誕生前夜
グレイシャー領は、冬の只中にあった。
昨日の朝から降り始めた雪は、時間を追うごとに量を増し、今朝にはすでに道の起伏を覆い隠すほどに積もっている。
さらに今日は、風が強い。雪は横殴りに叩きつけられ、視界は白く削られる。近年でも稀な大雪になりそうだ――そんな予感が、誰の胸にもあった。
この地を治めるのが、カクタス・グレイシャーだ。
もとは王都で剣士として腕を磨いていたが、父の死をきっかけに領地を継いだ。
屋敷では、妻のエリザベスが身重の身で横になっている。
腹の子は、もう今日か明日には生まれるだろう。
ふと、エリザベスが下腹に手を当てる。
布越しに、わずかな動きが伝わった。赤子が、内側から小さく蹴ったのだ。
その感触に、彼女は短く息を整え何事もないように微笑み直す。
本来なら、カクタスはこの子が産まれる瞬間に立ち会うつもりだった。
生まれてくる子の、最初の泣き声を聞く。それが、夫としての当然の務めだと思っていた。
だが――先日北区で起きた火災が、すべてを狂わせていた。
家を失った者たちが、仮設の小屋でこの冬を迎えている。
この吹雪で、あの簡素な住まいが耐えきれるとは思えなかった。屋根が潰れれば、怪我では済まない。凍えれば、命が失われる。
外では、風に乗った雪が水平方向から吹き荒れていた。
「北の通りが不安だ。」
カクタスは、短くそう言った。
「先日の火災で、家を失った者が多い。今は仮設の小屋で冬を越している」
吹雪の音が、言葉の合間を縫うように壁を叩く。
「屋根は簡易なものだ。この雪では、補強しなければ持たない。食料も薪も、十分とは言えない。」
そう言いながら、彼の表情は次第に険しくなる。
頭の中では、すでに現場の光景が浮かんでいた。軋む梁。めくれる板。風に泣く子ども。
「俺と騎士たちが行けば、小屋は補強できる。食料も分けられる。暖を取る手立ても整えられる」
今できることを、淡々と並べただけだった。
「今なら、大事にはならないはずだ」
その言葉に、エリザベスは小さく息を吸った。夫の言わんとすることを即座に理解したのだ。
北の通り。吹雪の中で、崩れる可能性のある場所。
彼女は夫を見つめる。カクタスは外套を手にしたまま、寝台のそばで立ち尽くしている。
出て行かなければならない。
だが、ここを離れることを、彼自身が一番許せていなかった。今日出ていけば出産に間に合わないかもしれない。
「……大丈夫よ」
エリザベスの声は静かだった。責める響きはない。
カクタスは頷き、一拍置いて言葉を続ける。
「すまない。こんな時に、君を一人にして」
夫としての謝罪だった。
エリザベスはゆっくりと息を整え、彼を見上げる。
腹に手を添えたまま、はっきりと言う。
「私は大丈夫よ、あなた。」
真に迷いのない声だった。
「初めての出産だけれど、怖くないわ。ここには頼りになる人がたくさんいるでしょ」
そして、言葉を区切るように続ける。
「あなたは、あなたのやるべきことをやって」
突き放す言葉ではない。信じているからこその言葉だった。
「あなたが迷っているようじゃ、皆不安になってしまうわ。あなたが行けば、皆が動ける」
彼女は、わずかに微笑む。
カクタスは唇を結び、深く息を吐いた。
「……必ず戻る」
「ええ。……待っているわ。」
二人は短く抱擁し、口付けを交わした。
それからカクタスは外套を羽織り、扉へ向かう。
振り返ることはしなかった。もう、その必要はない。
「皆……行ってくる。エリザベスを頼む」
そう言って、彼は吹雪の中へ踏み出した。
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カクタスと騎士たちは必要な物資を持ち、吹雪を押して北の通りへたどり着いた。
雪は横殴りに叩きつけ、視界は短い。顔を上げれば息が凍り、睫毛に氷が溜まる。
吹雪の隙間から、仮設住居区が見えてきた。
通りに並ぶ小屋のいくつかは、すでに外壁を失っている。板は剥がれ、布は裂け、骨組みだけが風に晒されていた。屋根は雪の重みで歪み、今にも沈みそうなものもある。
――来てよかった。
そう思う一方で、胸の奥に苦いものが残る。
(……もっと早く、動けたはずだ)
領主として、まだできることがあったはずだ。
だが、後悔は一瞬で切り捨てる。
今は、目の前の命を守る。
「安否の確認を優先だ!」
カクタスは迷いなく指示を出す。
「手が空いているものは風上から穴を塞げ。板と布を二重に張る。隙間は縄で締めろ。雪が乗る前に梁を通せ!」
その声は、猛吹雪の中でも確かに響いた。
迫力のある形相に、騎士たちの背が自然と伸びる。
「おう!」
返事が揃った。
騎士たちは即座に散った。
数人は資材の置き場へ走り、板材と縄、杭、木槌を抱えて戻る。
別の者は屋根の状態を見上げ、雪を落とす役を決めて合図を交わす。
さらに別の者は、通路の雪を掻き分けて動線を作る。人が運べる幅を確保しなければ、補強も配給も滞る。
「屋根雪を先に落とせ! 屋根は崩すなよ!」
雪が屋根から滑り落ち、どさりと音を立てる。
すぐさま他のものが落ちた雪をずらしてゆく。
身体中に雪を浴びながらも、誰も手を止めない。
外壁の補強が始まる。
剥がれた板の上から新しい板を当て、縄で縛り、杭で固定する。
裂けた布は折り返して縫い留めるように縄で締め、風が入る隙間を潰す。
柱が不安定な小屋には斜めに支えを入れ、梁を渡して“骨”を増やした。
小屋の中から、怯えた視線が向けられる。
子どもを抱えた者。毛布に身を包んだ老人。
不安は、寒さ以上に広がっていた。
カクタスはその様子を一瞥し、続けて命じる。
「温かい部屋を整えろ。床に敷物を増やせ。風が回らないよう、入口に幕を付けろ!」
騎士たちが小屋に入り、隙間を塞ぎ始める。
雪を払った床に敷物を広げ、毛布を壁沿いに掛け、冷気の通り道を潰す。
火鉢を持ち込める小屋には火を移し、煙が溜まらないよう換気の穴を確保する。
「老人を先に。歩けない者は二人で運べ」
凍えがひどい老人が二人、騎士に肩を支えられて移動する。
手が震えて紐が結べない者には、騎士が代わって結び目を作った。
カクタスは住民に向かって声をかけた。
「皆、ここでしばらく待ってくれ。必ず持ちこたえさせる」
力強く、そして優しい声だった。
人々の表情から、わずかに緊張が抜ける。
それは、彼がこれまで積み重ねてきたものが、確かに伝わっている証だった。
「……カクタス様」
そう呼びかけてから、男は一度だけ言葉を切る。
「お久しぶりです。商人のイギルです。今は、この北の仮設住居区を取りまとめています」
カクタスは一瞬だけ顔を見る。
イギル。
父の代からこの領に店を構える商人。幼い頃から、衣服も武器も、何度も世話になった男だ。
「災難だったな。……店を失ったな。雪が解けたら、訪ねてくるといい。きっと力になれる」
「……心より感謝いたします」
「悪いが、続きは後だ。火が落ちる前に何とかする」
静かに制し、問いを投げる。
「住居区の状況は。怪我人は?」
「大きな怪我は……今のところ。ただ、老人が二人、凍えがひどく……」
「今、手当てしている。ほかに、酷いも者はいるか。」
「子どもが一人、咳が続いています。あと、母親が……眠れていないと」
「わかった。薬草を回せ。温かい湯を作れる所を一つ決めろ。看れる者を付ける」
カクタスは即座に指示を追加し、騎士を一人呼び止めた。
「ここを湯場にする。鍋を出せ。湯を絶やすな。交代制で見張れ」
「はっ!」
イギルが続ける。
「毛布は足りています。ですが、食料が……。この吹雪が続けば、明後日には」
カクタスは通りを見渡す。
補強中の小屋。身を寄せ合う人々。雪に埋もれかけた通路。
吹雪はまだ強い。だが、やれることは多い。
「二、三日分は用意がある。今夜中に分配を始める。配給は一箇所に集めるな。列が長くなる。何箇所かに分けて回れ」
指を折るように、要点を言う。
「薪は湿る前に屋根のある所へ。火は絶やすな。ただし無理に増やすな、火災は二度起こさない」
そして、最後に決める。
「それ以上吹雪が続くなら、街からの搬送路を確保する。今夜は騎士を一隊、ここに残す。見回りと雪下ろし、病人の様子見――全部やる」
イギルは目を見開き、深く頭を下げた。
「格別のご配慮、謹んで御礼申し上げます。……今夜を越えられるか、それだけが不安でした」
「遅くなったな。だが、この町で暮らす限り、民の命の責任は俺にある。必ず乗り越える。」
イギルは何かを言いかけ、飲み込み、震える声で告げる。
「北の通りは、もう心配ないと、皆に伝えます」
「それでいい」
短く頷く。
風はまだ唸り、雪は止まない。
だが、板は固定され、布は張られ、火は回り始めた。
吹雪のただ中で、北の通りは――確かに持ちこたえられるだろう。




