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努力する天才剣士の成長録――氷剣で己が道を切り拓く  作者: 文ノ陽


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10/10

お寝坊ヴァイス

 ヴァイスが目を開けたのは、朝の六時ごろだった。


 まぶたを持ち上げた途端、白い光がじんわりと滲む。長い間閉じられていた瞳はなかなかいうことを聞かない。


 見えているのに見えていない。光は輪郭を持たず、天井も窓枠も、薄い絵の具で塗ったみたいに滲んでいる。目を開けているはずなのに、焦点が合わず、視界がふわふわと漂った。


 何度も瞬きをし、目を細め、ゆっくり開き直す。ようやく、焦点が合い始めた。


 体を起こそうとした。けれど首が重い。胸の奥に、冷たい石を抱えているみたいで体に力が入らない。


 それに喉がからからだ。息を吸うだけで胸が少し冷たい。


 今までに経験したことのない状態に、不安で胸が押しつぶされそうだ。


「お母さん。」


 掠れる声でつぶやいた。


 その声に、ベッドの脇で椅子に座ったまま眠っていたエリザベスが、びくりと肩を跳ねさせた。夢の底から引き上げられるみたいに、息を呑み、まぶたを大きく開く。


 最初の一拍は、まだ状況が掴めていない顔だった。寝不足で乾いた瞳が、焦点の定まらないまま宙をさまよう。


 次の瞬間、彼女の視線がヴァイスを捉える。


 息が止まった。


 信じたいのに、信じていいのか怖い。そんな気持ちが表情にそのまま出た。

 口元がわずかに震え、眉が寄る。

 泣き出しそうなのに、笑いそうでもある。


 喜びが先に込み上げて、けれどそれが夢だったら、と恐ろしくなる。


 それでも、抑えきれなかった。

 喉の奥で言葉が詰まり、声にならない。


 疲れ切った顔のまま、彼女は手を伸ばす。現実か確かめるように、頬に指先を触れ、額に触れ、髪を撫でて――何度も確かめた。


 そのたびに、息が小さく震えた。


 温かい。そこにいる。ちゃんといる。


 確信が積み重なるほど、逆に、堰が切れたように目が潤む。


「……ヴァイス?」


 声が掠れている。呼びかけたというより、確かめるような音だった。


 ヴァイスは口を開けた。うまく声が出ない。かわりに、かすれた息が漏れただけだった。


 それだけで充分だったらしい。


 エリザベスが、ためらいもなく身を乗り出す。シーツが擦れ、椅子が小さく鳴って、次の瞬間には――温かい腕がヴァイスを包み込んだ。


「よかった……よかった……」


 頬に、髪に、額に、次々と触れる。抱きしめる力が強くて、ヴァイスの体がぎゅっと縮む。母の温もりに溶けてしまいそうだった。


 甘い匂いがする。いつもと同じ、安心する匂い。胸の中で、彼女の心臓が早く打っていた。


 思いのほか強く抱きしめられていて、胸が押され、息が少し詰まる。腕の中でもがくように肩を動かすと、エリザベスの抱擁が一瞬だけ強くなる。


 離したくない、という力だ。


「お母さん……」


 ようやく出た声は、自分でも驚くほど弱かった。


「ええ。お母さんよ。ここにいるわ」


 返事が、すぐ上から降ってくる。


 エリザベスはヴァイスの頬を両手で包み、涙の跡が残る目でじっと見つめた。


「三日間……ずっと……。あなた、ずっと眠ってて……」


 言葉が途切れ、喉が震えた。けれど、彼女は笑おうとした。


「起きてくれて、ありがとう。……生きててくれて、ありがとう」


 ヴァイスは、意味はよくわからないまま、胸がきゅっとした。


そしてまた強く抱きしめられる。


 抱きしめられたまま、背中をとん、とん、と優しく叩かれる。寝かしつけの時と同じリズム。強い抱擁なのに、撫でる手つきだけはやたらと丁寧だ。


 ふと、エリザベスは枕元に置いてあった桶へ視線をやった。夜の間に用意してあったのだろう。そこに畳まれたタオルが浸してある。


「顔、拭こうね。……」


 彼女はタオルを取り出し、きゅっと絞る。雫が指の間から落ちた。


 ふわり、と頬に触れる。


 タオルは柔らかく、少し冷たい。額を撫で、こめかみを拭い、目尻のあたりをそっと押さえる。鼻筋をなぞり、口の端を拭くと、ヴァイスは小さく身を縮めた。


「くすぐったい?」


 笑いながら囁き、エリザベスはさらに優しくした。拭き終えると、指で髪を整え、額に落ちた白い前髪をそっと払う。


「……よし」


 そのまま少し落ち着くと、エリザベスはヴァイスを抱え直し、枕を背にして座りやすい姿勢に整えた。そのまま全身でヴァイスを包み込む。


 部屋の扉の向こうで、控えめに足音がした。


 誰かが様子を見に来たのかもしれない。


 けれどエリザベスは気にもしない。彼女の視線は最初から最後まで、ヴァイスの顔だけを追っていた。


「お腹は……空いてる? 喉は痛くない?」


 質問が多い。けれど言い方は柔らかい。心配を押し込めた声だ。


 ヴァイスは少し考えてから、正直に言った。


「のど……からから」


「すぐに。すぐに持ってくるわね」


 エリザベスはヴァイスを一度ぎゅっと抱き直す。離れるのが惜しいと言わんばかりに、頬をこすりつけてから、ようやく手を放した。


 その時だった。


 扉が静かに開き、女中頭ローザが顔を覗かせた。動きは控えめなのに、手にしている盆の上には茶が用意されている。


「エリザベス様、失礼いたします。お目覚めの気配がいたしましたので」


 盆の上には、小さなカップが二つ。片方は湯気を立てる温かいお茶、もう片方は冷たいお茶だ。どちらが必要でも困らないように、という配慮だった。


 エリザベスは息を吐き、張り詰めていた肩を少し落とした。


「ローザ……ありがとう。本当に助かるわ」


「大変恐縮でございます。――他に何か必要なものはございますか?」


 ローザは視線をヴァイスへ移し、柔らかく尋ねた。


「ヴァイス様、何か欲しいものはございますか。」


 ヴァイスは、言葉にするのがまだ難しくて、エリザベスの袖を握ったまま小さく頷いた。


「のど……」


「そうよね。まず喉ね」


 エリザベスが温かい方のカップを手に取ろうとすると、ローザが一歩寄り、先に差し出した。


「こちらを少量ずつ。まだお身体が弱っておりますので」


 エリザベスは受け取り、ヴァイスの口元へ慎重に運ぶ。温かいお茶が唇を濡らすと、ヴァイスは小さく息をついた。喉が少しだけほどける。


 その様子を見て、ローザが続ける。


「お腹の方は……いかがでしょう。目覚めた直後ですので、消化の悪いものは避けたほうがよろしいかと」


 エリザベスはヴァイスの顔を覗き込み、優しく問うた。


「お腹、空いてる? 少しだけでも食べられそう?」


 ヴァイスはしばらく考えてから、小さく頷いた。まだ「空いた」と言い切るほど元気ではないけれど、体が何かを欲しがっているのがわかった。


「……うん。」


かすれた声だったが、確かにそう言った。


「そうね...それじゃあ、おかゆにしましょう。」


 ローザはすぐに頭を下げる。


「承知いたしました。すぐに小粥をご用意いたします。」


 ローザは音も立てずに下がっていく。


 扉が閉じた後も、エリザベス再びヴァイスを胸に抱いた。


 カップを置き、空いた手でヴァイスの背中を抱え直す。


「……もう大丈夫。ね? お母さんがいるから」


 ヴァイスは、その言葉の意味の半分も分からないまま、温かい腕の中で小さく頷き母を強く抱きしめ返した。



ほどなくして、扉が再び開く。


 先に入ってきたのはローザだった。用意された粥が湯気を立てている。匙もきちんと添えられ、温度を落とすために椀の縁には濡らした布まで当ててあった。


 そして、もう一人。


 カクタスが湯浴み用の桶とタオルを抱えて入ってきた。いつもの領主の落ち着きはどこかに置いてきたようで、足音が普段よりも荒い。

 桶を床に置いたが、気が急いていてどこか乱雑になった。水面が小さく揺れ、木の縁が床板に軽く当たって乾いた音を立てる。


「ヴァイス――!」


 カクタスはまっすぐにベッドへ駆け寄る。エリザベスの腕の中にいる小さな体を見つけた瞬間、安堵が一度に押し寄せたような顔になった。


 ヴァイスは父に顔だけを向けた。まだ弱々しいのに、目だけは活力が漲っている。


「お父さん、僕は大丈夫だよ」


 声はかすれている。けれど言い切った。


 カクタスは言葉を失い、喉仏が上下した。次の瞬間、手が伸びかけて、でも止まる。抱きしめたら壊れてしまいそうで、触れるのが怖い。


「……大丈夫なわけがあるか」


 ようやく出た声は、今にも泣き出しそうな声だった。


 その横で、ローザが静かにお粥を混ぜ温度を調整していた。


「エリザベス様。お粥でございます」


 ローザは盆をベッドサイドの台に置き、椀を皿ごとエリザベスへ渡した。湯気がふわりと立ち上り、薄い米の香りが部屋に広がる。


 エリザベスは受け取りながら、ヴァイスの肩をもう一度抱き寄せる。


「ありがとう、ローザ」


 そして、ヴァイスの目の前に匙を差し出した。

 ひと口分を丁寧にすくい、ふう、と短く息を吹きかける。


「ほら……あーん」


 ヴァイスは素直に口を開けた。


 ぱくり。

 温かい粥が舌に触れた瞬間、喉の奥がほどける。胃の底に、明かりが灯るような温かさが広がった。


「……おいしい」


 ヴァイスは視線をローザに向けて、少しだけ胸を張るように言う。


「ローザ、おいしいよ」


 ローザの目元が、ふっと緩んだ。彼女もヴァイスを心配していた。

 日に何度もこの部屋に立ち寄り顔を拭き、体を拭き。ようやくこの時を迎えたのだ。


「恐れ入ります。喜んでいただけて、私も嬉しゅうございます」


 エリザベスはもう一度匙を運ぶ。ヴァイスは次も、次もと口を開けた。目覚めたばかりの体とは思えないほど、粥はするすると入っていく。


 食べるたびに、頬がわずかに色づく。


 いつの間にか、椀の底が見えていた。


「……全部、食べた」


 満足げに言うと、ヴァイスのお腹が小さく鳴り、エリザベスは小さく笑った。


「えらいわ。ほんとうに、えらい」


 ローザが素早く盆を寄せ、空になった椀を受け取る。


 その間にカクタスは、すでに湯浴みの準備に入っていた。桶の湯の温度を手で確かめ、タオルを何枚か並べる。


「……冷える前に、体を拭こう」


 カクタスが言うと、エリザベスが頷いた。


 彼女はヴァイスを抱き上げる。三日ぶりに意識が戻った体は軽く、抱えた瞬間エリザベスの腕に一層力が入った。


 ベッドからそっと下ろされ、床に立たされる。けれど、足はまだ頼りない。ふらりと揺れたのを、すぐに両親の手が支えた。


 温かいタオルが首元に当てられた。次に胸、腕、背中。カクタスが背側を、エリザベスが前側を、息を合わせるように拭いていく。


 熱すぎない、ちょうどいい温度。

 冷えた体の奥までじんわりと温めていく。


 ヴァイスは目を細めた。


「……あったかい」


「あったかいか。よかった...。」


 カクタスの声が、やっと落ち着きを取り戻し始めていた。


 拭き終えると、乾いた布で軽く押さえられる。肌に残った水気が消え、温もりだけが残る。


 ローザが用意していた新しい服が体に通される。柔らかな布が腕を滑り、胸を覆い、体を包んだ。いつもよりも少しだけ上等な、肌触りの良いものだ。


 着替えが終わるとエリザベスはまたヴァイスを抱き抱えた。

 今度はさっきより穏やかに。


「いっぱい食べたから、お腹がびっくりしないように。もう少しベッドでゆっくりしましょう」


 そう言って、ヴァイスは抱き上げられ、再びベッドへ戻された。


 枕を整えられ、布団を掛けられ、エリザベスの腕がそのまま囲いになる。カクタスはベッドの脇の椅子に座り、ヴァイスの額に手を当てて、熱の加減を確かめた。


 お粥温かさと、湯浴みの温もりと、母の腕の安堵が重なって、瞼が自然に落ちていく。


 エリザベスが、耳元で囁く。


「……よく頑張ったね。もう少し休みなさい」


 ヴァイスは小さく頷き、母の胸に頬を寄せた。


 抱きしめられながら、また静かに、眠りに落ちた。

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