Prologue 静かな春に落ちた声
キャンパスの桜は、咲きすぎる手前で止まっていた。
薄い花びらが枝先でほどけそうに揺れ、まだ散る決心をしていない。
図書館の階段を降りると、風がひとつ、紙の匂いを運んできた。春の、乾いた匂い。
月原夕は、ポケットの中のイヤホンを指先で丸めたまま、外した。
誰かの声を、今日は聞きたくなかった。
耳に残る音を空に溶かすみたいに、深く息を吐く。
吐くとき、喉の奥が少しだけ痛む気がした。痛いのは喉じゃなくて、思い出のほうだと分かっていても。
階段の踊り場で、ペンが床を転がった。
乾いた音。金属とプラスチックの小さな衝突。
反射で拾おうと伸ばした手よりも早く、白い指が先に届いた。
彼女は声を出さなかった。
けれど、拾ったペンを差し出す手首が、ほんの一瞬だけ躊躇った。
渡すときに目が合い、すぐに逸れて、戻ってくる。
その「戻ってくる」までの二拍が、「こんにちは」よりも多くを伝える。
「ありがとう」
夕が言うと、彼女は喉に指先を触れ、軽く首を横に振った。
それだけで意味が分かる。——声が、出ない。
長方形の小さなノートが胸ポケットから出てきて、開かれる。
罫線の最初の行に、丁寧な字が置かれた。
『桐生真白です。落としたの、拾わせてもらいました』
最後の点の位置が、ぴったり真ん中。
几帳面さと、言葉を整えるくせ。
そして、文字の角が少し丸い。声の代わりに、筆圧で「やわらかさ」を残すのが上手い人の字だ。
夕はうなずきながら、ペンを受け取った。
指先が当たる。すぐ離れる。
触れた瞬間の、わずかな体温の差だけで、彼女の生活がどれくらい静かだったかが分かる気がした。
ノートにもう一行。
『声、しばらく出せません。でも大丈夫です』
「大丈夫」の “です” の縦棒が、ほかよりほんの少し長い。
強がりの背丈を、文字が代わりに伸ばしている。
夕は言葉を選ばず、選んだ。
「また図書館で——」
そこまで言って、口を閉じた。
“また” と言うほど、何も始まっていない。
それでも彼女は、目尻を少しだけ下げて、うなずいた。
その「うなずく速度」が、約束になった。
桜は、まだ散らない。
二人のあいだに落ちたのは、花びらではなく——声のない挨拶だった。




