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第2章 “話せない”という会話

午後、空の色がまだ冬の名残を残していた。

白い雲が薄く張りついたまま、陽光をぼかしている。

桐生真白はベンチに座って、ノートの上に新しいページを開いていた。

風にめくれないよう、左手の人差し指で端を押さえる。

その指先の爪の縁に、紙の粉がついている。

紙を多く触る人の、くすんだ白。


月原夕が歩いてくるのが、視界の端に映った。

歩幅はゆっくり。

靴の音をできるだけ小さくするように歩く癖がある。

人に近づくとき、空気を壊さないようにする人の歩き方だった。


「また、ここにいたんだ」


真白は顔を上げた。

微かに光を反射した髪が揺れる。

笑おうとして、口角が半分だけ上がった。

喉に手を触れ、すぐにノートを開く。


『午後の光が好き。音が少ないから』


夕は少し目を細めた。

彼女の文字は、まるで音を持っているように見えた。

読むたびに、紙の上で小さな呼吸が聞こえる気がした。


「音が少ないの、好き?」


『音がないと、考えが見える』

「考えが、見える?」

『人の声の中に、自分が消えることがある。静かだと、自分の形が分かる』


彼女のペン先が止まり、視線が遠くへ流れた。

風がノートの端を一枚だけめくる。

夕はその紙をそっと押さえた。

指の甲に、真白の指が軽く触れた。

互いに一瞬だけ止まる。

その一瞬の後、真白の指が少しだけ震えた。

「ごめん」と言えない代わりに、唇が僅かに動いた。

言葉の形を作る唇の動きだけが、彼女の“発音”だった。


「……大丈夫」

夕はそれだけ言った。

言葉というより、空気のなかに混ぜるように。

声の音量より、呼吸の方が多い言葉だった。


少しの沈黙。

それが会話になっていた。

風が枝を揺らすたびに、二人の間に“間”ができる。

真白はノートを開いたまま、空白を指先でなぞる。

そこに何かを書こうとしたけれど、やめた。

その“やめる”までの動きのなかに、言葉より正確な感情があった。


夕は静かに尋ねた。

「……言いにくいこと?」


真白はペンを横に置いた。

視線が、一度下に落ちて、ゆっくり戻る。

その目の動きが、頷きよりも多くの意味を持っていた。


『本当は、声を出そうとすると痛い。

でも痛いのは喉じゃなくて、思い出。』


夕は、ノートのその一行を見つめたまま、何も言わなかった。

ただ、右手を膝の上で軽く握って開いた。

その手の動きの間に、心臓の鼓動が見えた。


「痛いの、残るよね」


『月原さんも?』

「……うん。少しだけ」


真白の瞳が、光の中で小さく震えた。

驚きと、理解と、少しの優しさが混ざった色。


『じゃあ、少しだけ、似てるのかも』


ペンを置いた指先が、膝の上で丸くなっている。

痛みを隠す人の、拳の形。

夕はそれを見て、小さく笑った。

「似てるなら、もう少し話してみようか」


『……どうやって?』

「声じゃなくてもいい。

 ——たとえば、目を見て、考える」


真白は、少しだけ息を飲んだ。

頬が微かに赤くなる。

夕の言葉が、ただの提案ではなく、“試されている”気がしたから。


視線を合わせたまま、数秒。

真白が先に目を逸らした。

逸らすとき、目尻が僅かに震えた。

それは「逃げる」ではなく、「受け止めすぎてしまった」時の仕草だった。


「……難しいね」


『見られると、心の音が大きくなる』

「それ、すごく分かる」


風がまた吹いた。

ノートがぱたんと閉じ、ページの端が夕の手の甲をかすめた。

真白がすぐにノートを押さえる。

その拍子に、ペンが転がり落ちた。

夕が拾う。

指先でペンを返す瞬間、真白はその手を両手で受け取った。

一拍の遅れ。

目を見ずに、手を握りしめる。

その仕草の中に——「ありがとう」も「ごめん」も全部あった。


「真白さん」

彼女が顔を上げる。

目の奥に、まだ少し春の光が残っていた。

「また、話そう。声がなくても」


真白は笑って、唇をゆっくり動かした。

——『はい』。


音はなかった。

でも、その“はい”は、確かに聞こえた。

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