最終章 声のない告白
夏の終わり。
夕立のあと、空にまだ薄い雲が残っていた。
光と水の粒が混ざり合うような夕暮れ。
大学の中庭のベンチに、月原夕は座っていた。
指先でノートの表紙をなぞる。
真白の字が残る最後のページ。
——『ありがとう、沈黙の中でも聞いてくれたから。』
その言葉を読み返すたび、胸の奥が静かに熱くなる。
声を取り戻してから、真白とは少し距離を置いていた。
互いの時間を“声のある日常”に慣らすため。
でも、どんな音の中にも、あの静けさの記憶が残っていた。
夕が空を見上げると、夏の光の残滓が雲の端に散っていた。
そこへ、風に混じって一つの声が届いた。
「……夕くん」
静かな、でも確かな声。
振り返ると、真白が立っていた。
髪が風に揺れ、影が夕陽に溶けていく。
もう喉に触れる仕草はない。
その代わりに、胸のあたりで小さく手を握る癖だけが残っている。
「……久しぶり」
「うん、久しぶり」
二人の間に、短い沈黙が落ちた。
けれど、それはもう怖くなかった。
沈黙の中に、互いの呼吸が生きていた。
真白は一歩、近づいた。
そして、両手で小さな包みを差し出した。
中には、あの白いノート。
表紙の角が少しだけ擦れている。
「返すね」
「……持ってていいよ。君の、だし」
「ううん。もう、わたしのじゃないの」
真白は笑った。
その笑顔には、以前のような儚さはなかった。
強さと優しさが、静かに混ざっていた。
「このノート、いっぱいになったから。
次は、声で書きたいと思って。」
夕は頷いた。
喉の奥が熱くなる。
でも、その熱を、今はちゃんと受け止められた。
真白は小さく息を吸い込んだ。
そして、目を閉じて、口を開いた。
「——夕くん」
たった二文字。
でも、そこには一年分の沈黙と想いが詰まっていた。
呼吸の震え、唇のかすかな動き、喉の奥で生まれる微かな音。
そのすべてが、言葉になるための“祈り”のようだった。
夕は目を閉じて、静かに聞いた。
聞こえたのは、ただの名前。
けれど、それ以上の意味を持っていた。
真白が目を開ける。
少し涙が滲んでいる。
彼女は笑いながら、もう一度、声を出した。
「夕くん、……好きです。」
その声は震えていた。
けれど、確かに空気を震わせ、世界に刻まれた。
夕は、笑って答えた。
声ではなく、唇の動きで。
——『俺も。』
真白は、それを読んで頷いた。
そして、小さく呟くように言った。
「声があると、伝えられることも増えるけど……
やっぱり、“見つめる”ほうが好きかも」
夕は少し笑って、彼女の手を取った。
その指先に、あの日の温度が残っていた。
何も言わずに、指を絡める。
それだけで、言葉はいらなかった。
風が通り抜ける。
木々の葉がさざめく。
二人の影がひとつに重なる。
真白はそっと目を閉じた。
「……ねえ、夕くん」
「うん?」
「ありがとう。あなたが“聞いてくれた”から、
——また“話したい”と思えたの」
その言葉を聞いて、夕は静かに微笑んだ。
目の奥に、光が滲んでいた。
「それなら、これからも聞くよ。
声でも、沈黙でも、どっちでも。」
真白の頬に、風が触れた。
その瞬間、彼女の声が風の中に溶けた。
「——聞こえる?」
「うん、ちゃんと。」
彼女の声も、風の音も、
そして、何も言わない沈黙の響きさえも——
すべてが、優しく混ざり合っていた。
それが、ふたりの“告白”だった。




