【短編小説】晴れのち、晴れ。
『今日は朝の晴天から一変、昼すぎには雲が広がり雨天となるでしょう。みなさん、外出時は傘をお忘れなく』
テレビの中のお姉さんはニコニコと笑っている。彼女が動くたびに、真っ直ぐ伸びた髪が揺れ、スカートがサラサラ波を打つ。今日の晴れた朝によく似合う、きれいな女の人。背後には桜が満開で、まるで彼女のために咲いたのではと思うほどだ。
「あら、お天気お姉さん変わったの。可愛らしい人ね〜。前の人は化粧が濃かったけど」
サラダと焼きたての食パンをテーブルに置くと、母はそう言い残してキッチンへ戻った。最後の一言は余計だと思うが、母親というのは往々にして余計なひと言が多いものだ。
『たしかに、初々しくていいな。声も聞き取りやすい』と、父が新聞から顔を覗かせた。
家内での彼女の評判は上々。でも私は、その笑顔が苦手だった。わざとらしいし、なにより"一生懸命やってます感"に胸焼けしそうになる。
思想の自由は保障されているからと、私は心の中で容赦なくヤジを飛ばす。
なにがそんなに楽しいんだか。清楚系装ってる女が1番危ない。バレバレの作り笑顔。絶対に友達になれない。人徳だけで這い上がっていくタイプ。
こうしてやっと満足すると、私は携帯の画面に意識を戻し、サラダを頬張った。
レールのように真っ直ぐ伸びる縁石に登って学校に向かうのが、私の日課だ。縁石はずっと続く。川沿いの道を進んで、3つの横断歩道を渡ると、中学校までは、徒歩25分ほどで到着する。
母の通っている美容室を過ぎたところにある、ひとつめの横断歩道。私は、青信号の先に見えた"テナント募集"の張り紙に、歩調を速めた。
「ほんとに潰れちゃったんだ」
シャッターが降り、"スパイス マサラ"の看板は取り外されていた。少し前に、父が話をしていた。味は良かった、と。
私は小学生の頃、父に連れられて毎週のようにこのカレー屋に通っていた。"土曜の昼"といえば"スパイス マサラ"とすんなり出てくるほどだ。土曜の昼は母が仕事でいなかったので、父はきっと、料理をするのがめんどうだったのだ。
スパイス マサラは、昔スナックだった場所を改装してできたカレー屋だった。座高の高い丸イスがカウンターにならび、壁全面の蛍光色のピンクと、店の所々に飾られた白いファーが印象的だったが、無理矢理感は否めなかった。
父はこのカレー屋を気に入っていた。しかしその割にはいつも無愛想な態度で、インド人の店長が笑いかけても、父は何ひとつ返さなかった。そんな父を気に留めず、店長は太陽のような笑顔を押し付ける。
父は日頃から母に気を使っているせいか、店長を無視することで、家でのストレスを解消しているように見えた。注文の際には、メニュー表を指差すだけで、目も合わせなかった。店長は『ワカリマシタ』と、また笑う。
私は悪態をつく父を見るのも、店長の笑顔を見るのも、このカレー屋自体、好きじゃなかった。
ふたつめの横断歩道は見晴らしのいい、広い道。最近塗り直された歩道と道路と白線を、私は大変気に入っていた。等間隔に並ぶ木々、その隙間から差し込む光と風が気持ちいい。
きれいな道を歩くと、不思議と背筋が伸びる気がする。
学校まではあと半分。それに気づけば、幸せは束の間、私の気持ちは一変して雲がかかる。
ひとりで歩く通学路が唯一自分らしくいられる、憩いの場所なのだ。
3つめの横断歩道に入ると、いよいよ私は分厚い鎧を纏う準備にとりかかる。校門が見えてきた。誰か送ってもらったのだろうか。シルバーの軽自動車が停まっているのも見える。あと100m。憂鬱な気分に、視線はゆっくりと、つま先まで落ちていく。
『お母さん、ありがとう!』
彼女の声だ。そう思って、私は瞬時に顔を上げた。
声の正体は、同じクラスの三田遥。
彼女は勢いよく車のドアを閉めると、車内の母親に手を振りながら校門に向かって走って行った。リアウインドウから、大きく手を振りかえす母親の姿が見える。
膝上のスカート。見事なお団子に、流れる顔まわりの髪は、いつも丁寧に巻かれている。
彼女と私は違う人間。当たり前のことだ。たとえ、数学のテストが同じ28点でも。同じように球技が苦手でも。忘れ物が多くても。
彼女は学校が楽しそうで、ほどほどに友達がいるから、ひとりぼっちになることはない。忘れ物をしたって、誰かが手を差し伸べてくれる。部活動にも適度に取り組み、先生たちからも好かれている。
違う人間なのだから、私と違うのは当たり前だ。
私は、彼女の笑顔が苦手だ。
彼女のことが苦手な理由と、お天気お姉さんが苦手な理由、カレー屋の店長が苦手な理由は、きっと似ている。
私は重たい体を引きずり、ようやく自分の席に辿りついた。
昼頃から、空には雲が広がり始めた。雲は、街から光を奪い、全てを灰色に染めた。14時を過ぎた頃、雨が降り出した。
ホームルームが終わり、全員が一斉に立ち上がると、教室はガチャガチャと椅子と机がぶつかり合う音で騒がしくなる。
『今日部活どうなるかな?』『帰りどこか寄ってこー』『お母さん迎えくるけど、一緒に乗ってく?』
関係のない世界の中で、私はひとりハッとした。今朝、カバンに入れたはずの折りたたみ傘が見当たらない。奥に沈んだ弁当箱まで取り出してみるが、どこにもない。雨は、私に追い打ちをかけるように、より一層強く降り注いだ。
図書室で机に落書きをして、消して、消しカスを固めてを繰り返していると、雨は次第に弱まっていった。時刻は16時前。気づけば1時間ほどこうしていた。
下駄箱で靴を履き替え、私は決心し、雨の中に飛び込もうとした。
その時、背後から誰かが私の名前を呼んだ。
『岡村さん!』
この声は。すぐに確信した。振り返ると、体操着姿の三田遥が立っていた。右手に長い傘を持って。
『今帰り?』
「うん」
『私も。雨のおかげで部活校内ランだけになってラッキーって感じ。でも帰りに先生に頼み事されちゃってさー、そんなの日直に頼んでよーってね』
彼女はヘラヘラ笑ってみせた。
それから自身のカバンの中をゴソゴソ漁ると、水玉模様の折りたたみ傘を差し出してきた。
『私、長いの持ってるから、よかったら使う?』
傘なんて、どうでもよかった。頭の中を埋め尽くしたのは、"やっぱり、彼女の笑顔が苦手だ"ということだけだった。差し出された傘を見つめたまま突っ立った。そんな私が怖くなったのか、私が素直にありがとうと受け取ると思っていたのに、予定の動作をしなかったからか、彼女の表情が強張った。まるで雨に怯える迷子犬みたいに。
「なんなの、あんた」
私はすぐに、我にかえった。誰の声?三田遥の声ではない。私の声だ。蓋をしていた心が、口に出さなければいいと思っていた心が、するすると喉を通り抜け、尻尾を掴むよりも先に飛び出してしまった。
「ご、ごめん三田さん。そんなつもりじゃ」
私は続ける。
「ごめん、本当に、ごめんなさい。ごめん」
『ううん。岡村さんに好かれてないことは、なんとなく分かってたから』
私は否定できなかった。その代わりとして、何者かが正体を現すように、肩の力がスッと抜けたのが分かった。
『私の方こそごめんね。ホームルームの後、岡村さんが傘探してるように見えたから、声かけただけだよ』
いつもより弱く笑った彼女は、差し出した手をゆっくり下ろし、折りたたみ傘をカバンに片付けた。
私は傷つくのが怖い。誰かを傷つければ、それは同時に"人を傷つけたという傷"が自分にもつくことになる。私はそう考える。だから心の中でヤジを飛ばす。自分は傷つきたくないから。
ずるくて、臆病で、脆い人間だ。私は。
本心を口にしたら狼狽えてしまう。彼女の優しさに、自分の醜悪さがくっきりと輪郭をみせ、狼狽えてしまう。
なんて弱い人間だ。
彼女は何も言わず私を横切ると、そっと傘をひろげ雨の中を帰って行った。
彼女は優しい。私はそれを知っている。決して利己的ではない、心の底からの優しさを持っている。
彼女だけじゃない。カレー屋の店長もきっとそうだった。無愛想な父の横で、さらに無愛想にする私に、彼は『オイシイ?』と笑った。
あの時、私が笑い返したら、未来は何か変わっていただろうか。
私が今、彼女の優しさを受けとることができれば、未来は少し違うだろうか。
差し出されたいくつもの手を払って、卑屈になって、人を遠ざけているのは私の方から。
校門を抜けた彼女の背中がどんどん小さくなっていく。雨のせいか霞んで見える。消えてしまいそうに揺れているようにも。
進んだ先の信号を越えたら、彼女は右に曲がる。いつも、私はそこを左に行く。そして時々、振り返る。
雨の日でも、まるで晴れているかのように友達と笑う横顔をみる。
彼女が信号で止まった。ここの信号は切り替わりが早く、あと20秒もすれば青になる。
私は走った。なぜ走り出したのかは分からない。冷たい雨が私に降りかかった。
青信号に変わる前に、彼女に声をかけるんだ。何を伝えたいのだろう。第一声はなんと始めるのだろう。
分からない。それでも走った。交差する信号が赤色に変わった。
私は、走った。ただ、彼女の背中をめがけて。
「三田さん!」




