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努力する天才剣士の成長録――氷剣で己が道を切り拓く  作者: 文ノ陽


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1/10

誕生前夜

 グレイシャー領は、冬の只中にあった。


 昨日の朝から降り始めた雪は、時間を追うごとに量を増し、今朝にはすでに道の起伏を覆い隠すほどに積もっている。

 さらに今日は、風が強い。雪は横殴りに叩きつけられ、視界は白く削られる。近年でも稀な大雪になりそうだ――そんな予感が、誰の胸にもあった。


 この地を治めるのが、カクタス・グレイシャーだ。

 もとは王都で剣士として腕を磨いていたが、父の死をきっかけに領地を継いだ。


 屋敷では、妻のエリザベスが身重の身で横になっている。

 腹の子は、もう今日か明日には生まれるだろう。


 ふと、エリザベスが下腹に手を当てる。

 布越しに、わずかな動きが伝わった。赤子が、内側から小さく蹴ったのだ。

 その感触に、彼女は短く息を整え何事もないように微笑み直す。


 本来なら、カクタスはこの子が産まれる瞬間に立ち会うつもりだった。

 生まれてくる子の、最初の泣き声を聞く。それが、夫としての当然の務めだと思っていた。


 だが――先日北区で起きた火災が、すべてを狂わせていた。


 家を失った者たちが、仮設の小屋でこの冬を迎えている。

 この吹雪で、あの簡素な住まいが耐えきれるとは思えなかった。屋根が潰れれば、怪我では済まない。凍えれば、命が失われる。


 外では、風に乗った雪が水平方向から吹き荒れていた。


「北の通りが不安だ。」


 カクタスは、短くそう言った。


「先日の火災で、家を失った者が多い。今は仮設の小屋で冬を越している」


 吹雪の音が、言葉の合間を縫うように壁を叩く。


「屋根は簡易なものだ。この雪では、補強しなければ持たない。食料も薪も、十分とは言えない。」


 そう言いながら、彼の表情は次第に険しくなる。

 頭の中では、すでに現場の光景が浮かんでいた。軋む梁。めくれる板。風に泣く子ども。


「俺と騎士たちが行けば、小屋は補強できる。食料も分けられる。暖を取る手立ても整えられる」


 今できることを、淡々と並べただけだった。


「今なら、大事にはならないはずだ」


 その言葉に、エリザベスは小さく息を吸った。夫の言わんとすることを即座に理解したのだ。

 北の通り。吹雪の中で、崩れる可能性のある場所。

 彼女は夫を見つめる。カクタスは外套を手にしたまま、寝台のそばで立ち尽くしている。


 出て行かなければならない。


 だが、ここを離れることを、彼自身が一番許せていなかった。今日出ていけば出産に間に合わないかもしれない。


「……大丈夫よ」


 エリザベスの声は静かだった。責める響きはない。


 カクタスは頷き、一拍置いて言葉を続ける。


「すまない。こんな時に、君を一人にして」


 夫としての謝罪だった。


 エリザベスはゆっくりと息を整え、彼を見上げる。

 腹に手を添えたまま、はっきりと言う。


「私は大丈夫よ、あなた。」


 真に迷いのない声だった。


「初めての出産だけれど、怖くないわ。ここには頼りになる人がたくさんいるでしょ」


 そして、言葉を区切るように続ける。


「あなたは、あなたのやるべきことをやって」


 突き放す言葉ではない。信じているからこその言葉だった。


「あなたが迷っているようじゃ、皆不安になってしまうわ。あなたが行けば、皆が動ける」


 彼女は、わずかに微笑む。


 カクタスは唇を結び、深く息を吐いた。


「……必ず戻る」


「ええ。……待っているわ。」


 二人は短く抱擁し、口付けを交わした。


 それからカクタスは外套を羽織り、扉へ向かう。

 振り返ることはしなかった。もう、その必要はない。


「皆……行ってくる。エリザベスを頼む」


 そう言って、彼は吹雪の中へ踏み出した。


________________


 カクタスと騎士たちは必要な物資を持ち、吹雪を押して北の通りへたどり着いた。

 雪は横殴りに叩きつけ、視界は短い。顔を上げれば息が凍り、睫毛に氷が溜まる。


 吹雪の隙間から、仮設住居区が見えてきた。

 通りに並ぶ小屋のいくつかは、すでに外壁を失っている。板は剥がれ、布は裂け、骨組みだけが風に晒されていた。屋根は雪の重みで歪み、今にも沈みそうなものもある。


 ――来てよかった。


 そう思う一方で、胸の奥に苦いものが残る。

(……もっと早く、動けたはずだ)

 領主として、まだできることがあったはずだ。


 だが、後悔は一瞬で切り捨てる。

 今は、目の前の命を守る。


「安否の確認を優先だ!」


 カクタスは迷いなく指示を出す。


「手が空いているものは風上から穴を塞げ。板と布を二重に張る。隙間は縄で締めろ。雪が乗る前に梁を通せ!」


 その声は、猛吹雪の中でも確かに響いた。

 迫力のある形相に、騎士たちの背が自然と伸びる。


「おう!」


 返事が揃った。


 騎士たちは即座に散った。


 数人は資材の置き場へ走り、板材と縄、杭、木槌を抱えて戻る。

 別の者は屋根の状態を見上げ、雪を落とす役を決めて合図を交わす。

 さらに別の者は、通路の雪を掻き分けて動線を作る。人が運べる幅を確保しなければ、補強も配給も滞る。


「屋根雪を先に落とせ! 屋根は崩すなよ!」


 雪が屋根から滑り落ち、どさりと音を立てる。

すぐさま他のものが落ちた雪をずらしてゆく。


 身体中に雪を浴びながらも、誰も手を止めない。


 外壁の補強が始まる。

 剥がれた板の上から新しい板を当て、縄で縛り、杭で固定する。

 裂けた布は折り返して縫い留めるように縄で締め、風が入る隙間を潰す。

 柱が不安定な小屋には斜めに支えを入れ、梁を渡して“骨”を増やした。


 小屋の中から、怯えた視線が向けられる。

 子どもを抱えた者。毛布に身を包んだ老人。

 不安は、寒さ以上に広がっていた。


 カクタスはその様子を一瞥し、続けて命じる。


「温かい部屋を整えろ。床に敷物を増やせ。風が回らないよう、入口に幕を付けろ!」


 騎士たちが小屋に入り、隙間を塞ぎ始める。

 雪を払った床に敷物を広げ、毛布を壁沿いに掛け、冷気の通り道を潰す。

 火鉢を持ち込める小屋には火を移し、煙が溜まらないよう換気の穴を確保する。

 

「老人を先に。歩けない者は二人で運べ」


 凍えがひどい老人が二人、騎士に肩を支えられて移動する。

 手が震えて紐が結べない者には、騎士が代わって結び目を作った。


 カクタスは住民に向かって声をかけた。


「皆、ここでしばらく待ってくれ。必ず持ちこたえさせる」


 力強く、そして優しい声だった。

 人々の表情から、わずかに緊張が抜ける。

 それは、彼がこれまで積み重ねてきたものが、確かに伝わっている証だった。


「……カクタス様」


 そう呼びかけてから、男は一度だけ言葉を切る。


「お久しぶりです。商人のイギルです。今は、この北の仮設住居区を取りまとめています」


 カクタスは一瞬だけ顔を見る。


 イギル。

 父の代からこの領に店を構える商人。幼い頃から、衣服も武器も、何度も世話になった男だ。


「災難だったな。……店を失ったな。雪が解けたら、訪ねてくるといい。きっと力になれる」


「……心より感謝いたします」


「悪いが、続きは後だ。火が落ちる前に何とかする」


 静かに制し、問いを投げる。


「住居区の状況は。怪我人は?」


「大きな怪我は……今のところ。ただ、老人が二人、凍えがひどく……」


「今、手当てしている。ほかに、酷いも者はいるか。」


「子どもが一人、咳が続いています。あと、母親が……眠れていないと」


「わかった。薬草を回せ。温かい湯を作れる所を一つ決めろ。看れる者を付ける」


 カクタスは即座に指示を追加し、騎士を一人呼び止めた。


「ここを湯場にする。鍋を出せ。湯を絶やすな。交代制で見張れ」


「はっ!」


 イギルが続ける。


「毛布は足りています。ですが、食料が……。この吹雪が続けば、明後日には」


 カクタスは通りを見渡す。

 補強中の小屋。身を寄せ合う人々。雪に埋もれかけた通路。

 吹雪はまだ強い。だが、やれることは多い。


「二、三日分は用意がある。今夜中に分配を始める。配給は一箇所に集めるな。列が長くなる。何箇所かに分けて回れ」


 指を折るように、要点を言う。


「薪は湿る前に屋根のある所へ。火は絶やすな。ただし無理に増やすな、火災は二度起こさない」


 そして、最後に決める。


「それ以上吹雪が続くなら、街からの搬送路を確保する。今夜は騎士を一隊、ここに残す。見回りと雪下ろし、病人の様子見――全部やる」


 イギルは目を見開き、深く頭を下げた。


「格別のご配慮、謹んで御礼申し上げます。……今夜を越えられるか、それだけが不安でした」


「遅くなったな。だが、この町で暮らす限り、民の命の責任は俺にある。必ず乗り越える。」


 イギルは何かを言いかけ、飲み込み、震える声で告げる。


「北の通りは、もう心配ないと、皆に伝えます」


「それでいい」


 短く頷く。


 風はまだ唸り、雪は止まない。

 だが、板は固定され、布は張られ、火は回り始めた。


 吹雪のただ中で、北の通りは――確かに持ちこたえられるだろう。

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