お寝坊ヴァイス
ヴァイスが目を開けたのは、朝の六時ごろだった。
まぶたを持ち上げた途端、白い光がじんわりと滲む。長い間閉じられていた瞳はなかなかいうことを聞かない。
見えているのに見えていない。光は輪郭を持たず、天井も窓枠も、薄い絵の具で塗ったみたいに滲んでいる。目を開けているはずなのに、焦点が合わず、視界がふわふわと漂った。
何度も瞬きをし、目を細め、ゆっくり開き直す。ようやく、焦点が合い始めた。
体を起こそうとした。けれど首が重い。胸の奥に、冷たい石を抱えているみたいで体に力が入らない。
それに喉がからからだ。息を吸うだけで胸が少し冷たい。
今までに経験したことのない状態に、不安で胸が押しつぶされそうだ。
「お母さん。」
掠れる声でつぶやいた。
その声に、ベッドの脇で椅子に座ったまま眠っていたエリザベスが、びくりと肩を跳ねさせた。夢の底から引き上げられるみたいに、息を呑み、まぶたを大きく開く。
最初の一拍は、まだ状況が掴めていない顔だった。寝不足で乾いた瞳が、焦点の定まらないまま宙をさまよう。
次の瞬間、彼女の視線がヴァイスを捉える。
息が止まった。
信じたいのに、信じていいのか怖い。そんな気持ちが表情にそのまま出た。
口元がわずかに震え、眉が寄る。
泣き出しそうなのに、笑いそうでもある。
喜びが先に込み上げて、けれどそれが夢だったら、と恐ろしくなる。
それでも、抑えきれなかった。
喉の奥で言葉が詰まり、声にならない。
疲れ切った顔のまま、彼女は手を伸ばす。現実か確かめるように、頬に指先を触れ、額に触れ、髪を撫でて――何度も確かめた。
そのたびに、息が小さく震えた。
温かい。そこにいる。ちゃんといる。
確信が積み重なるほど、逆に、堰が切れたように目が潤む。
「……ヴァイス?」
声が掠れている。呼びかけたというより、確かめるような音だった。
ヴァイスは口を開けた。うまく声が出ない。かわりに、かすれた息が漏れただけだった。
それだけで充分だったらしい。
エリザベスが、ためらいもなく身を乗り出す。シーツが擦れ、椅子が小さく鳴って、次の瞬間には――温かい腕がヴァイスを包み込んだ。
「よかった……よかった……」
頬に、髪に、額に、次々と触れる。抱きしめる力が強くて、ヴァイスの体がぎゅっと縮む。母の温もりに溶けてしまいそうだった。
甘い匂いがする。いつもと同じ、安心する匂い。胸の中で、彼女の心臓が早く打っていた。
思いのほか強く抱きしめられていて、胸が押され、息が少し詰まる。腕の中でもがくように肩を動かすと、エリザベスの抱擁が一瞬だけ強くなる。
離したくない、という力だ。
「お母さん……」
ようやく出た声は、自分でも驚くほど弱かった。
「ええ。お母さんよ。ここにいるわ」
返事が、すぐ上から降ってくる。
エリザベスはヴァイスの頬を両手で包み、涙の跡が残る目でじっと見つめた。
「三日間……ずっと……。あなた、ずっと眠ってて……」
言葉が途切れ、喉が震えた。けれど、彼女は笑おうとした。
「起きてくれて、ありがとう。……生きててくれて、ありがとう」
ヴァイスは、意味はよくわからないまま、胸がきゅっとした。
そしてまた強く抱きしめられる。
抱きしめられたまま、背中をとん、とん、と優しく叩かれる。寝かしつけの時と同じリズム。強い抱擁なのに、撫でる手つきだけはやたらと丁寧だ。
ふと、エリザベスは枕元に置いてあった桶へ視線をやった。夜の間に用意してあったのだろう。そこに畳まれたタオルが浸してある。
「顔、拭こうね。……」
彼女はタオルを取り出し、きゅっと絞る。雫が指の間から落ちた。
ふわり、と頬に触れる。
タオルは柔らかく、少し冷たい。額を撫で、こめかみを拭い、目尻のあたりをそっと押さえる。鼻筋をなぞり、口の端を拭くと、ヴァイスは小さく身を縮めた。
「くすぐったい?」
笑いながら囁き、エリザベスはさらに優しくした。拭き終えると、指で髪を整え、額に落ちた白い前髪をそっと払う。
「……よし」
そのまま少し落ち着くと、エリザベスはヴァイスを抱え直し、枕を背にして座りやすい姿勢に整えた。そのまま全身でヴァイスを包み込む。
部屋の扉の向こうで、控えめに足音がした。
誰かが様子を見に来たのかもしれない。
けれどエリザベスは気にもしない。彼女の視線は最初から最後まで、ヴァイスの顔だけを追っていた。
「お腹は……空いてる? 喉は痛くない?」
質問が多い。けれど言い方は柔らかい。心配を押し込めた声だ。
ヴァイスは少し考えてから、正直に言った。
「のど……からから」
「すぐに。すぐに持ってくるわね」
エリザベスはヴァイスを一度ぎゅっと抱き直す。離れるのが惜しいと言わんばかりに、頬をこすりつけてから、ようやく手を放した。
その時だった。
扉が静かに開き、女中頭ローザが顔を覗かせた。動きは控えめなのに、手にしている盆の上には茶が用意されている。
「エリザベス様、失礼いたします。お目覚めの気配がいたしましたので」
盆の上には、小さなカップが二つ。片方は湯気を立てる温かいお茶、もう片方は冷たいお茶だ。どちらが必要でも困らないように、という配慮だった。
エリザベスは息を吐き、張り詰めていた肩を少し落とした。
「ローザ……ありがとう。本当に助かるわ」
「大変恐縮でございます。――他に何か必要なものはございますか?」
ローザは視線をヴァイスへ移し、柔らかく尋ねた。
「ヴァイス様、何か欲しいものはございますか。」
ヴァイスは、言葉にするのがまだ難しくて、エリザベスの袖を握ったまま小さく頷いた。
「のど……」
「そうよね。まず喉ね」
エリザベスが温かい方のカップを手に取ろうとすると、ローザが一歩寄り、先に差し出した。
「こちらを少量ずつ。まだお身体が弱っておりますので」
エリザベスは受け取り、ヴァイスの口元へ慎重に運ぶ。温かいお茶が唇を濡らすと、ヴァイスは小さく息をついた。喉が少しだけほどける。
その様子を見て、ローザが続ける。
「お腹の方は……いかがでしょう。目覚めた直後ですので、消化の悪いものは避けたほうがよろしいかと」
エリザベスはヴァイスの顔を覗き込み、優しく問うた。
「お腹、空いてる? 少しだけでも食べられそう?」
ヴァイスはしばらく考えてから、小さく頷いた。まだ「空いた」と言い切るほど元気ではないけれど、体が何かを欲しがっているのがわかった。
「……うん。」
かすれた声だったが、確かにそう言った。
「そうね...それじゃあ、おかゆにしましょう。」
ローザはすぐに頭を下げる。
「承知いたしました。すぐに小粥をご用意いたします。」
ローザは音も立てずに下がっていく。
扉が閉じた後も、エリザベス再びヴァイスを胸に抱いた。
カップを置き、空いた手でヴァイスの背中を抱え直す。
「……もう大丈夫。ね? お母さんがいるから」
ヴァイスは、その言葉の意味の半分も分からないまま、温かい腕の中で小さく頷き母を強く抱きしめ返した。
ほどなくして、扉が再び開く。
先に入ってきたのはローザだった。用意された粥が湯気を立てている。匙もきちんと添えられ、温度を落とすために椀の縁には濡らした布まで当ててあった。
そして、もう一人。
カクタスが湯浴み用の桶とタオルを抱えて入ってきた。いつもの領主の落ち着きはどこかに置いてきたようで、足音が普段よりも荒い。
桶を床に置いたが、気が急いていてどこか乱雑になった。水面が小さく揺れ、木の縁が床板に軽く当たって乾いた音を立てる。
「ヴァイス――!」
カクタスはまっすぐにベッドへ駆け寄る。エリザベスの腕の中にいる小さな体を見つけた瞬間、安堵が一度に押し寄せたような顔になった。
ヴァイスは父に顔だけを向けた。まだ弱々しいのに、目だけは活力が漲っている。
「お父さん、僕は大丈夫だよ」
声はかすれている。けれど言い切った。
カクタスは言葉を失い、喉仏が上下した。次の瞬間、手が伸びかけて、でも止まる。抱きしめたら壊れてしまいそうで、触れるのが怖い。
「……大丈夫なわけがあるか」
ようやく出た声は、今にも泣き出しそうな声だった。
その横で、ローザが静かにお粥を混ぜ温度を調整していた。
「エリザベス様。お粥でございます」
ローザは盆をベッドサイドの台に置き、椀を皿ごとエリザベスへ渡した。湯気がふわりと立ち上り、薄い米の香りが部屋に広がる。
エリザベスは受け取りながら、ヴァイスの肩をもう一度抱き寄せる。
「ありがとう、ローザ」
そして、ヴァイスの目の前に匙を差し出した。
ひと口分を丁寧にすくい、ふう、と短く息を吹きかける。
「ほら……あーん」
ヴァイスは素直に口を開けた。
ぱくり。
温かい粥が舌に触れた瞬間、喉の奥がほどける。胃の底に、明かりが灯るような温かさが広がった。
「……おいしい」
ヴァイスは視線をローザに向けて、少しだけ胸を張るように言う。
「ローザ、おいしいよ」
ローザの目元が、ふっと緩んだ。彼女もヴァイスを心配していた。
日に何度もこの部屋に立ち寄り顔を拭き、体を拭き。ようやくこの時を迎えたのだ。
「恐れ入ります。喜んでいただけて、私も嬉しゅうございます」
エリザベスはもう一度匙を運ぶ。ヴァイスは次も、次もと口を開けた。目覚めたばかりの体とは思えないほど、粥はするすると入っていく。
食べるたびに、頬がわずかに色づく。
いつの間にか、椀の底が見えていた。
「……全部、食べた」
満足げに言うと、ヴァイスのお腹が小さく鳴り、エリザベスは小さく笑った。
「えらいわ。ほんとうに、えらい」
ローザが素早く盆を寄せ、空になった椀を受け取る。
その間にカクタスは、すでに湯浴みの準備に入っていた。桶の湯の温度を手で確かめ、タオルを何枚か並べる。
「……冷える前に、体を拭こう」
カクタスが言うと、エリザベスが頷いた。
彼女はヴァイスを抱き上げる。三日ぶりに意識が戻った体は軽く、抱えた瞬間エリザベスの腕に一層力が入った。
ベッドからそっと下ろされ、床に立たされる。けれど、足はまだ頼りない。ふらりと揺れたのを、すぐに両親の手が支えた。
温かいタオルが首元に当てられた。次に胸、腕、背中。カクタスが背側を、エリザベスが前側を、息を合わせるように拭いていく。
熱すぎない、ちょうどいい温度。
冷えた体の奥までじんわりと温めていく。
ヴァイスは目を細めた。
「……あったかい」
「あったかいか。よかった...。」
カクタスの声が、やっと落ち着きを取り戻し始めていた。
拭き終えると、乾いた布で軽く押さえられる。肌に残った水気が消え、温もりだけが残る。
ローザが用意していた新しい服が体に通される。柔らかな布が腕を滑り、胸を覆い、体を包んだ。いつもよりも少しだけ上等な、肌触りの良いものだ。
着替えが終わるとエリザベスはまたヴァイスを抱き抱えた。
今度はさっきより穏やかに。
「いっぱい食べたから、お腹がびっくりしないように。もう少しベッドでゆっくりしましょう」
そう言って、ヴァイスは抱き上げられ、再びベッドへ戻された。
枕を整えられ、布団を掛けられ、エリザベスの腕がそのまま囲いになる。カクタスはベッドの脇の椅子に座り、ヴァイスの額に手を当てて、熱の加減を確かめた。
お粥温かさと、湯浴みの温もりと、母の腕の安堵が重なって、瞼が自然に落ちていく。
エリザベスが、耳元で囁く。
「……よく頑張ったね。もう少し休みなさい」
ヴァイスは小さく頷き、母の胸に頬を寄せた。
抱きしめられながら、また静かに、眠りに落ちた。




