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第5章 指の震えの理由

雨の翌日。

空は乾いていたが、地面の端にはまだ昨日の水の跡が残っていた。

真白は、キャンパスの隅にある小さな温室の前に立っていた。

ガラス越しに光がやわらかく反射して、彼女の影を二重に映す。

一つは外の彼女、もう一つは中の植物たちに重なる影。


夕は少し遅れて到着した。

ガラス戸を開けると、湿った空気が顔を撫でた。

土の匂いが濃い。

温室の中は、春よりも少し早い夏の気配をまとっている。


「ここ、よく来るの?」

真白は頷き、すぐノートを開いた。


『静かだから。植物は、話しかけても答えを急がないから。』


夕は思わず笑った。

その笑いは、音にする前に呼吸でできていた。

「……答えを急がない、か」


『人は、すぐ“返事”をほしがるから。

わたし、間に合わないときがある。』


彼女はペンを持ったまま、右手を膝の上で丸めた。

指先が、かすかに震えている。

その震えを隠すように、左手を上から重ねた。

——まるで、自分の手をなだめているみたいだった。


「真白さん……それ、寒い?」

真白は首を横に振り、少し考えるように天井を見上げた。

透明なガラスの上に、雲の影が流れていく。

彼女はペンを走らせた。


『寒くない。

たぶん、少し“思い出した”だけ。』


「……事故のこと?」


ペンが止まる。

真白の目がゆっくりと閉じられた。

閉じ方が、眠る人とは違っていた。

光を遮るためではなく、過去を遮るための閉じ方だった。


夕はそれ以上、何も言わなかった。

言葉を加えることが、痛みに触れることだと分かったから。


ノートの上で、真白の手が動いた。

一文字ごとに呼吸を整えるように、ゆっくりと。


『去年の冬、夜道で車に轢かれそうになった人を助けようとしました。

声を出して止めようとしたとき、転んで、喉を打ちました。

その声が最後。』


最後の句点のあと、ペン先が紙の上で動かなくなった。

動かさないまま、指が小刻みに震えていた。

それは恐怖の名残というより、声を出そうとする身体の記憶だった。


夕は、そっとノートを閉じた。

閉じるとき、彼女の手が少し驚いたように動いたが、すぐに止まった。

「……もう書かなくていい」


真白は顔を上げた。

目の奥に“許可”の光があった。

許されたことで、初めて泣ける人の目。


涙は落ちなかった。

ただ、まつげが少し濡れた。

その水分を見た夕は、何かを言おうとしたけれど、

喉の奥が動かず、代わりに手が動いた。


彼は自分の右手を、そっと真白の手の上に重ねた。

冷たい手だった。

でも、その冷たさが確かに生きていた。


真白は、驚いたように瞬きをして、

すぐに指先で夕の手を軽く押し返した。

拒絶ではなく、「そこにいるのは分かる」という返事。

彼女は喉に触れ、声の代わりに、息を一つ吐いた。


——その息の音が、まるで“ありがとう”と聞こえた。


夕は笑った。

声が出なくても、言葉がなくても、

今この瞬間だけは、意味を探す必要がない気がした。


真白は、ペンを取り、

小さな字で一行だけ書いた。


『怖かった。

でも、いまは怖くない。

だって——“聞いてくれる人”がいるから。』


夕の視線が、その文字の上で止まった。

呼吸のタイミングが合う。

沈黙の中に、二人分の鼓動がある。

それが、言葉よりも確かな対話だった。


外では、誰かが笑っていた。

遠くで風が葉を鳴らす音がした。

でも温室の中だけは、何も変わらない。


——ここには、

声を失った少女と、声を怖がる青年の、

“確かな静けさ”があった。

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