第16話 「葛藤」
暗い夜道をトボトボ歩く。
腕を組んで寒さを凌ぐ。
辺りはしんとしている。
レイナは、無事に帰れただろうか?
やっぱり追いかけるべきだった。
渦巻く後悔は止まらない。
気持ち悪い吐き気が喉元にまで、押し寄せる。
浮浪者のような男がこちらを見ている。
ボロボロの真っ黒い衣を着た禿頭の男。
血走った目は、そこだけ生気が通っているようで、ガラクタの死体のように見えた。
目が合った。
『浮浪者はお前だ』
そう言われた気がした。
足元をネズミが走る。
腐った肉を咥えている。
そいつはこちらを見て、何事もなかったかのように道を横切る。
どうか、朝にならないで。
朝日は痛い。
苦しい。
このまま、落ちてきた夜に潰されたい、
ぼくは、もう倒れてしまいたくなり、そのとき、声がした。
「ハルくん!!!」
先生が立っていた。
こちらに駆け寄ってくる。
「何してたんだ!? もうこんな時間じゃないか!!」
長い髭は大きく揺れる。
「ごめんなさい」
ぼくは言った。
「レイナは先に帰らせたよ。トマと一緒に」
「⋯⋯そうですか」
ぼくは言った。
「とにかく帰ろう。もう、夜だ」
「⋯⋯はい」
ぼくは、言った。
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朝日が差し込む。
いや、もう昼だ。
ベッドから起き上がる。
ぐうとお腹が鳴った。
一人の部屋に響く。
ロイはいない。
もう訓練に行っているのだろう。
『起きたら私の部屋に来なさい』と先生は言っていた。
自室を出て、廊下を通る。
先生の部屋の前まできた。
ノックする。
「入りたまえ」
「失礼します」
先生は椅子に座っていた。
風のような笑顔をしている。
「まあ、かけたまえ」
先生は言った。
「はい」
ぼくは座った。
何から言えばいいのだろう。
頭の中で言葉が巡る。
適当な言葉を探す。
「レイナは⋯⋯どうしてますか?」
ぼくは聞いた。
「部屋から出てこない。昨日からずっと」
先生は答えた。
ぼくのせいだ。
「ロイくんは朝から剣を振っているよ。
たまにやりすぎるから止めるのが大変だ」
先生は笑った。
ぼくは口角を上げる。
「珍しい飲み物があってね、一緒に飲もう」
「⋯⋯ありがとうございます」
机に二つ、ガラスのコップが置いてあり、片方を渡された。
珍しい飲みもの。
どんな味なんだろうか。
「帝国から仕入れてきたものでね。
コーヒーというのだが、これが結構美味しいのだよ」
先生はゆっくりとコップを口に運んだ。
ぼくも合わせて飲む。
苦い。
「どうかな?」
正直、あまり美味しくはない。
でもきっと高価なものだし、そう言えるわけもない。
なんて答えよう。
「⋯⋯美味しいです」
「君は嘘が下手だ」
先生は笑う。
恥ずかしくなる。
だって、正直に言えるわけないじゃないか。
それからしばらく談笑し、十分ほど経ったころ、先生は窓の外を眺めた。
空は晴れ渡り、大きな入道雲が出ている。
「では⋯⋯昨日のことについて、教えて欲しいのだが」
ぼくはそこから、昨日のことを全て正直に、話した。
「⋯⋯なるほど」
先生は斜め上を見て言った。
「レイナを守ったのはかっこいいじゃないか。
私からも感謝だ。しかし、君は悩んでいる」
「はい」
「何が、君を悩ましているのだろう」
先生はぼくの目を見る。
「あのとき、かける言葉はあれで良かったのか、だめだったのか、分からないんです。
そして、これからかける言葉も」
ぼくは続ける。
「あれは安物の言葉で、もっと選ぶべき選択肢があったはずなんです」
先生は斜め上を見る。
ゆっくりとこちらを向く。
「それはないな」
「選ぶべき言葉などありはしない。選ばないべき言葉、はあるがね。
あのときあの瞬間、誰に最適な言葉を選べようか。
いや、そうではないな⋯⋯」
顎に手をやる。
「言葉なんてただの道具だ」
「単なる心の表現手段であり、そこには使う人間がいるだけ。
そこに安いも高いもない」
先生は言った。
「はあ⋯⋯」
そうなんだろうか。
「大事なのは心の方、接し方だ。
人と関わる態度の方だね」
「でも、それも分からなく⋯⋯」
「違う」
「怖いんだろう。
どうしようもなく、人と関わることが怖いんだ」
その言葉は、濁流のようなぼくの思考を一瞬、押し留めた。
選ぶべき言葉じゃない。
もっと根本的なこと、心の奥の方に、見えない傷が膿んでいる。
それは、長い年月をかけて広がっているようだけど、それでも、深く心を抉っていた。
なぜ怖いのだろう?
人と関わることの、なにが怖いのだろう?
触れすぎないように、傷つけないように、心の中を両手で広げる。
じめっとしていて、ドロッとしていて、雨に濡れた土のようだった。
奥まで手を伸ばす。
「人と関わるにはね、勇気がいるんだ。
優しくするにはもっといる。
でも、それは自分を捨てる勇気ではないし、思考停止に突っ込む勇気でもない。
相手の心にそっと触れる勇気だ」
あのとき、ぼくは何か言わなきゃと思って、ただ言葉を吐き出しただけだった。
なぜ、そうしたのだろう。
レイナを慰めたかったから?
それもある。
でもそれだけじゃない。
逃げたかったのか?
あの沈黙から、あの状況から。
それもある。
でもそれだけじゃないんだ。
もっと、ぼくは⋯⋯。
「勇気を、出したのではないか?」
「どうしようもなく弱った心で、君は必死に勇気を出した。
言葉によって、相手を救済するために」
確かに、とにかくぼくは、勇気を出そうと思った。
出さなきゃと思った。
どうして?
そのとき、あの日の記憶が蘇った。
あの事件の日の記憶。
心の奥深くにある、吐瀉物の塊のようなものを掴んだ。
そうだ。
罪悪感があったんだ。ずっと。
ロイの家のことが浮かぶ。
嫌な場所だった。
誰も自分を見てくれない、二度と帰りたくない場所だった。
憂鬱を吐き出すこともできなかった。
そしてあの事件が訪れた。
それは光のようで、救いのようで、神様からの贈り物だと思った。
嬉しくなった。
もう、あの場所を離れられる。
だから逃げた。
だから、逃げちゃいけないと思ったんだ。
目の前には悲しんでいる女の子。
少し仲良くなって、できる気になっていた。
でも怖い気持ちはあったし、逃げたかったし、失敗して嫌われたくもなかった。
『お前は逃げ続けるのか?』
そう思った。
そして言った。
讃美歌が流れてきて、彼女は礼拝堂にいつもいたから、教えの中にあった『平等』なんていう、甘くて残酷な言葉を軽々しく、口走ってしまった。
ぼくは、逃げてしまうのが怖かった。
そんな自分が嫌だった。
勇気を、出したかったんだ。
でもそれは、レイナのためじゃない。
「自分の身勝手な願望を、レイナにぶつけてしまいました」
「そうか⋯⋯じゃあ、次は大丈夫だね」
「まだ不安だけど⋯⋯やってみます」
ぼくは言った。
「いいかね、心とは、言葉より先にあるものだ。
傷つきやすいから慎重にいけ。
時間をかける勇気を持て。
そして恐怖とは威嚇だ。相手に向けないように」
ぼくは立ち上がる。
「心の扉はそっと開けろ。いや、その前に深呼吸だ」
「はい」
窓から入る光は、ぼくを貫くほどに強烈だった。
でも、背中を押してくれているようにも思えた。
「あと一つ、ノックも忘れずにね」
先生は風のように笑う。
ぼくは部屋を出る。
廊下を通り、曲がり角を右に曲がる。
ぼくの部屋の向かい側。
扉の前に立ち、深呼吸。
三回ノックした。
「レイナ⋯⋯いる?」




