第3章 沈黙の音色
夕方、空の端に薄い灰がにじみ始めた。
雲の境目がぼやけて、音のない雨の前ぶれが街を包んでいる。
図書館の前のベンチで、月原夕は傘を閉じたまま待っていた。
風の湿り気が、頬に張りつく髪を少しだけ重くしている。
スマホの画面を開いたまま、時間を確認するふりをする。
——何かを“待っている”時間を、理由で塗りつぶしたかった。
ガラス扉が開いて、桐生真白が出てきた。
透明なビニール傘を持っている。
彼女は一度空を見上げて、まだ降っていないことを確かめ、傘の先を地面に軽くついた。
コツン。
その音だけが、雨より早く、静けさを裂いた。
夕が立ち上がると、真白の視線が一瞬だけ浮かんで、それから下に落ちる。
——照れ隠しの“落とす”目線。
自分の顔を見せすぎないための、やさしい逃げ。
「雨、来そうだね」
声をかけると、真白は喉に手を当てて、口を開いた。
音は出なかった。
けれど唇の動きが、はっきり“うん”と形を作る。
彼女の“声”は、唇の線と、まばたきのリズムの中に生きている。
二人で並んで歩き出す。
アスファルトが濡れ始める前の、独特の匂いが漂っていた。
濡れた土の匂い、錆びた鉄柵、咲きかけの花。
その全部が、雨の前の音を持っている。
真白は歩きながらノートを開いた。
傘の骨が肩にあたる音が、紙の上に重なる。
『雨の前の匂い、好き。音がまだ静かだから』
「分かる。
降り始めるときの“最初の三粒”が、いちばん綺麗だよね」
真白が顔を上げる。
その瞬間、頬に小さな雫が落ちた。
本当に、三粒目だった。
彼女は笑った。
口角の上がり方がゆっくりで、目尻が少しだけ遅れて追いつく。
“嬉しい”を言葉にしない笑い方。
その笑みを見て、夕の胸の奥がかすかに熱くなる。
それは“恋”と呼ぶにはまだ遠い。
けれど、“救われた”という言葉に近い熱だった。
やがて雨が本格的に降り出した。
傘を開く。
傘の内側に入ると、外の世界が少しだけ遠くなる。
音の輪郭が柔らかくなり、二人の呼吸が同じテンポになる。
真白はノートを閉じ、ペンを握ったまま、空に向けて傘の端を少し傾けた。
右肩に雨が少しだけかかる。
その濡れた部分に、指先で触れる。
冷たさを確かめる仕草。
『冷たいけど、気持ちいい。
音が、身体に当たってるみたい』
「……雨の音、好き?」
『うん。声みたいだから。』
夕は一瞬、息を飲んだ。
“声みたい”という言葉が、どこか痛いほどにやさしかった。
彼女にとって、世界の音は、失った声の代わり。
その音の中で、彼女は生きている。
雨脚が強くなってきた。
地面に広がる水の輪が重なり合って、消えて、またできる。
その様子を見ながら、真白は傘の骨の一本を指でなぞっていた。
細く、静かに。
何かを思い出すとき、人は無意識に“同じ形”を繰り返す。
「喉、痛くない?」
真白は首を横に振り、すぐに小さく頷いた。
“少しだけ痛いけど、平気” の動き。
夕は傘を少し傾け、彼女の方に寄せた。
肩が触れるほどの距離ではない。
それでも、空気が一段階あたたかくなった。
真白がノートを開きかけて、思い直すように閉じた。
その動作が、言葉より雄弁だった。
——“書かなくても伝わる気がする”。
雨の音が強くなり、傘の表面で弾ける水の粒がリズムを作った。
夕は無意識に、そのリズムに呼吸を合わせていた。
真白の指先も、そのリズムに沿って小さく動く。
二人の呼吸が、雨の音のテンポに重なっていく。
ふと、真白が夕を見た。
視線がまっすぐで、逃げ場がないほど真剣だった。
夕はその目を受け止めながら、言葉が喉まで上がって止まった。
「……真白さん」
声が、雨音に吸い込まれる。
真白は微かに笑い、唇で形を作った。
——『聞こえてる』。
その瞬間、夕は気づいた。
声がなくても、“届く”という感覚は、音とは無関係だ。
届くとき、世界の輪郭が一瞬だけやさしくなる。
雨の粒が、彼女の傘を叩くたびに、胸の奥にその音が沁みていった。
傘の下。
狭い世界のなかで、二人はしばらく言葉を探さずに立っていた。
空の色が少しずつ暗くなっていく。
その変化を、誰も説明しないまま、
ただ、雨の音だけが会話を続けていた。




