第32話 「海と月」
『砂時計』という単語が聞こえ、振り返ると、そこには誰もいなかった。
ひらりと揺れる首飾りが見えたが、それも気のせいだったのかもしれない。
気づけば頭痛は止んでいた。
「ハル?」
じっとしていると、ロイが声をかけてきた。
「⋯⋯あ」
「どうしたの?」
ぼくは、海を眺める。
滑らかな水面がうねりを繰り返している。
「そんなことよりさ、これ見てよ」
氷の木を指差す。
「なに?」
「一つ一つ形が違うんだ」
確かに、よく見てみると、木の枝や葉っぱの数、その大きさなどが微妙に異なっている。
それぞれが世界に一つだけの芸術作品のように思えた。
ひんやりと浜辺に映える彫刻。
「誰かいる」
ロイが言った。
浜辺の奥の方、ぽつんと誰かが座っているのが見えた。
波打ち際で海を眺めている。
「行ってみよう」
氷の木の列に沿って歩いた。
ザクザクという砂の感触が楽しげで、リズムを刻むように足を運んだ。
固い土の退屈さを知った。
その人は、白い髪をたなびかせていた。
チャナンを被り、顔に影を作っている。
「リン!!」
ロイが言った。
浜辺を駆ける。
彼女はこちらを向くと、すぐに海の方へ目を戻した。
遠くを、地平線のその先を見つめていた。
スアンさんがリンは海にいると言っていたが、何をしているんだろう。
まだ彼女のことを深くは知らない。
魔族の少女、人族とは何が違うんだろうか。
ロイが彼女の隣に座った。
ぼくはロイの隣に駆け寄る。
「何してるの?」
「海を見てるの」
「なんで?」
「別に」
「ここが好きなの?」
「質問ばっかりね」
浴びせかけられるロイの口撃に、彼女は面食らっているようだった。
少し声がイラついている。
沈黙が流れ、彼女は口を開いた。
「海ってさ、たまーに何かが流れてくるんだよね」
「何が?」
「だから、何かが」
浜辺を見渡すと、枝や葉っぱやら、よくわからないものがあちこちに散らばっている。
ロイはすでに枝を拾っており、バシバシと地面を叩いていた。
もう六本目だ。
「この枝も?」
「そう」
「どこから来るんだろ?」
ロイはこちらを向く。
「海の向こうの国からじゃない?」
ぼくは言う。
適当に思いついたことを、適当に言った。
「そうかもね」
リンは笑った。
初めて見る笑顔だった。
「どういうこと?」
「私たち魔族の間では、海の向こうには死者の国があるって言われてる」
「へえ」
「私はそうじゃないって、分かってるけどね」
リンは笑った。
村を出たことがあるって言っていたから、きっとそのことだろう。
その経験が、他の魔族と彼女との雰囲気の違いを生んだのだろうか。
「あれ、見たでしょ?」
後ろを指差した。
氷の木だ。
「うん」
ロイは言った。
「お墓なの。棺の中に体を入れて、浜辺の中に埋める。
その上に氷の木を魔術で作る」
「誰が?」
「亡くなった人の家族」
「だから一つ一つ違うんだ」
「そうね、みんな思い思いのものを作るから、それに、そうした方が分かりやすいしね」
「溶けないの?」
「放っておいたらもちろん溶ける。だから頻繁にここに来て、ちょっとずつ魔力を加えるの」
彼女は確か『年齢はわからないけど、人族でいう百年くらいは生きている』と言っていた。
それでもまだ子ども。
「だからここで待ってるの」
リンは言った。
チャナンのツバのせいで、顔は見えなかった。
「父が、いつ帰ってきても良いように」
その声は、波の音にかき消されるように細く響いた。
注意深く聞かないと、耳をすり抜けてしまいそうだった。
「でも天国なんてないって⋯⋯」
「ないわ。でも、待つの」
リンは、海の向こうを見つめている。
「どうして亡くなったの?」
遠慮なくロイが聞いた。
「殺した」
一言。
流石のロイもそれ以上は聞けなかった。
当然、ぼくも。
張り詰めた沈黙が続いた。
海鳥が鳴いていた。
「人族がやってきたのと同じくらいの時期。
あれからおかしくなった」
かすかな怒気を帯び⋯⋯。
「あなたたちも行きたいんでしょ?」
こちらを見る。
「でも、もう鍵を閉めちゃったから入れない。誰も入らせない」
赤く染まった目で射抜かれた。
何も言えなかった。
その言葉だけが頭に鳴った。
波の音すら、耳に入ってはこなかった。
‐‐‐
月明かりの下、海を眺め続けていた。
時間を感じるように、時間を忘れるように、変わらない景色に溶けていく。
二人が隣にいることが、現実を確かめる唯一の目印のように思えた。
「死んだらあっちに行くのかな」
ロイが言った。
「さあ」
ぼくは言った。
「天国って、海の中にあるのかな? 上?」
「中ではないんじゃない? 息出来ないし」
「じゃあ上?」
「まあ、天だし」
こんな話でも、何だか楽しかった。
見たことのないもの、想像上でしかないもの、それでもあると思っていればワクワクしていられた。
「あれ」
ロイはそう言うと、立ち上がった。
海の向こうを見つめている。
ぼくとリンも不思議に思い、追従する。
黒い点。
こちらに近づいている。
浮いたり沈んだりして、じわじわと。
しばらく見つめていると、それが何であるか分かった。
頭だ。
「ウゥ゛」
くぐもった声。
「⋯⋯なんでこんなところに」
リンが言った。
「村を守る魔法陣は?」
「海までは囲んでないわ」
水しぶきが上がり、死体の上半身が露わになった。
ボロボロの服、乱れた髪、黒い顔。
こちらにゆっくりと迫ってくる。
ロイが剣を抜いた。
しかし、アンデッドは立ち止まった。
手をだらりと下げ、こちらを見つめている。
波打ち際にいるそいつにロイは近づき、剣を振るった。
首が飛ぶ。
リンは近づき、魔術で火を点けた。
闇に灯る。
アンデッドは灰となっていった。
「まさか海から来るなんて」
リンは驚いている。
「今まではなかったの?」
「そうね、一度も」
彼女はそう答えると、一度集落の方へ行った。
しばらく経ち、茶色い大きなものを脇に抱えて戻ってきた。
息を切らしている。
近くで見ると分かったが、小さな船だった。
シンプルな作りのもので数人が入れるほど。
魚を獲るときに使うらしい。
「乗っていい?」
ロイは言う。
「ええ、ちょうど三人くらいね」
「どうするの?」
「ちょっと見回り、あと魚でも捕まえようかしら」
リンは海に船を乗っけた。
ふわりと浮かび、ぼくらが乗船するのを待っている。
リンが乗ると、ロイとぼくも合わせて飛び乗った。
勢いをつけたせいで船がぐわんと揺れた。
バランスを崩しそうになる。
船の中にあった櫂を握るとリンは船を漕ぎ出した。
月明かりが波紋を映し出し、進行方向を示している。
海を切って進んでいく。
「腹減ってきたよ」
ロイが言う。
さっきも言ってたな。
まあでも、起きてから何も食べていないので今回は同意だ。
「人族は大変ね」
「魔族は魚食っとけばいいの?」
「まあね。一日に一尾食べれば生きていける」
「なんで?」
「魔素があるから」
ロイはぽかんとしている。
ぼくもぽかんとした。
魔素がデザートなの?
よくわからない。
そんなぼくらを見てリンは微笑むと、櫂を船に置いた。
船体から身を乗り出し、手を海面にかざす。
『炎』
ささやかな声が海に落ちた。
手のひらに炎が浮かぶ。
不規則に燃えつつも、どこか一定の形を保っているようで美しかった。
「なにそれ?」
ロイが聞く。
「こうやって魚を集めるの」
ぼくらも身を乗り出し、しげしげとその様子を眺めた。
船がちょっとだけ傾く。
手に力を入れる。
「ずっと、待つの」
しばらくすると、蠢く影のようなものが見えた。
三つくらい。
ゆらゆら、ゆらゆら、水面に揺れている。
リンはもう片方の手を海中に浸した。
『氷』
その手から、いくつかの透明な槍が伸びた。
目では捉えられないほどの速さだった。
リンは体を起こすと、捕らえた獲物をこちらに見せた。
氷の槍に刺さった三匹の魚はピチピチと暴れ回っている。
「すご!!」
ロイは声を上げる。
ぼくも見惚れていた。
あっという間だ。
魚が寄ってきたと思ったらあっという間に仕留めてしまった。
さらに土魔術で串のようなものを器用に作り、魚をプスプスと刺していった。
再び炎魔術を使い焼いていく。
魚たちは、もう暴れ回ることはなく、なされるがままだった。
「ウッチャーラ・タバンナ」
こんがり焼き上がった良い匂いがし始めると、リンはぼくらの前に焼き魚を突き出した。
ぼくは受け取ろうとし⋯⋯。
「タバンナ?」
違和感を覚えた。
『タバンネン』だった気がするけど。
「男性は『タバンネン』、女性は『タバンナ』ね」
「へえ、そうなんだ。ウッチャーラ・タバンネン」
ぼくはそう言い、魚を受け取った。
ロイも同じく受け取る。
「うま!!」
ロイは言った。
「大げさよ」
リンは笑った。
カリカリの焦げ目が口当たり気持ちよく、ホクホクの身から甘さが広がった。
ちょっと味気ない気もしたけど、海の上での食事が、そんなことをすんなりとかき消してしまった。
潮風が風味を加える。
食べ終わると、三人で船の上に寝転んだ。
へりに足をかけて夜空を見上げる。
リンはチャナンを脱ぎ、床に置いた。
「少し欠けてるわ」
月を見ながら言った。
満月一歩手前のようで、あと少し夜を越えれば、真ん丸と輝くだろう。
「月は怖くないの?」
ロイが言う。
「そうね、魚たちの動きを教えてくれるから、月や星は私たちの味方」
「神様は空に住んでるって、俺は教わったけどなあ。昼と夜で違うのかな」
「色んな神様がいるんじゃない?」
三人で順番に呟くと、言葉が空まで舞っていきそうな気がした。
このまま飛んでいきたいと思った。
眠りを誘う船の揺れ。
波の声。
風。
月は欠けている。




