1話
(ここは……?)
ぼんやりとした意識のなかで、須崎乃依はゆっくりと顔を上げた。
重い瞼を開いて正面を見つめると、よく知った人物と目が合う。
昼夜を問わず、場所にかかわらず、毎日見ている顔。
嫌いではないが、さりとて好きと言えるだけの自信のない顔。
――何のことはない。自分の顔だ。
彼女の両指は、ノートパソコンのキーボード上に置かれたまま。数秒前までは、まるでダイイング・メッセージを残して死亡した被害者のようだったが、彼女はちゃんと生きている。
(家だ)
わざわざ確認する必要なんてない。見慣れた、自分の下宿先だった。
つけっ放しの電気。
熱を入れたままのこたつ。
スリープモードのパソコン。
これらの状況証拠と、今の彼女の状態を見れば、探偵でなくとも真実に辿り着けるだろう。
(まただ……)
この一か月で、もはや恒例となってしまったうたた寝。月の初めにこたつを出してから、急激にその回数が増した。いけないと分かっていても、ついつい誘惑に負けてしまうのだ。
カーテンの隙間から見える色は、黒一色。明るくなっていないことにほっとする。
時間を確認しようと、乃依は携帯電話を手に取った。
(四時二十分……二時間半か)
意識を失っていた時間だ。
道理でぼんやりするわけだと、納得する。しっかり睡眠を取るには短過ぎ、うたた寝にしては長過ぎる、最も中途半端な時間。
いや。昨夜の酒が残っているのかもしれない。昨晩飲んだ量を数えながら、彼女は思った。何れにせよ、気分は非常によろしくない。
(うぅ眠い……)
正面の真っ黒なディスプレイには、相変わらずの寝惚け眼が映っている。このまま二度寝してしまおうか――そんな誘惑に駆られるが、
(さむ……)
微睡みの時間は長く続かない。乃依は肩を震わせた。
さもありなん。こたつがフル稼働しているような時期、地域である。フリース生地の部屋着を身にまとっているとはいえ、肩丸だしで二時間半も眠っていたのだ。身体は当然冷え切っている。
取り敢えず両肩に応急処置を施すべく、乃依はこたつ机の下に全身を押し込んだ。一人用のミニこたつだが、足を折り曲げれば、すっぽり全身を収納してくれる。
(風邪、引いてないといいけど)
この時期に風邪だなんて最悪過ぎる。卒論の提出まで、あと二ヶ月を切っているというのに。
これからラストスパートをかけるという時期に、風邪でダウンでは笑えない。一に体力、二に気力、と先輩が言っていたっけと、乃依は院生の言葉を思い出した。研究者に必要な力らしい。
(あったかい……気持ちいい……)
一気に全身が温まる。再び訪れる微睡の時間。
しかし太腿がちりちりしてきたので、ごろりと身体を反転させると、腰がヒータ部分にぶつかった。痛くはないが、やや窮屈だ。
(ん?)
ふと額に違和感を覚え、手で撫でると奇妙な凹凸感。芋虫のように這い出てから起き上がり、それまで額を押し付けていた場所を見て納得する。
(よく無事だったな、ノーパソ……)
少なくとも頭一つ分の体重はかかっていたはずだが。
大丈夫だろうが、一応無事かどうか確認してみよう。そう考えて、彼女はパソコンに手を伸ばした。
スリープ状態になっているパソコンを起動。パスワードを入力すると、直前の作業画面が表示される。
(え?)
それを見た乃依の表情は、一瞬色を失い――直後、
「なっ……!」
眠気は一気に吹き飛んだ。
目に映るのは、大学で使用している学生用ウェブメールの画面である。
普段ならば、眠る直前までメールをチェックしていたのだろうなと思って終わりなのだが、今回ばかりは事情が違った。
送信ボックスにある、送信済みメール一覧。そこに、高階孝司の名がある。勿論、送信者は自分だ。
(やだ……凄くやな予感する……!)
送信時間は一時四十七分。眠る直前だということが分かる。
だんだんと意識がクリアになっていくなか、乃依は恐る恐るマウスを握った。
(見たくない……物凄く見たくないけど……!)
そこに何が書かれているのか。
一部頭にもやが掛かっているものの、おおよその内容は分かる。眠る直前の行動は、ほぼ完全に想起されつつあった。
カーソルをその位置に持っていくのにたっぷりと時間をかけ、彼女は遂に人差し指を動かした。
軽い音が、いやに耳に残る。これほどまでに、クリック音をはっきりと聞いたことはなかったかもしれない。今日何度となく聞いた、終了を告げるベルの音よりも緊張した。
(やっぱり見たくない! 見たくないっ!)
だって、もう思い出してしまったから。この上、決定的な動かぬ証拠を見せつけられたら――今すぐベランダに出て絶叫したくなるレベルの恥ずかしさだ。
(もうやだ……)
のろのろと、絶望的な表情で画面を直視する乃依。果たして表示されたのは、彼女の予想と寸分違わぬものだった。
(ああ……)
やっぱり。見なきゃよかった。いや駄目だ。見なきゃいけないものだった。でも、見たくなかった。
乃依はこたつ机に突っ伏した。
次に目が覚めたら、全て夢でした――なんていうオチだったら良いな、と思いながら。