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第8章 失われた夜と、書けない言葉

声が戻ってから、一週間が経った。

真白の声は、まだかすれていた。

それでも、音として存在していた。

最初に夕の名前を呼んだ日——

その音は確かに、胸の奥に残っている。

けれど、その日を境に、

二人の間には“沈黙”の居場所が少しずつ狭くなっていった。


図書館の二階。

夕はノートパソコンを閉じ、

横に置かれた真白の白いノートを見た。

ページは開いたまま。

でも、何も書かれていなかった。

ペンが横に転がっている。

その“書かない”という選択が、

彼女の新しい沈黙になっていた。


「喉、どう?」

夕が尋ねると、真白は一度うなずき、

喉に手を当てて、ゆっくり息を吸い込んだ。


「……だいじょうぶ」


その声は、小さく、柔らかく、

風に触れる前の蝉の羽のように頼りなかった。

それでも、音になった。


夕は笑った。

「良かった」


そう言いながら、どこか胸の奥がざわめいた。

嬉しいはずなのに、

“何かを失った”ような気がした。


真白は、そんな夕の表情を静かに見ていた。

何も言わない。

でも、まなざしが問いかけている。


——“わたしの声、嬉しいですか?”


その無言の質問が、

喉よりも深いところに届いた。


夜、真白の部屋。

机の上に置かれたノートを、彼女は開いた。

書こうとして、手を止める。

ペン先が紙に触れるたび、胸の奥が少し痛む。

昔のように、

“書くことでしか話せなかった時間”を思い出す。


今は、声が出る。

でも、声にすればするほど、

紙に書く理由がなくなっていく。


——“声で伝えることは、便利で、少し残酷だ。”


真白はそう思った。

音にしてしまうと、

その言葉は一瞬で過去になる。

文字のように残らない。

消える速さが、怖かった。


彼女はノートに、一行だけ書いた。


『声を出すたびに、あなたが少し遠くなる気がします。』


書いた瞬間、ペンが指の中で震えた。

その震えが、あの日の事故の記憶を呼び戻す。

“叫ぶ”という行為の代償が、

今でも指に染みついている。


真白は、喉に手を当てて息を吐いた。

息が震えた。

声にはならない。

それでも、その震えに“会いたい”という音が混ざっていた。


そのころ、夕は自室で、

机の上のスマホを見つめていた。

真白からのメッセージが届いていた。

「今日は、声を休ませます」

それだけの短い文。


夕は画面を見ながら、

小さく笑って、息を吸った。


——休ませる。

それは、声のことだけじゃない。

“わたしたち”のことでもある。


窓の外、夜風がカーテンを揺らす。

その音が、どこか懐かしかった。

初めて出会ったあの日、

真白のノートが風でめくれた音と、同じリズムだった。


あの頃は、

言葉がなくても分かり合えた。

今は、言葉があるのに、

伝えることが難しくなっている。


「……おかしいな」

夕は自嘲気味に呟いた。

声に出すと、部屋の空気がわずかに震えた。

それだけで、寂しさが増した。


彼は、机の引き出しから一冊のノートを取り出した。

真白からもらった白いノート。

そこには、まだ何ページも空白が残っていた。

ページをめくるたび、

指先に微かな紙のざらつきが伝わる。

その感触が、彼にとっての“彼女の声”だった。


——“沈黙で話す”という時間は、

終わりではなく、形を変えただけなのかもしれない。


夕はそう思いながら、

ペンを取り、ノートの隅に一行書いた。


『声が出ても、沈黙を忘れないでほしい。』


ペンを置いた瞬間、

部屋の明かりがやさしく滲んだ。

その光の中で、彼は静かに目を閉じた。


——“声を失った彼女”ではなく、

“声を取り戻した真白”を、

もう一度好きになれるだろうか。


答えは、まだ出せなかった。

でも、

“聞こう”という気持ちだけは、

確かに胸の中に残っていた。

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