(やっぱり優しい)

 後輩指導以上のものはないと分かっていても。


 乃依は何度もメールを読み返す。保護して永久保存版にしとこっかなぁ、などと考えつつ。こたつ布団にぎゅっと顔を押し付けて、メールの内容を反芻する。

(呆れられたんじゃないってことだよね)

 書き方からすると、今後も指導してくれるということだろう。とすると、昨日の失敗はそれほど悪印象ではないのかもしれない。

(良かったぁ!)

 憂鬱な気持ちが、一気に晴れていく。メール一つで、ここまで心の安定が取り戻せるとは思っていなかった。



 だから乃依は、勢いそのままに返信してしまったのだ。彼女の考える、最悪の内容のメールを。

(書くんじゃなかった、あんなこと……)

 言ってみれば、愚痴メールである。幼稚な、大学四年生とも思えない酷い内容。辻原の機関銃トークのことも書いた。実名は明かしてないが、内容から人物を特定することは可能だろう。

(謝るだけのつもりだったのに)

 それがどうして、ああなったのか。ある種の興奮状態にあったためか、余計なことまで書いてしまった自分が、返す返すも恨めしい。

(あぁーもうっ!)

 乃依は心の中で絶叫する。

 本当に、最悪だった。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ