第13話 「日々」
彼女はすぐに顔を逸らして一階に降りていった。
手には食器の乗ったお盆があった。
その目は、弱々しく染まっていた。
すれ違ったときのふわりとした風が、妙に感触に残り、鼓動を速めた。
心臓を手で握っているかのようだった。
ぼくは、それが空気に触れないように包み込むように抑え、温もりを帯びた顔を隠すように、暗闇に溶け込む。
「さあ、あちらが寝室でございます」
使用人が言った。
「はい」
ぼくは言った。
抜け殻のような言葉だった。
寝室に入ると、二台のベッドがあり、その真ん中にこじんまりと輝くロウソクの炎があった。
呼吸をすると消えてしまいそうなそれは、ぼくの心を縁取っているようで、フッと消してしまわないよう息を、こらえた。
「それではごゆっくりと。朝、また伺いますね」
使用人は去って行った。
ぼくはよろよろとベッドまで歩き、横になる。
天井を見上げる。
眠りに落ちた。
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「ハルー?」
体が揺れている。
いや、揺すられている。
「朝だよ」
目を開けると、ロイの顔があった。
「おはよう」
ぼくは言った。
「おはよう」
ロイは言った。
「トマさんが起きろって」
「うん⋯⋯」
トマさんとは、昨日ぼくたちを案内してくれた方だ。
「あとちょっとだけ寝させ⋯⋯」
「だめ」
「え」
「だめ」
「⋯⋯はあ」
起きた。
「フランソワさんの部屋に行けって」
「なんで?」
「話があるんじゃない。俺たちが今後どうするかとか」
「たしかに⋯⋯」
ぼくはベッドから降りた。
横の机には服が置いてあった。
「これは?」
「着替え」
薄緑色の落ち着いたシャツと、黒い半ズボンだった。
ロイは空色のシャツを着ている。
意外に準備がはやい。
ぼくは着替え、そのまま部屋を出た。
「どこ?」
ぼくは聞いた。
「こっちこっち」
ロイは左手に進み、曲がり角を曲がった、
廊下にはいくつかの絵画が飾られており、それらは魔神教の聖人やら物語やらを描いた物のようだった。
特に目を惹いたのは、椅子に座る後ろ姿の女性の絵で、その人は頭を屈めて何かを祈っているようだった。
彼女の前の壁には、大きな輪っかが飾られている。
「ハル?」
ロイの呼び声でハッとする。
「あ、ごめんごめん」
ぼくは慌てて追いつく。
「ここだよ」
そこには扉があった。
何の装飾もない簡素なものだ。
ここがフランソワさんの部屋らしい。
ロイは扉をノックした。
コン、コン、と二回。
それは使用人の部屋を開けるときの回数だ。
コン、とぼくは追加で叩く、
というか二人で三回叩くのはだめかな。
いや、相手側には分からないからいいのかな。
いや、でも礼儀というのは形式なのであって。
いや、愛と平和というの⋯⋯。
「入りなさい」
そんなことを考えていると、フランソワさんの声が聞こえた。
ロイが扉を開ける。
「失礼します」
その部屋は、何というか、情報の多い部屋だった。
机に山積する無数の本、壁に乱雑に書かれた数式、人間の頭ほどもある地球儀。
そして、ぼくの足元にいる、小さな羽の生えた、二足歩行を始めたトカゲのような丸っこい生き物⋯⋯。
「ををををををを!!!!!」
なんだこいつは!?
かわいい!!
「何なんですかこの生き物は!?」
ぼくは声を張り上げた。
ロイは耳を抑えている。
「ああ、そいつはウル大山脈に行ったときに拾ってきたのだ」
拾ってきた!
「なぜ!?」
「見たことのない生き物だったからね」
フランソワさんは言った。
「名前は?」
「そうだな⋯⋯」
斜め上を見る。
「⋯⋯トカゲ」
「今考えたじゃん」
「トカゲだし」
「はあ」
「まあとにかく座りなさい」
「⋯⋯はっ、すいません」
ぼくたちは、フランソワさんが座っている横にある椅子に座った。
「これからのことだが⋯⋯君たちはどうしたい?」
空気がキンと張り詰めた。
「⋯⋯正直⋯⋯よくわかりません」
ぼくは答えた。
「でも、ひとつだけ確かなことは、あの城の光景が頭にこびりついて離れないということです」
「そうか。いいことだね」
フランソワさんは風のように笑った。
ロイも頷いている。
「しかし、あの事件のことだが⋯⋯正直だれにも何も分かっていない、というのが現状のようだ」
「⋯⋯はい」
「ただ」
「希望はある」
彼はぼくらを見つめた。
「君たちの向かい側の部屋、そこに少女がいる。
レイナ、というそうだが、それ以上のことは喋ってくれない」
彼女のことだ。
「それが⋯⋯?」
「彼女は、あの城の中で発見された。
捨てられたのか、何なのか、よくわからないが、まあとにかく唯一の関係者というわけだ。
そして数日前に彼女を預かり、私は調査に行こうと思った。
君たちを助けたのも、彼女のついでというわけさ」
「なぜ、フランソワさんの家にいるんですか?」
「先に調査に行った私の仲間が、城内で賊に捕まっていた彼女を助けた。
騎士団に見つからなかったのは幸いだったがね」
フランソワさんは窓の外を眺めた。
表情は読み取れない。
「あの娘は喋ってくれないんですよね?」
ロイが言った。
「ああ。心を閉ざしてるようでね。
たまに一階に降りてくるくらいだ」
「うーん⋯⋯」
「まあ、彼女のことは君たちに任せるよ。
同年代の方が話しやすいだろうしね。
あの事件のことも聞けたら聞いてくれ」
難しい任務だ。
ぼくもロイも、そういうことが得意ではない。
「と、言うわけだが、君たちはまだ子どもだ。
私は教師で、子どもを預かる責任もある」
「勉強⋯⋯ですか?」
結局、また同じことだ。
故郷にいても、クラリス家にいても、結局、やることは変わらない
「まあそう構えるな。
私も仕事があるし、頻繁に教えられるわけではない。
同年代の子たちが学んでいることくらいは知っておいた方がいい」
ロイも嫌そうだった。
ぼくも嫌だけど、断ることはできないし、仕方ない。
覚悟を決めるしかないのだ。
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それから数ヶ月が過ぎたある日のこと、ぼくは講義を受けていた。
先生は自室の壁に大きな紙を貼って、それを棒で指しながら教鞭をとる。
ぼくの膝の上にはトカゲ。
「分かるかー?
この運動に注・目・する・から!
この値が出てくるんだ」
「私を信じてくれ。
ぜっっっったいに分からせるから!
呆れるほど分からせるから!
まず君は、根・本・的に間違えてる。数は記号じゃない」
「数は、言葉だ」
雷に打たれる。
味わったことないほどの快感。
これが数学か。
これが、学問か。
「暗記じゃねえぞ。いいか?
暗記じゃねえからな?」
「理解しろ」
先生は、授業になると人が変わったように目が血走りだすけど、その熱量がぼくには新鮮だった。
何よりも、先生自身が楽しんでいるんだと思う。
勉強は、意外と面白い。
「⋯⋯まあつまり、魔素について考えるときにも、数学は使われるんだ。
魔術物理学はまだ新しい分野だから、分かってないことの方が多いのだがね」
先生はぼくの前の椅子に座った。
トカゲの頭を撫でる。
噛まれる。
「うん、それで、調子はどうかね?」
「はい、長距離走も距離が伸びてきました」
長距離走とは、今流行りのトレーニングメソッドだ。
仕組みはよく分かっていないらしいが、走れば走るほど魔力が増えるらしい。
先生は、呼吸に集中することで魔力を回復しやすくなる事と何か関係があるのではないか、と推測していた。
まだまだ世界は広い。
「レイナ⋯⋯はどうですか?」
「数カ月くらい前からかな、少し話してくれるようになったよ」
結局、先生のほうが向いていたんじゃないか。
「何を話すんですか?」
「⋯⋯日常的な事とか⋯⋯そういえば、『欲しいものはないか』と聞いたときに『本が読みたい』と言われたよ」
「遠慮ないですね」
「まあ、家に沢山あるからね。いくつか買ってあげたよ」
先生は風のように笑った。
「どんな本ですか?」
「主に言語に関する本だったね。興味があるみたいだ。
あとはこの国の風俗や歴史の本とか」
女の子なのにそんなことに興味があるのは珍しい。
「まあ、君も頼むよ。
最近、司祭としての仕事も忙しくてね」
「はい⋯⋯」
うーん。
そう言われても。
人と関わること自体苦手なのに、女の子だなんて。
ロイはずっと剣を振っているし。
ぼくは、頭を悩ませていた。
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そんな勉強したり、家事を手伝ったりする日々を過ごし、あっという間に一年が経った。
城の事件については調査が打ち止めになったようで、あまり進展はない。
ぼくたちのことについては、先生はあまり深く聞いてこなかった。
居心地の良さを感じた。
レイナとは、まだ一言も話せてはいない。




