ヴァイス2歳
カクタスの過去も少し触れています。
昼過ぎだった。太陽がいちばん高くて、空気が重くなる時間。窓の外は白く揺れて見えるくらい暑い。
僕はヴァイス。ヴァイス・グレイシャーだ。
僕は夏が嫌いだ。夏は暑くて疲れる。お父さんは外で遊ぼうと言うけど嫌だ。
暑いから絵本を読んでほしい。昨日お母さんが読んでくれた『氷の英雄』っていう絵本はすごく面白かった。
僕と同じでヴァイスという名前の魔法使いが、困っている人を助ける話だ。
ヴァイスは氷魔法で暑い夏も涼しくできる。
熱中症になった人も魔法で助けていたし、冷たい飲み物が欲しい人には氷をプレゼントした。
もちろん、魔族に襲われている人は魔族を倒してあげるし、魔獣に襲われている村では進んで魔獣を討伐した。
『氷の英雄』を読むと、僕も胸の奥がひんやりと冷たくなった。ヴァイスが魔法をかけてくれたんだ。
お母さんに言ったら「よかったね」って言ってくれた。僕も大きくなったら、みんなを助ける魔法使いになるんだ。
「アイスランサー!」
魔法使いヴァイスが使っていた必殺技だ。どんな魔族も、どんな魔獣も、この魔法でひと突きだ。
廊下を走っていると玄関からお父さんが帰ってきた。
「アイスランサー!」
お父さんは強い剣士だってローズが言ってた。僕はお父さんより強くなって、みんなを守るんだ!
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一仕事終えて帰ってくると、廊下の奥からヴァイスが走ってきた。
「ただい……」
「アイスランサー!」
帰ってくるや否や、魔法使いヴァイスの攻撃魔法を撃ち込まれる。
外が暑かったからか、冷たい風が吹いた気がした。
「ただいま、ヴァイス。元気なのはいいことだが、お父さんに攻撃魔法を撃っちゃだめだぞ」
「僕は、アイスランサーでみんなを守るんだ!」
「そうかそうか、それは偉いな。ヴァイスは将来、魔法使いになるのかい?」
「うん!」
迷いのない返事だった。
瞳はキラキラと輝き、ヴァイスの心境を物語っている。
「お父さんは魔法が苦手だからなぁ。ヴァイス、剣には興味ないか? お父さんみたいに強い剣士になるんだ」
「えー。僕は魔法使いがいい!」
だめだった。当面はエリザベスと魔法のレッスンだな。
息子に剣を教えるのを楽しみにしていたが、その夢が叶うのはまだ先になりそうだ。
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いつのまにか、疲れたヴァイスは眠ってしまった。
すくすく成長しいつの間にやら屋敷中を走り回るようになった。
随分と大きくなったと思っていたが、寝ている顔はあどけない。
カクタスは寝台の縁に腰を下ろし、そっと息子の髪を撫でた。指先に触れる髪はまだ柔らかく、額は少しだけ汗ばんでいる。
先ほどまで廊下を駆け回っていた勢いが嘘のように、今は静かに、規則正しい寝息だけが部屋を満たしていた。
「……元気に育ってくれたな」
口に出した声は、自分でも驚くほど小さかった。
撫でるたびに、ヴァイスの眉がわずかに動き、安心したように呼吸が深くなる。その仕草がたまらなく愛おしくて、カクタスは胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。
規則的に動く胸を見ていると、父としてこの子を守っていかなくてはと、強く思う。
その思いは、胸の奥で静かに熱を持ち、やがて別の記憶を引き寄せた。
守るという言葉が大切な人を失った日をーー。
カクタスは視線を落としたまま、ゆっくりと息を吐く。
次の瞬間、意識は自然と過去へ滑っていった。
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私は男爵家に生まれ、王都で剣の修行をしていた。父が領地を守り、私が継ぐのはもう少し先だと思っていた。しかし、両親が王城へ出向いている時、ことは起きた。
魔族の襲撃だ。
夕暮れごろ、急に街のあちこちで魔族が現れ、民は襲われ、建物は壊された。
私も当時は王都にいたので、何体かの魔族と戦った。
その際、両親は王城で争いに巻き込まれ、命を落とした。
一番やばそうな魔族は、王城に詰めていたラインハルト様が追い払ったと聞いたが、ギリギリの戦いだったとも聞いている。
父母が亡くなったと聞いてかなり落ち込んだが、すぐに領地を継ぐこととなった。毎日忙しく、くよくよしている暇もなかった。
四年前に王都でお世話になったイグニ家のエリザベスと結婚し、今はヴァイスも生まれ、とても幸せだ。
だからこそ――この温もりを、当たり前のまま続けさせたかった。
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カクタスは寝台の縁に手をつき、眠るヴァイスの顔を覗き込む。
まつ毛はまだ短く、頬は熱を持っているのに、表情だけは無防備で柔らかい。
「……本当に大きくなったな」
呟いて、額にそっと口づけた。
小さな寝息が変わらないのを確かめ、布をかけ直す。
扉の方へ向き直ると、エリザベスが廊下の角に立っていた。日中の暑さのせいか髪を軽くまとめ、薄手の上着を羽織っている。ヴァイスが静かになったのを感じたのだろう、声を落として言った。
「寝たの?」
「ああ。走り回って、さすがに限界だったらしい」
エリザベスは寝室の中を一瞥し、微笑む。
「……かわいい顔」
カクタスは頷き、ヴァイスの布の端を整えてから一歩下がった。
「しばらく起きない。任せてもいいか」
「もちろん。任せて」
短いやり取りで十分だった。
カクタスはもう一度だけヴァイスの頬に指先で触れ、名残を断ち切るように立ち上がる。
「私は自室で仕事をする。何かあったら呼んでくれ」
「ええ」
その時、廊下の先から女中頭のローザが近づいてきた。手には封蝋付きの書状。
近づく前から、それが“ただの連絡”ではないことが分かる――封蝋の赤が深く、押された紋章が明確だったからだ。
カクタスは、その紋章を見た瞬間に足を止めた。
「……剣の紋」
王城直属の印。
そして、その意匠は一つしか知らない。
ラインハルトだ。
ローザが一礼し、書状を差し出す。
「旦那様。王都より急報が」
カクタスは受け取り、封を切る。
文面は短い。
焦りを煽る調子ではない。だが、その落ち着きがかえって不気味だった。
理由は書かれていない。ただ、「可能性」だけが、淡々と置かれている。
――王都にて、魔族の存在を確認。
――詳細は追って通達。
――各領、警戒を強めよ。
カクタスは息を吐き、エリザベスの方を見た。隠す理由はない。隠しても意味がない。
領主として動くなら、家の中も同じ現実に立たせる必要がある。
「エリザベス。ラインハルト様からだ」
エリザベスの表情がわずかに引き締まる。
「……ラインハルト様が、わざわざ?」
「王都で魔族が確認された。詳細はまだないが、警戒を強めろという」
口にした瞬間、部屋の空気が少しだけ冷える。
それでもエリザベスは、目を逸らさなかった。
「こっちに来る可能性は?」
「可能性はゼロじゃない。だから、準備が必要だ」
カクタスは言い切ってから、声を落とす。
「不安にさせたいわけじゃない。だが、知っていてほしい。君とヴァイスを守るために、街を守る」
エリザベスは一度だけ頷き、寝台の方へ視線をやった。眠るヴァイスの頬は変わらず柔らかい。
その無防備さが、彼女の決意も引き出したようだった。
「分かった。私にできることは?」
「屋敷の備蓄を確認してほしい。水と薬草、氷室の管理、子どもを含めた避難の動線も」
「分かった。ローザ、すぐ段取りを」
ローザは即答する。
「かしこまりました。屋敷内へも必要事項を通達いたします。混乱が出ないよう、順序立手が必要ですね。」
「頼む」
カクタスは踵を返しながら付け加えた。
「それと、オスカーを呼んでくれ。執務室へ。至急だ」
「承知いたしました」
自室の机に蝋燭を灯し、カクタスは地図を広げる。窓から入る風はぬるく、紙がわずかに鳴った。
書状を机の中央に置き、必要な項目を冷静に並べていく。
門の警備。巡回の頻度。夜間の灯り。詰所の連絡網。治療所の手配。民兵の即応。
そして、近隣の村へどう周知するか――不用意に煽らず、しかし油断させない言葉を選ぶ必要がある。
ほどなくして扉が叩かれ、オスカーが入ってきた。
「旦那様」
カクタスはラインハルトの書状を指で示す。
「王都で魔族が確認された。ラインハルト様からの直書きだ。街の守りを一段上げる」
オスカーの目が鋭くなる。
「承知しました。まずは巡回を増やし、夜間の灯りを増設。門と各区の詰所を厚くします」
「加えて、伝令経路を固定する。門、詰所、治療所、屋敷。誰がどこへ走るかを決め、今夜から回せ」
「はい。民兵にも触れますか」
「触れる。ただし煽るな。“備えを整える”という形で、参加を増やす。必要なら私も出る」
オスカーは短く礼をし、すぐに動く気配を纏った。
「頼む」
余計な言葉はなかった。
オスカーは踵を返し、音を殺して扉へ向かう。取っ手に手をかける前にもう一度だけ振り返り、確認するように言った。
「屋敷の方は、奥様とローザが動かれるでしょう。領内は私が前へ出ます」
「任せる」
オスカーは静かに扉を開け、そのまま廊下へ消えた。
扉が閉じると、執務室には蝋燭の燃える小さな音だけが残る。
次に動くべきは、自分だ。
机の上を片付け、上質の便箋を数枚取り出す。封蝋、紐、宛名札。領主としての手が勝手に動く。
あの手紙は“領地に警戒を”という一言で終わっていたが、自分の領だけ守って終わる話ではない。
まず、誰に知らせるべきか。
大声で触れ回る必要はない。しかし、信頼できる者には、先に事実を渡しておくべきだ。
カクタスはペン先を整え、深く息を吸ってから書き始めた。
――王都で魔族が確認された。差出人はラインハルト。
――緊急の動員命令ではない。だが理由が不明で、不穏さが残る。
――各地で警戒を上げ、連絡経路を整理してほしい。
文章は短く、曖昧さを残さない。
不安を煽る形容は避け、必要な事実と意図だけを並べる。相手が迷わず動けるように。
一通を書き終えると、すぐ次の便箋へ移った。
宛先ごとに、言葉を少しだけ変える。軍備を預かる者には具体的な備えを。商路を握る者には伝令の確保を。王都に近い者には目撃情報の収集を加える。
書き終えた手紙は重ねて乾かし、封をする。
封蝋を落とし、自らの紋章を押しつけると、水色の蝋が静かに固まった。領主の責任が、そこに形になって残る。
カクタスは束を手に取り、廊下へ出る。
「ローザ」
呼ぶと、すぐに女中頭が現れた。目の動きだけで状況を察し、問いを挟まない。
「旦那様」
「使いを出す。最優先でこの手紙を届けろ。行き先はここにある。夜明け前に動ける者も確保しておけ」
ローザは束を受け取り、即座に頷く。
「かしこまりました。伝令役を選び、馬も手配いたします」
「頼む」
カクタスは一歩だけ立ち止まり、念押しした。
「これは恐怖を広げるためじゃない。備えを整えるためだ。届く相手は、私が信頼する者たちだけでいい」
「承知しております」
ローザが去るのを見送り、カクタスは執務へ戻った。
一通り書類に目を通し終えると、カクタスは深く息を吐いた。
机の端で、新しく灯したはずの蝋燭が、もう底を見せかけている。
蝋は皿に広がり、炎は細く、芯にしがみつくように揺れていた。
――思った以上に、時間が経っていた。
机の端に残した未決裁の束を揃え、明朝の段取りを頭の中で一度だけなぞってから立ち上がる。
カクタスは椅子の背を静かに押し戻し、封蝋で留めた連絡文の写しを引き出しに収め、鍵を掛ける。火の気だけは残せない。蝋燭の炎を指先で覆い、息を落として消した。
闇が部屋に満ちる。
外から差し込む月明かりだけを頼りに扉へ向かい、取っ手を握る。
寝室へ戻る前に、身を清める必要があった。
洗面台の水はぬるく、昼の熱がまだ残っていた。
カクタスは袖をまくり、顔と首筋を丁寧に拭う。汗と埃を落とし、最後に手を洗う。剣よりも書類を握っていたはずなのに、手のひらには別種の疲れが残っていた。
薄い寝間着に着替え、灯りを落として静かに廊下を歩く。
寝室の扉をそっと開けると、エリザベスはまだ起きているようだった。
ベッドの上で、胸元にヴァイスを抱いている。
ヴァイスは母の鼓動に寄り添うように眠り、小さな体が僅かに上下していた。
エリザベスの指が、何度も何度も、愛おしそうにヴァイスの髪を撫でている。
その動きは規則正しく、まるで子どもの眠りを守る呪文のようだった。
ヴァイスの白い髪は、雪そのもののように淡く、灯りを受けるたび銀の霧をまとったように揺れる。
エリザベスの艶やかな黒髪は、夜の水面のように深く、わずかな光さえ吸い込みながら静かに輝いていた。
白と黒。相反するはずの二色が、母の腕の中で不思議と溶け合って見える。
カクタスの瞳には――この部屋だけが、物語の挿絵の中に切り取られたように映った。
カクタスはしばらく、声を出さずに見つめた。
悪い知らせで張り詰めていた緊張が、静かにほどけていく。
エリザベスが気配に気づき、目だけで笑う。
「おかえりなさい」
「……ただいま。起こしてしまったか」
「ううん。ずっとこのまま。あなたを待っていたの」
その言葉が、胸の奥に温かく落ちる。
カクタスはベッドの縁に手をつき、眠るヴァイスの額にそっと口づけた。昼間の熱はもう引いていて、肌は心地よい温もりだけを残している。
「よく寝てるな」
「いっぱい走ったもの。……あなたも、疲れたでしょう」
「ああ。でも、君を見たら……不思議と軽くなったよ。」
エリザベスは小さく頷き、ヴァイスの背を軽くさすった。
ヴァイスは起きることもなく、母の胸に頬を寄せたまま眠り続ける。
カクタスはベッドの縁に手をつき、エリザベスの顔にそっと近づいた。
起こさないように、呼吸まで落として――唇を重ねる。
短く、静かなキスだった。
そこには「ただいま」と「ありがとう」が込められていた。
エリザベスは目を伏せたまま、微笑むように息を吐く。
そしてもう一度、ヴァイスの髪を撫でながら、カクタスの指先を軽く握り返した。
やがて蝋燭の炎は細くなり、芯が小さく鳴って、光が一段落ちる。
窓の外の気配も、遠い物音も、ひとつずつ沈んでいった。
やがて炎は、最後に一度だけ大きく揺れた。
芯の先が赤く強く光り、部屋が一瞬だけ明るくなる。
だが、それも長くは続かない。
炎はみるみる小さくなり、静かに消えた。
残ったのは、燻った芯の匂いと、闇の重みだけだった。
部屋は一息で暗さに満ち、輪郭を失った寝台の上に、三人の温もりだけが浮かんでいる。
暗闇の中で、カクタスは目を閉じた。
女性が子を、夫を支えていると思っています。
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