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第4章 彼女の声を知らない世界

夜が落ちるのが早くなった。

夕の部屋は、灯りをつけてもどこか薄暗い。

蛍光灯の白が、壁に滲むように広がっている。

机の上には本とノート。

開かれたページの端が、ゆっくりと風に浮いた。


——「声が怖い」と思うようになったのは、いつからだろう。

たぶん、あの高校の放送室の午後。

放送部の女子が流した笑い声。

「月原くんの声って、冷たいね」

笑いながら言ったその言葉が、冗談ではなく、

**“事実の宣告”**みたいに聞こえた。


その瞬間、自分の喉が自分のものでなくなった。

話すたびに、空気が擦れる音がした。

以来、言葉は必要最低限になった。


——だからこそ、真白の「声のない世界」が、少し羨ましかった。

声を出さなくても伝わる方法を、彼女はもう持っている。

自分はそれを失くしたまま、生きている。


翌日。

大学の中庭。

銀杏の木が影を長く伸ばしていた。

真白はベンチに座り、ノートを膝に置いていた。

ペンを持つ手の甲が、うっすら赤い。

寒さではなく、何かを書きかけて止めた痕跡。

書く力を、途中で失った跡。


夕は彼女の隣に座った。

距離は、手を伸ばせば触れられるくらい。

それでも触れない。

——言葉より先に触れるのは、まだ早いと思ったから。


「真白さん、寒くない?」

彼女は首を横に振って、ノートに文字を置いた。


『寒くないです。

でも、今日の月原さんの声、少し遠い。』


夕は思わず息を止めた。

“遠い”という言葉に、心の奥の何かが反応した。

「……そう、聞こえた?」

真白は頷いた。

その頷きがゆっくりすぎて、痛かった。


『昨日より、声が小さい。

何か、ありましたか?』


彼女の筆跡がいつもより細い。

細く書くとき、人は迷っている。

相手の心に踏み込みたいけれど、踏みすぎたくないときの字。


夕は空を見た。

目を閉じると、耳の奥にあの高校の笑い声が戻ってくる。

冷たく笑われるあの瞬間が、今でも喉の奥で凍っている。


「俺、声が……あまり好きじゃなくて」


『どうして?』

「昔、“冷たい声”だって言われた。

 それから、誰かに話すとき、自分の声を一回頭の中で再生してから喋るようになった。

 ——変だよね」


真白は、すぐには何も書かなかった。

ペンを持ったまま、指先でノートの角を撫でていた。

まるで、その角が夕の言葉の“とげ”を吸い取ってくれるのを待つみたいに。


『変じゃない。

わたしも、自分の“声”を頭の中で再生してる。

もう出せない声を、思い出すために。』


その文字を見た瞬間、夕の喉が熱くなった。

声を出そうとしても、呼吸が引っかかる。

涙が出るわけでもないのに、目の奥が霞んだ。


「真白さん……」


真白は、ペンを置き、両手を膝の上に重ねた。

その手の上に、自分の視線をそっと置くようにして言葉を動かした。


『声は、出なくても消えないですよ。

聞いてくれる人がいれば、ちゃんと残る。

月原さんの声も、ちゃんと聞こえてます。』


言葉が、ノートの罫線を越えて、心に届いた気がした。

夕は、喉を押さえながら小さく笑った。

「じゃあ……この声も、届いてる?」


真白は頷いた。

目を伏せたまま、小さく笑った。

まつげが光を受けて、震えている。

その一瞬の震えが、答えだった。


風が吹いた。

真白の髪が頬にかかり、夕が反射的に手を伸ばす。

でも触れる直前で止まる。

手の中の空気が、彼女の輪郭をなぞるだけ。


真白がその動きを見て、少しだけ首を傾げた。

**「触れてもいいよ」**という仕草だった。


夕はその意味を理解しながらも、手を戻した。

「……今は、やめとく」

真白の笑みが、少しだけ深くなった。


『やさしいですね。

でも、やさしすぎるのも、たまに寂しい。』


その文字を見て、夕は目を細めた。

やさしさと臆病は、紙一重だ。

けれどその紙一重の上でしか、真実は立てない気がした。


二人の間の距離。

ほんの数十センチ。

でもその中に、互いの**“声の記憶”**があった。

聞こえない声と、出せない声。

二つの沈黙が、ようやく混ざり合った瞬間だった。

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