第1章 白いノートの言葉
昼下がりの大教室は、椅子の擦れる音で満ちていた。
教授の声は遠く、窓の外の光のほうが近い。
夕は最後列から三つ前の席に座り、ノートを開いた。
ページをめくる癖は静かだ。紙の端を、人差し指の腹で一度なでてからめくる。
講義が終わるチャイムの少し前、数列前の席で彼女が立ち上がった。
桐生真白。昨日の踊り場の白い指先。
肩にかけた布トートバッグの重さを、一度肩から外し、持ち直す。
その動作の途中で、ストラップが滑り、バッグの口が少し開いた。
中の白いノートの角が見えた。昨日の、あの罫線。
人の流れが出口に向かう。
真白は人混みをやり過ごすのが上手い。
最初の波には乗らず、二つ目の波の端に入る。
押されず、押さず、空いた半歩に体を置く。
声を使わない人の歩き方だった。間合いを読むのが、自然に身につく。
廊下に出ると、風が汗の塩を一瞬だけ冷やしていく。
真白は髪を耳にかけた。
かけきる前に指が少しだけ止まる。
耳たぶの下、細い白い線。——手術痕。
視線がそこに触れたことを悟られないように、夕はわざと窓の外へ目を向けた。
見ないという行為が、見る以上に重くなる瞬間がある。
「講義、どうだった?」
言わない。
代わりに、歩幅を合わせる。
それで十分な日もある。
自販機前のスペースで、真白が立ち止まり、白いノートを開いた。
ペン先が紙を軽く叩き、字が並ぶ。
『さっき、見ましたね(傷)。大丈夫です。気にしません』
夕は、否定の首振りを飲み込んだ。
「——ごめん」
『謝らなくて大丈夫。見られるの、慣れてます。見る人の目が痛そうなの、心配になります』
「目が、痛そう?」
夕は自分の目を指で押さえ、笑った。
痛いのは、たぶん別の場所だ。
でも、笑うと彼女は安心する。口角の上げ方が、少し自然になる。
ペンが止まり、真白は一拍、空を見た。
その「一拍」は、質問を作る時間だ。
『昨日、図書館の踊り場で会いました。あなたは——“また”と言いかけて、やめた人』
夕は一瞬、喉が鳴るのを感じた。
自分の言いかけを、誰かに覚えられていることに、妙な居心地の良さが生まれる。
言い切るより、言いかけが記憶になる日もある。
「月原夕。文学部、二年」
自己紹介は短く。
長くすると、声が自分のものではなくなる気がするから。
『桐生真白。心理、一年。……よろしく、おねがいします』
“お願いします”の「ね」が少し丸い。
お願いすることに、恥ずかしさよりも、受け取られたい切実さが混ざると、こういう字になる。
「コーヒー、飲む?」
夕が券売機に手を伸ばすと、真白は慌てて否定の手を振った。
腕が少し大きく揺れ、すぐ小さくなる。
「いらない」ではなく、「気を遣わせたくない」の動き。
彼女は続けて、手のひらを自分の胸に当て、軽く上下する。
**“だいじょうぶ”**の仕草。声帯のかわりに、胸骨の前で言葉が跳ねる。
「じゃあ、ベンチ、行こうか」
並んで歩く。壁際のベンチまで二十歩。
十歩目で、真白が少し速度を落とす。
夕も落とす。
誰かと歩くときの、呼吸の調整はいつだって会話の一部だ。
ベンチに座ると、金属が冷たくて、春の陽に温められた背中との温度差が小さな嘘みたいだった。
真白はノートを膝に置いたまま、ペンを握る角度を一度直した。
右手の親指が、キャップの段差を確かめるように触れる。
緊張のとき、人は道具の端を触る。
『声が出ないこと、どう扱われるのが楽だと思いますか?』
夕は、即答しなかった。
すぐ答えると、言葉が薄くなる。
彼は空を見て、目を細めて、戻ってきた目の焦点を彼女に合わせた。
「今日のあなたみたいに、先にノートに書いてくれるのが、楽だと思う」
夕は自分の手の甲を、親指の腹で一度だけ撫でた。
話を進めるときの、自分の小さな儀式だ。
「“知らないふり”をされると、僕はたぶん、どこを見ていいか分からなくなる」
真白は、ペン先を空中で一度止め、それから素早く走らせた。
『わたしも、同じ。知らないふり、つらい。
でも、かわいそう、も、つらい。』
最後の句点を打つ直前に、ペンがほんの少し震えた。
“つらい” と書くのは、声で言うより体力がいる。
それでも書いた人の顔には、どこか軽くなる気配が混じる。
「じゃあ、どうしようか」
夕の問いに、真白は少しだけ笑った。
笑う前に目尻が先に動くタイプの笑い方だ。
**“笑おうとして笑ってる”**笑いじゃない。
『ふつうに。困ったら、訊く。長く話したくなったら、歩く』
「歩く?」
『歩きながらだと、文字が少なくても大丈夫だから。
それに、歩くと、沈黙が自然に見えるから』
沈黙を「見える」と表現する人に、夕は初めて会った。
言葉が喉の奥で少し温度を持つ。
「いいね、それ。見える沈黙」
真白はノートの端を小さく折り、そこに今日の日付を書いた。
その折り目は、ページを記憶にするための栞だ。
彼女は立ち上がる前に、胸の前で手を合わせ、小さく一礼した。
ありがとう。音のない挨拶。
帰り道。
夕はすれ違う人の会話の粒を、耳の表面で受けながら歩いた。
言葉は、聞こうとすればいくらでも降ってくる。
でも、今日、彼に残っているのは文章ではなく、間だった。
ノートに置かれた二拍の空白。
視線が戻ってくるまでの、躊躇の一歩。
キャップの段差を確かめる指の、小さな往復。
声のない会話は、思ったよりもうるさかった。
うるさい、のに、疲れなかった。
静かで、やさしくて、ちゃんと届く音。
夕はポケットの中のイヤホンを、今日も戻さなかった。
空気の音だけで、足りる気がしたからだ。
角を曲がる前、振り返る。
真白がベンチにまだ座っていた。
ノートを閉じ、膝の上に手を重ね、夕のほうを見て——一瞬だけ視線を落とす。
その一瞬は、「また」のかわりだった。
言葉にしない約束は、声より長く残ることがある。
桜は、まだ散らない。
枝先でためらう花びらを眺めながら、夕は小さくうなずいた。
今日、ひとつだけはっきり分かったことがある。
——彼女の声は、もう始まっている。




