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第7章 声を取り戻すということ

春の雨が、数日続いたあと。

大学の空気は、少しだけ澄んでいた。

新しい学期が始まる直前。

講義の準備で賑わう廊下を抜けて、夕は医療棟の裏手にあるガーデンベンチに座っていた。


真白は、診療室の扉の向こうにいる。

「発声リハビリ」——彼女が自分で申し込んだ言葉だった。


夕は膝の上で手を組んでいた。

右の親指が、左の人差し指の腹を一定のリズムでなぞる。

不安を落ち着かせるときの癖。

それを自覚しながらも止められなかった。


扉の向こうから、淡い音が聞こえた。

ガラス越しに伝わる、喉のリハビリ器具の低い振動音。

その音の隙間に、息の切れる気配が混ざる。


真白の声はまだ、音になっていなかった。

でも、そこには確かに**「声を取り戻そうとする呼吸」**があった。


夕は目を閉じた。

思い出すのは、彼女が初めて筆談で自分に言った言葉——

『声がなくても、伝えられます。』

あのとき、自分は救われた。

けれど、同時にどこかで「安心しすぎていた」気がする。


“彼女が声を出せないほうが、ずっと自分を必要としてくれる”。

——そんな利己的な願いを、どこかで隠していた。


扉が開いた。

真白が出てきた。

頬に薄く汗が滲み、息が少し荒い。

でも、目はまっすぐだった。


彼女は喉に軽く手を当て、

いつものノートを開かずに、夕を見た。

唇が小さく動く。

「……ぁ」


それは、音になりかけて、空気に溶けた。

でも、その“欠片”が、夕の胸に確かに届いた。


真白は口を閉じて、深く息を吐いた。

肩が小さく上下する。

その仕草だけで、どれほどの勇気を使ったかが分かった。


夕は笑った。

「……聞こえたよ」


真白の目が、少し揺れた。

そして、ゆっくりと微笑んだ。

言葉を使わずに、唇だけで「ありがとう」と動いた。

その動きのあと、彼女はノートを開いた。


『今日は失敗したけど、

声を出そうとして、泣きそうになった。

でも、泣けなかった。

その代わりに、空気が少し温かくなった気がしました。』


夕はその文字を指でなぞりながら、

自分の喉の奥が温かくなるのを感じた。

言葉を出すことが怖かったあの頃の自分が、

少しずつ遠ざかっていく。


「真白さん」


『はい?』


夕は言葉を探す。

言葉の端が喉に引っかかって、うまく出ない。

けれど、その引っかかりの中に、ちゃんと“生きた音”があった。


「……俺も、もう一度“声”を信じてみる」


真白が、ほんの一瞬だけ目を見開いた。

それから、静かに頷いた。

その頷きの途中で、指が夕の手の甲に触れた。

小さな指先。

音より確かな震え。


『一緒に、練習しますか?』


その文字の隣に、小さく書かれたもう一行。


『“話す練習”じゃなくて、“伝える練習”。』


夕は笑った。

声が自然に出た。

空気の中で小さく跳ねる音。

それを聞いた真白の目尻が、少しだけ柔らかくなった。


温室のガラス越しに、光が差し込んだ。

春の終わりの陽射し。

空気が透きとおって、二人の影が重なった。


その影の重なりの中で、

夕は初めて思った。

「声を取り戻す」というのは、音を出すことじゃない。

——生きていることを、もう一度“聴く”ことだ。


真白が軽く手を上げた。

「ゆ……」


まだ曖昧な音。

でも、それで十分だった。


夕は、息を詰めて笑った。

「うん、ちゃんと聞こえたよ。」


二人の間の空気が、

“静けさ”から“音”へと変わった瞬間だった。

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