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第6章 手と手の間の告白

夕暮れの校舎は、少しだけ息を潜めていた。

学生たちが去ったあとのキャンパスは、昼の喧騒の残響を抱いたまま、

どこか遠いところへ流している。


月原夕は、温室の前に立っていた。

昨日、真白と過ごしたあの場所。

手の温度の記憶が、まだ指先に残っている。

触れたのに、触れきれなかった、あの距離。


ガラス越しに見える影が動いた。

桐生真白。

今日は白いワンピースに、薄いグレーのカーディガン。

季節より少し軽い服装。

けれど彼女の歩き方は、慎重だった。

足音を立てないように、床を撫でるように歩く。


「来てたんだ」

夕が声をかけると、真白は喉に触れ、小さく笑った。

音はない。

それでも“声がある”と感じるのは、不思議だった。


夕が温室のドアを開ける。

暖かい空気がふたりを包む。

土の匂いが、昨日より濃い。

真白はノートを取り出しかけたが、途中で止めた。

胸の前で両手を重ねる。


——今日は、書かない。

その動作ひとつで、夕は理解した。


「話すより、感じたい日?」

真白は頷き、視線を合わせた。

その瞳の奥に、小さな決意が見えた。


夕が一歩近づく。

真白のまつげが震える。

呼吸が重なる距離。

空気が狭くなるほど、心音がよく聞こえる。


真白の右手が、そっと動いた。

夕の左手の上に、ためらいながら重なる。

手のひらと手のひらの間に、小さな空気の層が生まれる。

——“触れていないのに、触れている”距離。


その距離が、二人の時間をゆっくりと伸ばしていく。


夕が静かに言った。

「真白さん。

 俺、君の声を知らないままでいいと思ってた。

 でも——たぶん、それは嘘だ」


真白の指がわずかに強くなった。

触れない距離のなかで、伝わる熱。


『どうして、嘘?』


彼女は左手の指先で、夕の掌の上に文字を描いた。

“ど”“う”“し”“て”。

ゆっくり、ひと文字ずつ。

文字の軌跡が、皮膚の感覚として残る。


夕は、指先で彼女の文字の終わりをなぞった。

そのまま、掌の上に小さく返した。


「——“声を知らない”ままでも、君のことが好きだって思ってた。

 でも、それは、怖がってただけだ。

 本当は、君が声を取り戻すのを怖がってた。

 声が戻ったら、俺の言葉が届かなくなる気がして。」


沈黙が降りた。

温室の中の葉が、微かにこすれ合う音。

真白は俯いたまま、両手を胸の前で重ねた。

その手が震えた。

けれど、もう逃げようとはしていなかった。


彼女はノートを取り出し、

いつもより少し速い筆跡で文字を刻んだ。


『わたし、声を戻したいと思ったこと、なかった。

でも、今は少しだけ、戻したい。

あなたの名前を、“声で”呼びたい。』


夕の心臓が跳ねた。

その鼓動に合わせて、喉の奥が熱くなる。


「……呼ばれたい」


その言葉が出た瞬間、真白の目に涙が浮かんだ。

けれど、その涙は落ちなかった。

代わりに、彼女の指が夕の頬に触れた。

冷たい指先が、ゆっくりと頬の曲線をなぞる。


——“ありがとう”でも、“好き”でもない。

そのどちらもを含んだ仕草。


夕が、その指先を手で包んだ。

温かさと冷たさが、掌の中で混ざる。

“告白”という言葉の意味が、

この瞬間、形を変えていく。


声ではなく、指で。

言葉ではなく、鼓動で。


真白は口を開いた。

声にならない音が、唇の間からこぼれた。

かすかに震える息。

“ゆ”の形に近い。


夕は息を呑んだ。

聞こえたわけじゃない。

けれど確かに、「呼ばれた」と思った。


二人の間に、音のない春が降りた。

世界が静まる。

葉の一枚が落ちる音が、時間を区切る。


その静けさの中で、

彼女の指はまだ、彼の手を離さなかった。

——まるで、その手の温度を言葉に変えているみたいに。

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