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第1話:正論の檻、あるいは対数円盤の誕生

新しく物語を始めるにあたって、まずは皆様に感謝を。


かつて一人の天才が銀河の戦場そのものをフリーズさせた物語から数世紀。今回は、全く新しい時代と、全く新しい主人公による興亡劇をお届けします。


現代(2026年)の世界を見渡してみなさい。顔の見えない巨大なプラットフォーム、あるいは140文字の記号化された「正論」によって、人々が互いを監視し合い、自ら考えることを放棄してルールという名の檻へ飛び込んでいく。そんな窒息しそうな歪みを、宇宙規模に肥大化させた統治体【ALG】が今回の敵です。


これに対するのは、英雄でも天才でもない、ただの一人の下級会計官。彼の手にあるのは、電気が通っていないチタンの遺物『対数円盤ログ・サークル』のみ。


一人の天才に依存する体制がいかに脆いか。そして、正論という名の怪物に対し、凡人がいかにして自らの尊厳を懸けて立ち向かうのか。


国家は単なる道具に過ぎず、うまい紅茶を飲めるのは生きている間だけです。

それでは、数字と硝煙のスペースオペラ、その最初の帳簿を開くとしましょう。

#### 1


歴史を振り返れば、人類が発明した最も悪質な麻薬は、化学合成された劇薬ではなく、「正義」という名の美辞麗句であったことがわかる。


宇宙暦一〇〇二年。

かつて一人の孤高の天才、マクシミリアンが【神罰の要塞ディエス・イレ】を起動し、銀河の戦場そのものを丸ごと凍結フリーズさせてから、正確に三百年が経過していた。

人類は、彼が遺した完璧な安全保障システムの中で怠惰に肥え太り、やがて要塞が機能停止を迎えたとき、新たな支配の形を選択した。それは、特定の天才に依存する体制を極端に嫌悪した結果、生まれた怪物――『自動化された法条主義的保護領(Automated Legalistic Guardianship)』、通称【ALGアルグ】による統治である。


ALGの世界において、戦争は「非効率なバグ」であり、政治は「感情的なノイズ」であった。

すべては、過去の膨大な歴史データと天才たちの思考ログをディープラーニングした超高度戦略予測AI『プロヴィデンス』によって最適化されていた。民衆は「誰も傷つかない、完璧に公正なルール」を提示され、自ら進んで思考することを放棄した。ルールの外へ出る者は「非合理的バグ」として、社会の帳簿から静かに抹殺される。

それは、暴力を使わない、お上品で冷酷なデジタル・ディストピアであった。


「……以上が、第十七セクター、通称『鉄錆ラスト領』に対する、次期予算執行停止案の妥当性に関するレポートです」


ALGの中央監査神殿。白磁のタイルのように無機質な会議室で、一人の男が淡々とした声で言った。

レナード・バザン、三十歳。

高級官僚たちの洗練された衣服とは対照的な、仕立ての古い、しかし折り目の正しい制服を着た下級データ監査官である。彼の前には、ホログラムで立体化された天文学的な数値のグラフが浮かんでいた。


「鉄錆領の維持費は、全銀河の標準コストに対して二四パーセント過多。さらに、住民の生産効率は平均を下回っている。プロヴィデンスの算出した最適解に基づき、当該星域への物資および兵站の配給を即時停止(間引き)すべきである、と」


レナードは、懐中時計ほどの手のひらサイズの器具をポケットから取り出した。

結晶ガラスとチタンの同心円盤を組み合わせた、精緻なアナログ計算尺――『対数円盤ログ・サークル』。ハッキングもジャミングも受け付けない、旧時代の遺物だ。レナードの指先が円盤をわずかにスライドさせると、チタンの目盛りが重なり合い、シャリ、と微かだが冷徹な摩擦音を立てた。


「反対ですね」


その一言に、会議室の空気がガラス細工のように凍りついた。


#### 2


「反対、だと? バザン監査官」


円卓の最上席に座る、ALGの最高代行者の一人が、不快感を隠そうともせずに眉をひそめた。その顔には、完璧なスキンケアと、それ以上に完璧な「正論の仮面」が張り付いている。


「これは『プロヴィデンス』が弾き出した、全銀河の九九・九パーセントの幸福を維持するための最適解だぞ。ルール第十四条、全体最適の原則に基づいている。君は、自分がAIの論理ロジックよりも賢いとでも言うつもりかね?」


「まさか」

レナードは斜に構えた姿勢のまま、手元の対数円盤の目盛りに視線を落とし、乾いた笑いを浮かべた。

「おれは自分の頭脳が、過去の天才マクシミリアンのデータまで内包したAIに勝てるとは思っていませんよ。ですが、君たちの『完璧な神(AI)』は、一つだけ決定的な戦略的失敗を犯している」


「戦略的失敗?」


「ああ。この計算式には、人間という生物の『泥臭い生存本能』という名のノイズが含まれていない」

レナードはチタンの円盤を再びカチリと回した。

「生産性が低いからという理由で物資を止めれば、鉄錆領の三億の人間は、ルールに従って静かに餓死するのではない。生き延びるために、ルールを破って略奪を始める。1の入力を断てば、0になるのではなく、マイナス100の不条理(暴動)となって跳ね返ってくる。それが人間というバグの性質だ。国家は単なる道具に過ぎない。個人が国家なしで生きられても、国家は人間なしで存立しえないのさ」


「不謹慎な。我々はルールによって彼らを『保護』しているのだ!」

代行者は、過剰な正義感をもって声を荒らげた。

「非合理的な暴動など、ALGの防衛システムが即座に鎮圧する。バグは排除されるのが、全体の利益だ。君の意見は、コンプライアンス(規律)に反する危険思想だよ」


レナードは深くため息をつき、椅子の背もたれに体を預けた。


「それがどうした、というんだ。……まあ、うまい紅茶を飲めるのは生きている間だけだし、君たちのその綺麗な檻の中で、窒息するまで規則を貪っているといい」


#### 3


査問の結果は、極めて迅速、かつ『合理的』であった。


レナード・バザンは、ALG中央監査局の職責を解かれ、データ改ざんおよび規律違反の容疑(もちろん、AIが自動生成した完璧な言いがかりである)により、辺境領への左遷が言い渡された。

行き先は、彼が擁護したまさにその場所――予算を打ち切られ、銀河の帳簿から消去されかけた『鉄錆ラスト領』の、ただの下級会計主任であった。


「手厳しい戦術的敗北だな」


数日後、辺境へ向かう老朽化した連絡船の狭い船室で、レナードは一人、冷めきった泥臭い紅茶を口に含んだ。

彼の荷物は、古いスーツケース一つと、あのチタンの対数円盤だけだった。


窓の外には、ALGの管理下にある美しい光の都市星系が遠ざかり、代わりに星々の光すら届かない、暗黒の辺境宙域が広がっていく。

ALGの精鋭エリートたちは、自分たちが完璧な正論の檻の中で、徐々に「考える力」という最大にして最後の兵站を失っていることに気づいていない。一人の天才AIにすべてを委ねた組織が、いかに脆いか。


「恒久平和など人類の歴史になかった……か。マクシミリアン閣下、あなたの遺産は、ずいぶんと悪趣味な形でお上品に腐り果てましたよ」


レナードは指先で対数円盤を弄び、目盛りをゼロへと戻した。

ガラスとチタンが噛み合う静かな音が、船室に小さく響く。


天才のAIが、完璧な正論ルールで世界を圧殺しようとするならば。

こちらは、無能で、怠惰で、しかし生きることだけは諦めない凡人どもの「不条理」を束ねた、新しいシステムを構築してやればいい。


銀河会計監査官レナード・バザンの、数字と泥にまみれた反逆の劇が、いま静かに幕を開けようとしていた。


(第1話・完)

第1話を最後までお読みいただき、ありがとうございました。


主人公レナード・バザン。彼はきらびやかなレーザー大砲を撃ちもしなければ、神がかった予知能力を持つわけでもありません。ただ、チタンの『対数円盤ログ・サークル』の目盛りを合わせ、AIが「ノイズ」として切り捨てた人間の泥臭い生存本能を計算するだけの男です。


「戦略的な失敗を、戦術的な勝利で埋め合わせることはできない」


高度戦略予測AI『プロヴィデンス』を絶対の正義と仰ぐエリートたちは、効率の悪い辺境を切り捨てることを「最適解」と呼びました。しかし、人間という生物は、彼らが思うほど綺麗に数式で割り切れるほど賢くはできていないのです。


正論の檻を追われ、最辺境の『鉄錆ラスト領』へと左遷されたレナード。

次話からは、ルールに完全に見捨てられた、しかし泥をすすってでも生きようとする「愛すべき無能な凡人たち」との合流、そしてAIの予測を狂わせる最初のバグ(反撃)が始まります。


歴史に絶対はありませんが、この退屈で騒がしい不条理の劇に、もう少しだけお付き合いいただければ幸いです。

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