第9章 ノートの最後のページ
春の終わりの風が、ページをめくった。
木漏れ日の粒が、白い紙の上に散っている。
桐生真白は、ベンチの上にノートを広げ、ペンを握っていた。
あの白いノート——声を失っていた頃、
彼女のすべての言葉が詰まっていた場所。
今日は、そのノートを閉じるためにここに来た。
近くで、夕がゆっくり歩いてきた。
手には、小さな花束。
白いスズラン。
香りはほとんどなく、静かな花。
彼女に似合うと思ったからだった。
「来たんだ」
夕が声をかけると、真白は少し笑った。
もう“喉に手を当てる”仕草はない。
声を出す前の、ほんの短い息遣いだけが残っている。
「うん、……来たよ」
少し掠れた声。
でも、確かに音になっている。
夕はその音を聞いて、
胸の奥で静かに何かがほどけるのを感じた。
「どう? 調子は」
「まだ……ゆっくり。でも、大丈夫」
言葉の合間に沈黙があった。
以前のような“重たい沈黙”ではなく、
互いが呼吸を合わせて生まれる、柔らかな間。
真白はノートを膝に置き、ページを一枚だけめくった。
そこには、過去の文字たちが並んでいる。
震えた線。
涙で滲んだ跡。
そのすべてが、彼女が“声の代わりに生きた証”だった。
彼女はペンを握り直し、
紙の上に小さく文字を置いた。
『声を取り戻して、気づいたことがあります。
声も、沈黙も、どちらも私の一部でした。』
一文字ごとに、呼吸を整えながら書いていく。
夕は黙って見守っていた。
書く音と、鳥の声と、風の音。
その全てが、真白の新しい“会話”の形になっていた。
真白は、最後のページの最下段に、もう一行だけ加えた。
『——ありがとう、夕くん。
沈黙の中でも、ちゃんと聞いてくれたから。』
書き終えたペン先が、
わずかに光を反射した。
彼女はノートを閉じ、両手で抱えた。
夕はそっと彼女の隣に座り、
手に持っていたスズランを差し出した。
花の白が、彼女のノートの白と溶け合う。
「この花、花言葉知ってる?」
「……たしか、“再び幸せが訪れる”」
真白が小さく笑った。
その笑い声はまだ細くて、風に混ざるように揺れた。
でも、それがいい。
音は、完全じゃないからこそ美しい。
夕は、彼女の手の上に自分の手を重ねた。
ノート越しに伝わるぬくもり。
「ねえ」
「うん?」
「もう、書かなくても大丈夫?」
真白は一瞬考え、それから頷いた。
「うん。でも、たまに書く。
——“声じゃ言えないこと”もあるから。」
その言葉に、夕は笑った。
「じゃあ、そのときは俺もノート出すよ」
「ふふ、それ、いいね」
二人の笑い声が、風にほどけた。
そのあと、しばらく何も話さなかった。
でも、沈黙が怖くなかった。
沈黙の中に、言葉の続きがちゃんと生きていた。
太陽が沈みかける。
影が伸びて、二人の影が重なる。
真白はその影を見つめながら、小さく呟いた。
「——夕くん」
「なに?」
「“好き”って、声で言ってみたかったの」
その声は震えていた。
でも、確かに音だった。
夕は息を呑み、
ゆっくりと彼女の方に向き直った。
「……聞こえたよ」
「よかった」
そして、真白はノートを胸に抱いたまま、
目を閉じた。
夕の肩に頭を預ける。
声も文字もいらない、
心臓の鼓動だけが響く時間。
その静けさの中で、
ノートの最後のページが、風にめくられていった。
その裏面は、まっさらだった。
——新しい“言葉の余白”が、
ふたりの未来に続いているように見えた。




